正面玄関百人秀歌と百ト一首歌枕47春の夜の月水無瀬離宮定家略年譜八七話語り


 
 
◆ 都 の 辰 巳 に 新 水 無 瀬 離 宮

★ 百人一首は百人秀歌と同様に101首集であると仮定して、まずは101という数字の性質を調べてみた。
   (数字の101について性質wikipedia)

A 101は26番目の素数である。
2 3 5 7 11
13 17 19 23 29
31 37 41 43 47
53 59 61 67 71
73 79 83 俊成 89 式子 97 定家
101 為家











 
B 101と103は9番目の双子素数である。
  5番目の双子素数は29 & 31。
2&3 5&7 11&13 17&19 29&31
41&43 59&61 71&73 101&103






29番 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花

31番 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

 白菊の花は後鳥羽院が好まれた花であり、継承され、慣例となって皇室の御紋である十六八重表菊となっている。通称「菊の御紋」と言われている。 7世紀頃から吉野に離宮があり、天智天皇の弟、大海人皇子がここで挙兵して「壬申の乱」が起こった。その後も各天皇によって吉野宮へ行幸した。(wikipedia)
 
C 101は5番目の交互階乗である。5!-4!+3!-2!+1!。
  一つ手前は19。120-24+6-2+1=101
19番 難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや


 
D 101 は6番目の回分素数である。つまり、前から読んでも後ろから読んでも素数となる。
  一つ手前は5番目の11。(2,3,5,7,11,101)。
11番 わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟


 
E 101は5つの連続した素数の和となる。
  13+17+19+23+29=101
101番 たちのこす こずゑも見えず 山桜 はなのあたりに かかる白雲


 
F 1÷101=0,0099….. (下線部は循環説。この循環節の長さは4である。) 99番 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は 


★二つの101首集のなかの11首は共通番号を持っているので関連性を調べてみた。
 
    ( 1 2 3 4 19 20 32 44 77 84 85 )  11首の共通番号の二乗数については、本当に偶然に気がついたのですが、素数や、 陰(偶数)、陽(奇数)の数字を眺めているうちに、これは平安時代に信仰が盛んであった陰陽道に則って二つの101首集を検証してみなければなら ないと思うようになりました。 
1+2+3+4+19+20=49 7の2乗  
1+2+3+4+19+20+32=81 9の2乗  
41+77=121 11の2乗  
84+85=169 13の2乗  



◆ 陰 陽 五 行 に 当 て は め る 1

 五行とは、木、火、土、金、水の五要素を射し、これらが世界のあらゆるものを構成する基礎となる、というのが五行説の考え方なのだが、 それにしたがえば、それぞれ、青、赤、黄、白、黒と いう色が配当される。五行とは、人間が生活を営むに当たり、絶対に欠かすことのできない材料・道具の類が五つあるとして、それらを 「水火木金土」としてシンボライズしたものなのである。「五」を基本単位とし、 その組み合わせによって物事が成り立つという発想は、さまざまな史料からうかがえる。(現代に息づく陰陽五行、稲田義行、日本実業出版社)

 さて、百人一首の歌には「白」「月」「夜」「海」などがキーワードになる歌が多いと言われるが、それらを5色の色に当てはめてみた。

黒=夜と黒髪(80)と墨染めの袖(95) 16首 3,6,18,36,49,53,57,62,67,78,80,85,88,91,94,95
白=衣(2),雪(4,15,31),霜(6,91),菊(29),
露(37),波(76),霧(87)
10首 2,4,6,15,29,31,37,76,87,91
黄=月と地(55)に関する歌 13首 7,21,23,30,55,59,68,79,81,86 (31,36,57は雲隠れとした)
青=海に関する言葉が出てくる歌 17首 4,11,18,19,20,34,42,46,48,72,76,78,88,90,92,93,97
赤=紅葉  6首 5,17,24,26,32,69
 全62首あるが、7首は重複しているので55首となる。 色分けした図を見ていると、黒と白の部分が城壁を作っているように見えてきたので線で囲ってみた。  
   
 
 
 

◆ 四 神 相 応 2

 四神とは、四方を守護する四聖獣、青龍、白虎、朱雀、玄武を差し、青龍は河を好み、白虎は道を走り、朱雀は 低地に溜まる大きな池に降り立ち、玄武は山にたとえられるようになった。東に河が流れていれば青龍に守護され、 西に道あらば白虎により守られ、南に大地あれば朱雀の加護があり、北に山があらば玄武が禍を防いでくれるのである。 (現代に息づく陰陽五行、稲田義行、日本実業出版社)

