正面玄関百人秀歌と百ト一首歌枕47春の夜の月水無瀬離宮定家略年譜86話語り



 

 ◆ 式子内親王と定家  (2018/1/5)

 この「86話語り」を書き始めて第9話まできてみると、43首の恋の部立てに入っている歌の詞書が気になり始め各首調べてみました。

  「百人秀歌と百ト一首」のサイトにおいて、俊頼(74)の二つの歌が両集をつなげていると書きましたが、 百人秀歌にのみ入首している3首は何故この3首だったのでしょう。

  「定家略年譜」が成立するなら、百ト一首の配列が先にできていて、最後の3首、後鳥羽院 (99)、順徳院 (100)、為家 (101)と差し換えた 一条院皇后宮(秀53)、国実(秀73)、長方(秀90)の3首にどの様な意味があったのでしょう。

 「定家略年譜」のサイトで、【後堀河院より勅撰集編纂のご下命を賜った71歳「ゆうされば」(71)からの31首はそれまでと また違った意図をもって並べたと思われます。】と言及しました。

 ところで、そういう風に「ゆふされば」(71)を眺めていると、「あきのたの」(1)、「さびしさに」(70)、「ゆふされば」(71)の3首は、それぞれに、 「仮庵の庵」、「宿」、「蘆のまろや」とあり、「その中で耐える者」、「そこから出でる者」、「そこへ訪れる者」と三首三様に描かれてます。

 因みに、「庵」の歌はもう1首「わが庵は」(8)があり、「そこでしかと住む者」となります。あえてもう1首あげるなら「みよしのの」(94)の 「その中で務めている者」があり、全部で5首になりました。10X10のマスを作って当てはめると、5首とも外枠に位置し五角形が出来ます。 今までと同様に「五」に関することを見つけました。

 「宿」の歌は、他に「やへむぐら」(47)と「やまざとは」(28)もその中にはいるでしょうが、どちらも人がいない、来ない。来るのは、秋と冬です。 その他にも「あさぼらけあ」(31)、「ひとはいさ」(35)、「ももしきや」(100)などは、雪、花、しのぶ草となります。

 
 庵の歌 5首    
1 8
11
21 28
31 35
41 47
51
61 70
71
81
91 94 100


 註:「五」を基本単位とし、その組み合わせによって物事が成り立つという発想がある。原初的な五行の意味について総括しておくと、 五行の「五」とは、水火木金土を指し、五気・五材とも呼ばれ、人間にとって必要な材料、道具、倉の類だった。その水火木金土が、天の監視のもと、 天上という空間を絶え間なく駆けめぐっており、この五気を天が人間に与えることで、人間は五気を材料・道具として生活に役立てることができるという意味が、 五行には込められているのである (陰陽五行、稲田義行、日本実業出版社)。

 話が横にそれてしまいました。元に戻して、まず、このサイトで関係する歌を書き出しておきます。

 「百人秀歌」に入れられた3首
一条院皇后宮 (後拾遺集 哀傷 536)
 よもすがら ちぎりしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき (秀53) 
権中納言国実 (新古今集 春上 10)
 春日野の 下萌えわたる 草の上に つれなく見ゆる 春の淡雪 (秀73) 
権中納言長方 (新古今集 恋一 1075)
 きのくにの ゆらのみさきに 拾ふてふ たまさかにだに 逢い見てしかな (秀90) 

 両集で異なった歌を選ばれた歌人の2首
源俊頼朝臣 (金葉集 春 50)
 山桜 咲き初めしより ひさかたの 雲居に見ゆる 滝の白糸 (秀76)
源俊頼朝臣 (千載集 恋二 708)
 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ 激しかれとは 祈らぬものを (百74)

 定家が後鳥羽院より勅勘を蒙る原因となった2首
権中納言定家 (拾遺愚草 述懐 2602、2603)
 さやかにもみるべき山はかすみつゝわが身の他も春の夜の月
 道のべの野原の柳したもえぬ あはれ歎きの煙くらべに

 それでは、各勅撰集の恋の部立てに入首している44首の詞書を書き出してみましょう。
 

       
● 二つの101首集の恋の部の歌、「百ト一首」より43首、「百人秀歌」より1首の詞書 

番号 初句    詞書と註
3 あしびきの 拾遺集  巻134 恋三 778 「題しらず 人麿」
13 つくばねの 後撰集  巻11 恋三 776 「釣殿のみこに遣はしける 陽成院御製」 釣殿のみことは、綏子(すいし)内親王。  光孝天皇(15)の第三皇女。884年源朝臣姓をあたえられたが,同母兄の宇多天皇即位後,891年内親王となる。陽成妃となる。925年死去。
14 みちのくの 古今集  巻14 恋四 724 「題しらず 河原左大臣」
18 すみのへの 古今集  巻12 恋二 559 「寛平の御時きさいの宮の歌合の歌 藤原敏行朝臣」 (寛平の御時 889〜898年)
19 なにはがた 新古今集  巻11 恋一 1049 「題しらず 伊勢」
20 わびぬれば 後撰集  巻13 恋五 960 「事いできてのちに京極の御息所につかはしける 元良親王」
京極の御息所とは、 時平の娘褒子(ほうし)。宇多天皇の女御 宇多天皇(867‐887‐897‐931) 910年代?の事件か。この歌は「拾遺集 巻12 恋二 766 題しらず」として重複している
21 いまこむと 古今集  巻43 恋四 691 「題しらず 素性法師」
25 なにしをはば 後撰集  巻11 恋一 700 「女のもとにつかはしける 三条右大臣」
27 みかのはら 新古今集  巻11 恋一 996 「題しらず 中納言兼輔」
30 ありあけの 古今集  巻13 恋三 625 「題しらず 壬生忠岑」
38 わすらるる 拾遺集  巻14 恋四 870 「題しらず 右近」
39 あさじふの 後撰集  巻9 恋一 578 「人につかはしける 源ひとしの朝臣」
40 しのぶれど 拾遺集  巻11 恋一 662  「天暦の御時の歌合 平兼盛」  天徳4年3月30日内裏歌合960年
41 こひしてふ 拾遺集  巻11 恋一 661 「天暦の御時の歌合 壬生忠見」960年
42 ちぎりきな 後拾遺集  巻14 恋四 770 「心変り侍りける女に、人に代りて 清原元輔」
43 あひみての 拾遺集  巻12 恋二 710 「題しらず 権中納言敦忠」
44 あふことの 拾遺集  巻11 恋一 678 「天暦の御時歌合に 中納言朝忠」
45 あはれとも 拾遺集  巻15 恋五 950 「物いひ侍りける女の、後につれなく侍りて更にあはず侍りければ 一条摂政」 物語「一条摂政御集」
46 ゆらのとを 新古今集  巻11 恋一 1071 「題しらず 曾禰好忠」
48 かぜをいたみ 詞花集  巻7 恋上 31  「冷泉院、春宮と申しける時、百首の歌奉りけるによめる源重之」967年以前に成立
49 みかきもり 詞花集  巻7 恋上 225 「題しらず 大中臣能宣朝臣」
50 きみがためを 後拾遺集  巻12 恋二 669 「女のもとより帰りて遣はしける 少将藤原義孝」
51 かくとだに 後拾遺集  巻11 恋一 612 「女にはじめてつかはしける 藤原実方朝臣」
52 あけぬれば 後拾遺集  巻12 恋二 672 「」
53 なげきつつ 拾遺集  巻14 恋四 912 「入道摂政まかりたるけるに、門を遅くあけければ、立ちわづらひぬといひ入れて 侍りければ 右大将道綱母」入道摂政(藤原兼家)
54 わすれじの 新古今集  巻13 恋三 1194 「中関白かよひそめ侍りけるころ 儀同三司母」中関白(藤原道隆)
56 あらざらむ 後拾遺集  巻13 恋三 763 「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける 和泉式部」
58 ありまやま 後拾遺集  巻12 恋二 709 「かれがれなる男の、おぼつかなく、などいひたるによめる 大弐三位」
59 やすらはで 後拾遺集  巻12 恋二 680  「中の関白、少将に侍りける時、はらからなる人に物いひわたり侍りけり、  たのめて来ざりけるつとめて、 女にかはりてよめる 赤染衛門」 中の関白(藤原道隆)、少将の頃(974年〜977年)
63 いまはただ 後拾遺集  巻13 恋三 750 「伊勢の斎宮わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、 おほやけも聞こしめて、守りめなどつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければよみ侍りけり 左京大夫道雅」1017年のこと
65 うらみわび 後拾遺集  巻14 恋四 815 「永承6年内裏歌合に 相模」 1051年
72 おとにきく 金葉集  巻8 恋下 再奏本469 三奏本464 「堀河院御時艶書合によめる」 1102年  この歌は、「人知れぬ思ひありその浦風に波のよるこそいはまほしけれ 中納言俊忠」の返歌 俊忠は定家の祖父
74 うかりける 千載集  巻12 恋二 708 「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時、祈れどもあはざる 恋といへる心をよめる 源俊頼朝臣」
77 せをはやみ 詞花集  巻7 恋上 229  「題しらず 新院」 久安百首
80 ながからむ 千載集  巻13 恋三 802 「百首の歌奉りける時、恋の心をよめる 待賢門院堀河」 久安百首
82 おもひわび 千載集  巻13 恋三 818 「題しらず 道因法師」
85 よもすがら 千載集  巻12 恋二三 766 「恋の歌とてよめる 俊恵法師」
86 なげけとて 千載集  巻15 恋五 929 「月前恋といへる心をよめる 円位法師」 円位法師(西行)
88 なにはえの 千載集  巻13 恋三 803 「摂政 右大臣の時の家の歌合に旅宿逢恋といへる心をよめる 皇家門院別当」
89 たまのをよ 新古今集  巻11 恋一 1034 「百首の歌の中に忍恋を 式子内親王」
秀90 きのくにの 新古今集  巻11 恋一 1075 「」
90 みせばやな 千載集  巻14 恋四 886 「歌合し侍りけるとき恋の歌とてよめる 殷富門院太輔」
92 わがそでは 千載集  巻12 恋二 760 「寄石恋といへる心を 二条院讃岐」
97 こぬひとを 新勅撰集  巻13 恋三 849 「建保六年内裏の歌合、恋の歌 権中納言定家」 1216年
 