 これに相応するように山、川、低地に生えるの草、道について色分けしてみた。

玄武 山 17 天の香具山、不二山、奥山、三笠山、宇治山、筑波山、因幡山、手向山、逢坂山、
小倉山、伊吹山、有馬山 大江山、三室山、高砂の尾上、山の奥、常緑樹林の山
  2,4, 5,7,8,13,16,24,25,26,51,58,60,69,73,83,87
青龍 川 7 みなの川、竜田川、いづみ川、山川、宇治川、谷川、ならの小川
 13,17,27,32,64,69,77,98
朱雀 低地 13 秋の田、若菜、短き蘆、秋の草木、さねかづら、草、秋の野、浅茅生、
やへむぐら、さしも草、 猪名の笹原、門田の稲葉、難波江の蘆    
 1,15.19,22,25,28,37,39,47,51,58,71,75,88
白虎 道 0 西に道あらば白虎に守られと言われるが道がないのである。
これについては後ほど述べることにする。
 全39首あるが、69と13は山と川で重複し、69は17と川でも重複している。51と75はさしも草で重複しており歌数は 35首となる。青龍の好む川が出てくる歌が8首あるが、竜田川だけ2首あることに納得した。「ちはやぶる」(17)から 「あらしふく」(69)を、「みかのはら」(27)を通って一つの川を作ると、後は自然に、陽成院(13)と崇徳院(77)の川を繋 ぎ、しがらみ(32)と網代木(64)のある川を繋げた。13,17,27,32と64,69,77,98とに大きく分かれているのは、それぞれを 繋ぐためだったのだ。98に関しては後述する。  
   
 
 
 

◆ 川 と 風 に つ い て 3

 上の図のように三つの川が浮かび上がった。これらは、桂川、宇治川、木津川を表しているのではないだろうか。 この三つの川が合流する所に後鳥羽院が愛して止まなかった水無瀬の離宮があったのだが、定家は、そこへ後鳥 羽院と順徳院を配流先から帰京させたのです。

 でも百首図を上を北として東西南北を定めたら、川の流れる方向も水無瀬離宮のある場所も実際とは東西が逆 方向です。次に風ですが、風の歌は全部で13首ある。川の流れに沿って吹いているのが分かりますね。

風=天津風、嵐、風、風の吹き敷く、風をいたみ、風、嵐、秋風、山おろし、秋風、山の秋風、嵐の庭、風そよぐ、

12,22,32,37,48,58,69,71,74,79,94,96,98。 13首

 ここで図表1の月と海と紅葉を図表2に入れてみましょう。紅葉は繋ぐとそびえたつ山のようになり、そこから川 は海に流れ、風が川に沿って吹き降ろしている感じです。  
   
 
 
 

◆ 白 虎 に 守 ら れ る 路 が な い 4

 西に道あらば白虎に守られるというのに、西のみならず何処にも道がないのです。

 路6=逢坂の関、雲の通い路、御垣守り、生野の路、須磨の関守り 10,12,49,60,62,78 6首

   10番 100首図を平安京に見立てると、北東の鬼門の位置になります。

   12番 雲の通い路吹き閉じよと、詠んでいます。

   49番 夜も昼も宮中の御門を守る衛士。御所に入れません。

   60番 生野の路は遠いと、詠んでいます。

   62番 北東の鬼門に対して南西の裏鬼門は91番になると思うのですが...。

   78番 須磨の関守。最強です。隣の崇徳院(77)と真上にある三条院(68)の怨念を封じています。

 もう一つ路があるので全部で7首になるのですが、それについては後述します。

 関などの他に、菊、梅、松、鹿、桜、が出てくる歌を入れてみた。それが以下の図表4です。  
   
 
 
 

◆ 三 頭 の 鹿 は 三 人 の 上 皇 5

 図表1から4までを合わせて(白は省いてます)、5羽の鳥を入れてみた。ここで注目したのが三つの松と三頭の 鹿です。松の三首を繋ぐと久しく生い続ける松が、燃えては散る紅葉から都を守っているように見えるのです。ま た3頭の鹿ですが、鹿は、神もしくは神の使いとして崇められてきました。三頭の鹿は、承久の乱の後、配流になられた 3人の上皇のことではないでしょうか。  
   
 
 
 
◆ 大 内 裏 の 内 野 と 京 都 御 所 6

 後鳥羽院は白菊の花をこよなく愛されていたので、(その後、歴代の天皇によって継承され、皇室の菊の御紋として定着している) 「こころあてに」(29)を宮中と考えた時、49番の御垣守りはその御門を守っているのではないでしょうか。1227年に大内裏が消失 してから後、二度と再建されることなく、今の京都御所の位置に宮中は移ったのです。後鳥羽院の時代は、まだ大内裏があったので、 その位置を55番と考えた時、「よをこめて」(62)の関は、丹波口に相当すると気づいたのです。95番の慈円から15番の光孝天皇まで 5番の縦一筋は朱雀大路なんですね。「奥山に」(5)の万葉集時代の猿丸太夫はだれのことなんでしょう。


 後鳥羽院と順徳院は、99番、100番の水無瀬離宮に、つまり都の辰巳にしかぞ住んでいるのです。定家は、和歌の中でお二人を帰京 させたが、そこから出ていく道を封印したのです。最勝四天王院の歌枕の中でさえ伊勢路を消しています。


 そして三頭の鹿ですが、「都の辰巳鹿ぞ住む」(8)は、後鳥羽院、「紅葉踏み分け鳴く鹿」(5)は、順徳院のことでしょ。では 、三つ目の「山の奥にも鹿ぞなく」(83)は、承久の乱に直接関与してないとは言え、自ら配流の身にした土御門院へ、この世の中から 逃れる道はないと言いたかったのではないでしょうか。