   百ト一首の71番から101番     
71
72 おとにきく金葉集 恋 73 たかさごの後拾遺集 春桜 74 うかりける千載集 恋 75 76
77 せをはやみ詞花集 恋 78 79 80 ながからん千載集 恋
81 82 おもひわび千載集 恋 83 84 85 よもすがら千載集 恋 86 なげけとて千載集 恋 87 88 なにはへの千載集 恋 89 たまのをよ
新古今集 恋
90 みせばやな千載集 恋
91 92 わがそでは千載集 恋 93 94 95 96 はなさそふ新勅撰集 雑桜 97 こぬひとを新勅撰集 恋 98 99 100
101 たちのこす新勅撰集 春桜
   

・金葉集 「おとにきく」(72) 1首
・詞花集 「せをはやみ」(77) 1首
・千載集 「うかりける」(74) 千載集には8首の恋の歌がありますが、この歌は百ト一首の方にだけある歌です。
・新古今集 「たまのをよ」(89) 1首
・新勅撰集 「こぬひとを」(97) 1首

 72番の「おとにきく」の歌は、「堀河院艶書合」(1102年)での返歌。
人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ いはまほしけれ 権中納言俊忠 (定家の祖父)
 ・人知れぬ思いを抱いているから、ありその浦風によって波が寄るように、夜、声をおかけしたい。
 返し
音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ 一宮紀伊
 ・評判の高い高師の浜のいたずらに立つ波は、かけますまいよ、袖がぬれるといけませんから。うっかり心にかけて跡で袖が涙でぬれるといけませんから。