 ところで、白虎の路のところで、7つ目の路があると言いましたが、何処にあるか分かりますか。「夢の通い路」(18)です。 「ひとめよくらむ」と、夢の中でさえ会ってくれないと定家は嘆いていますが、この通い路を通って何処へ行くのでしょうか。 これは続後撰集の18番に土御門院がおられることでしょう。


続後撰集 土御門院御製 巻第一春上
18 雪のうちに 春はありとも 告げなくに まづ知るものは うぐいすの声 

通釈「雪がまだ残っているうちから、春は来ている」とも告げないのに、それを何よりさきに知るものは、うぐいすの声よ。
                                 (続後撰和歌集全注釈 木船重昭編著 大學堂書店)


百人秀歌
18 きみがため 春の野にいでて 若菜つむ 我が衣手に 雪は降りつつ  光孝天皇


 土御門院を封印する必要はないわけですから101首集に入れなかったのでしょう。 春の部立ての歌ですから変化も少ないでしょうが、現在に至るまでに流布本によって番号も変わってるのも ありますから、こういう数字遊びは危険な遊びかもしれません。


 2つの101首集こそ二つの勅撰集を一つにする懸け橋なんじゃないでしょうか。私自身が定家独撰の新勅撰和歌集を勅撰和歌集として 成立してないと思っていることが根底にある上での謎解きなのです。もしこれが成立するなら、勅撰和歌集は全部で20集になってし まうので、もう一つ勅撰和歌集が必要となりますが準勅撰和歌集があります。


 南北朝時代の1381年に成立したもので、選者は宗良親王 です。宗良親王の母、為子は、歌道の家である二条家出身なので子供の頃より歌に親しんでいたそうです。そうなると二条家も2つの101 首集の秘密を知っていたことになりますね。


 また平成2年に発見された、後鳥羽院と順徳院の歌が入っている百人一首なのに順列は 百人秀歌順になっている「異本百人一首」の謎もありますし…。 (百人一首の正体 吉海直人 角川ソフィア文庫)

 謎が謎を呼ぶことになっている状態です。


 話を元に戻して、定家は過去の様々な歌集と異なり、陰陽五行の考えに基づいて、当時信じられていた 様々の怨霊を封印して、御子左家が歌道の家として繁栄して行くように願い、また承久の乱後に配流になった後鳥羽院、順徳院にしかと住める新水 無瀬離宮を造営し、また自ら都を出た土御門院には遥か彼方の雲居に招かれたのです。


◆ 最 終 章

 新勅撰集の成立過程において、1230年(寛喜二年)に関白藤原道家より勅撰集撰進に関して質問があった折り に、定家は、選者は困惑するに違いないと言ってるのです。前代の後鳥羽院などの歌を入れないわけにはいか ないが、鎌倉幕府にはばかりがあり、忌避されるだろうと。(新勅撰和歌集 解題 久曾神昇 樋口芳麻呂 校訂 岩波新書)

 今回の勅撰集に政治が介入し、思うような歌集が作られないかもしれないということに対策を考えていたと考えら れないでしょうか。新勅撰和歌集が成立した時点で2つの101首集も成立していたと。

 いつ両院が許されて帰京するか分からず、その時の政権によって、いつ自分たちの身が危うくなるか分からない状況下で秘密裡に事は進んだと 思ってます。
= 続 後 撰 集 = 
1201 頼むぞよ 跡経ん竹の 園の内に わが後の世を 思ひおくかな 前大僧正慈鎮
1202 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は 後鳥羽院御製
1203 秋のいろを おくりむかえて 雲のうへに なれにし月も 物忘れすな 土御門院御製
1204 てる月の 雲居の影は それながら ありし世をのみ 恋わたるかな 権中納言国信
1205 ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり 順徳院御製
   

1201

信頼もうしあげております。門跡、皇族が出家し住持せられる寺で、私の後世の往生をご祈念下さることを。

1202

人をもいとしく思い、また逆に、人をも恨めしく思う。この世をせんなく思うために、思い悩む私は。

1203

秋の趣を、送り迎えて、雲の上でなれてしまった月も、昔を忘れないで、秋の夜を美しく輝いておくれ。
1204 照る月の空の光は、今も昔もそのままだが、昔に変るわたしは、昔の世ばかりなつかしく思いつづけていることよ。
1205 わたしが今住んでいる皇居の古び荒れた軒端の忍ぶ草を見るにつけ、偲びに偲んでもなお偲びつくせない。昔の栄えた御代だった。
(続後撰和歌集全注釈 木船重昭編著 大學堂書店)
底本により番号が1202〜1206になっているものもあります。


 最後になりましたが、日本語を書く時は右から左へ進んでいきます。 百首表も本来右から左へ並べていったので誰も理解できなかったのではと思ってます。 定家は百首表を雲居の上から反対に見て封印していたのではと思ってます。 よもや何百年後に左から右へ書くことになるなんて想像もしてなかったのではないでしょうか。
 
 
 



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