 74番の「うかりける」の歌は、権中納言俊忠の家での歌会において詠まれた歌
 祈れどもあはざる恋といへる心をよめるという題の趣旨を作り出したもの。
うかりける 人を初瀬の 山おろし はげしかれとは 祈らぬものを 源俊頼朝臣
・私につらかった人を(なびくようにと)初瀬の観音にお祈りしたのだが...初瀬の山おろしよ、(私に対するあの人のつらさがお前のように)はげしく あれとは祈らなかったのに(いよいよはげしくなってしまったよ)。

 平安時代の後半から和歌の世界は題詠歌のなかに技巧を凝らした歌や本歌取りと言われる手法が主流になっていきます。

 上の百ト一首の71番からの図を見た時、式子内親王と定家が浮かび上がってきました。男女別で見てみると、
≪女流歌人≫
1金葉集「おとにきく」(72) 
2千載集「ながからん」(80)
3千載集「なにはえの」(88)
4千載集「みせばやな」(90)
5千載集「わがそでは」(92)
★新古今集「たまのをよ」(89) 

≪男性歌人≫
1詞花集「せをはやみ」(77) 
2千載集「うかりける」(74)
3千載集「おもいわび」(82)
4千載集「よもすがら」(85)
5千載集「なげけとて」(86)
★新勅撰集「こぬひとを」(97) 

 定家は、この歌集の中で二人を昇華させたのです。業平(17)や元良親王(20)のように斎宮や御息所のもとへ通ったりするようなことは、 式子内親王と定家の間ではなかったでしょう。業平(17)のような生き方に憧れたかもしれませんが、式子内親王を歌人として認めていたでしょうし 師弟愛のようなものもあったかもしれません。定家は、色々な思ひを百ト一首の中に収めることによって永遠の愛にしてしまったのです。

 「おとにきく」(72)以降、予定された催しのために十分な準備で練り上げられたもの、生活の中から奔り出たのではなく芸術的意図で 構成されたものである。前半の歌に比べれば芸術的完成度は高いだろう。しかし一首一首に作者の個性がけざやかに躍動するおもしろさは、もはや消え失せた。 それは王朝の衰退につれて女性の役割が後景に退き、生き方がつつましさと息苦しさを加えていく中世への推移を、ごく自然に反映している。 (百人一首の作者たち 目崎徳衛 角川ソフィア文庫 参照)
 
   百人秀歌の71番から101番
71 もろともに金葉集 雑桜 72 たかさごの後拾遺集 春桜 73 かすがのの新古今集 春 74 おとにきく金葉集 恋 75 うらみわび後拾遺集 恋 76 やまさくら金葉集 春桜 77 せをはやみ詞花集 恋 78 ながからん千載集 恋 79 80
81
82
83 おもひわび千載集 恋 84
85 よもすがら千載集 恋 86
87
88 なげけとて千載集 恋 89 なにはへの千載集 恋 90 きのくにの新古今集 恋
91 みせばやな千載集 恋 92 たまのをよ新古今集 恋 93
94 わがそでは千載集 恋 95 96
97
98
99 100こぬひとを新勅撰集 恋
101 はなさそふ新勅撰集 雑桜
 
 以下の5首は、百ト一首の60番代から移動してきた2首、65番「うらみわび」(秀75)と66番 「もろともに」(秀71)。差し換えられた俊頼の歌、「やまざくら」(秀76)。百人秀歌だけにある2首、「かすがのの」(秀73)と 「きのくにの」(秀90)です。

・(秀71)もろともに(66)、
・(秀73)かすがのの、
・(秀75)うらみわび(65)、
・(秀76)やまざくら ← うかりける(74)
・(秀90)きのくにの

 差し換えられたもう一首、
よもすがら ちぎりしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき (秀53)  一条院皇后宮 (後拾遺集 哀傷 536)
 ・夜通し言い交した約束をお忘れでないのなら、私を恋しくお思いになってお流しになるあなたの涙の色が紅かどうか拝見したいものです。訳注1)
 一条天皇後宮で寵愛を一身に受けた定子は、没落した中関白家の道隆の娘です。いつの世も政権に負けた家系の末期は哀れなもので、 一条天皇の第一皇子である定子母の敦康親王は、道長の政権に負け東宮になれませんでした。文徳天皇皇子の紀静子母の惟喬親王を思い起こさせます。

 定家の時代にも建久七年の政変(1196年)という九条兼実が関白を罷免され失脚した事件がありました。九条兼実女の後鳥羽天皇中宮任子は皇子を もうけられず内裏から退去させられたのです。定家も九条家の家司として後鳥羽院に認められるまでの数年間閉塞感著しい生活を送ることになります。

春日野の 下萌えわたる 草の上に つれなく見ゆる 春の淡雪 (秀73)  権中納言国実 (新古今集 春上 10)
 ・春日野の地面から一面に萌え出ている草の上に、まだ消え残って無情に見える春の淡雪であることよ。 訳注1)

 「下もえ」というとすぐに思い起こすのが、「春の夜の」(67)の周防内侍の歌です。
恋ひわびて ながむる空の 浮雲や 我が下もえの 煙なるらむ 
 この歌が不吉であると言われていますが果たしてそうでしょうか。

春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそ惜しけれ(67)
恋ひわびて ながむる空の 浮雲や 我が下もえの 煙なるらむ 

 この2首から思い起こさせるのが定家が後鳥羽院から勅勘を受ける原因となった2首です。
さやかにもみるべき山はかすみつゝわが身の他も春の夜の月
道のべの野原の柳したもえぬ あはれ歎きの煙くらべに 

下燃えに 思ひ消えなむ けぶりだに 跡なき雲の はてぞかなしき  皇太后宮大夫俊成女 (新古今集 恋二 1081)
 ・私はひそかにあの人を思い焦がれて死に、空に立ち昇る荼毘の煙さえも跡をとどめない雲となってしまうのだろう。そのような恋のかなしいこと。訳注2)

 この歌は、後鳥羽院の命により新古今集の恋二の巻頭歌になったものです。それから15年後に定家は上の歌によって勅勘を受けました。歌と言うのは その時の状況により人は勝手に逸話をつけたり、勘違いをしたりするものですが、周防内侍や定家はその時どの様な思いだったでしょう。「名こそ惜しけれ」 の一言に尽きると思います。

きのくにの ゆらのみさきに 拾ふてふ たまさかにだに 逢い見てしかな (秀90)  権中納言長方 (新古今集 恋一 1075)
 ・紀伊の国の由良の岬で拾うという美しい珠、その珠ではないが、たまにでもいいから恋人に逢いたい。 訳注2)

 この歌から思い起こすのが「ゆらのとを」(46)です。
由良の門を 渡る舟人 梶を絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな  曾禰好忠 (新古今集 恋一 1071)

 曾禰好忠は、寛和元年(985)、円融院の紫野御幸のさいに追い出された話がある。定家も承久二年(1220)、後鳥羽院に勅勘を受けた。

 曾禰好忠は、官位の低さにつねに身の不遇さを痛感していた。定家も晩年を除いてずっと嘆いていた。

 曾禰好忠は、異端歌人だった。当時の歌の概念からかけ離れていた。定家しかり。「後鳥羽院御口伝」において痛烈に批判された。

 曾禰好忠は、百首歌の創始者の一人。三百六十首歌など定数歌の展開など独自の詠風によって後世に多大な影響を与えたが、 不遇のまま人生を終えた。 定家は、九条家、西園寺家の庇護の元、後世に名を残し、歌道の家として存続した。

訳注1)「百人一首の正体」(吉海直人 角川ソフィア文庫)
訳注2)「新古今和歌集」(久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)
         


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