正面玄関百人秀歌と百ト一首最勝四天王院北斗七星信仰水無瀬離宮定家略年譜百人秀歌の歌人たち



 

 ◆ 最勝四天王院を甦らす 46+1の歌枕と45歌人に関連する地 定家独撰       2020/2/2

承元元年(1207年)、後鳥羽院(百99)は最勝四天王院の四十六間ある障子(襖)に名所絵と歌を描かせようとしました。その遂行の中心的人物となったのが定家(秀100)です。 名所の選定をし、後鳥羽院が自身を含めて10人の歌人に46名所を一首ずつ都合460首の歌を集め、 その中から1首ずつ歌を選び、46首の歌と絵を障子に張らせたのです。


ところが、建保七年(1219年)に鎌倉三代将軍実朝(秀98)が暗殺されると、 後鳥羽院はあわてて取り壊してしまいました。実はこの御堂で関東調伏のための壇を立てて呪詛していたのです。


若き将軍が暗殺されたことや心血注いだ最勝四天王院が取り壊されたことなど、参議雅経(秀97)を介して実朝と師弟関係をむすんでいた定家の無念さは想像もつきません。


「百人秀歌」と「百ト一首」の二つの歌集から都合105首の歌とその歌の出典にある勅撰和歌集の詞書から歌枕の地や歌人に関係のある地を最勝四天王院の46歌枕に照らし合わせて表を作ってみました。


45首(歌36首、詞9首)より46ヶ所+1ヶ所(唐土)の名所旧跡がありました。最勝四天王院のものとは若干変動があり、 山城の名所から東国の名所へ行く道として伊勢路を封印して志賀の山越えから伊吹山のコースを作り出しているのはどんな思惑があるのでしょう。 


「あまのはら(秀6)」の詞書きにある、「もろこしにて月を見てよみける」による「唐土」は、「西国の名所」に含まれるものではないですが、 定家にとっては、「松浦宮物語」を呼び起こさせるものとして、D−18の松浦山(佐賀県唐津湾)とともに必要だったのでしょうか。 


「由良の戸 (秀47)」は「D・西国の名所」に入れるべきかとも思ったのですが、定家には、「B・摂津・紀伊の名所」の方が「きのくにの(秀90)」の歌と合わせて物語性を編みだせたのではないかと思ったのでこちらにしました。


定家は「百人秀歌」と「百ト一首」の中に自選による46ヶ所+1ヶ所(唐土)の歌枕や地名を入れたのでしょうか。「春日野の(秀73)」と「きのくにの(秀90)」の2首は「百ト一首」にはありません。


定家と言えどもこれらの集を編むために歌を式紙形に書いて並べ替えたりしていたはずだ。 そんな噂が広まって宇都宮頼綱が色紙を書いてほしいと所望しても不思議はない。明月記にあるように天智天皇に 始まって雅経、家隆に及んだ色紙を書いたのだろう。さて何首?最勝四天王院障子和歌と同じく46首と思っているが...。
 

 
 ●「百人秀歌」と「百ト一首」より47の歌枕と45歌人に関連する地

日文研データーベースの最勝四天王院和歌(最勝四天王院障子和歌)より10首ごとに歌枕を抜粋し、AからGの七か所に分類しました。
 ・百人秀歌番号ですが、歌は百ト一首と同じです。

 
   A 大和の名所    1 春日野 2 吉野 3 三輪山 4 龍田川 5 初瀬
秀73 春日野 秀百2 天の香久山 秀29 & 秀97吉野(の里) 秀6 三笠山 秀23 手向山 秀57 三室山

春日野の
下萌えわたる
草の上に
つれなく見ゆる
春の淡雪


春過ぎて
夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ
天の香具山


朝ぼらけ
有明の月と
見るまでに
吉野の里に
触れる白雪


み吉野の
山の秋風
小夜ふけて
ふるさと寒く
衣うつなり


天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも


このたびは
幣も取り敢へず
手向山
紅葉の錦
神のまにまに


あらし吹く
三室の山の
もみぢ葉は
竜田の川の
錦なりけり

秀65 & 秀82(詞) 奈良(興福寺) 秀10&秀57龍田川 秀28(詞) & 74 初瀬 秀71(詞) 大峰山

いにしへの
奈良の都の
八重桜
けふ九重に
にほひぬるかな


契りおきし
させもが露を
命にて
あはれ今年の
秋もいぬめり


ちはやぶる
神代も聞かず
竜田川
からくれなゐに
水くくるとは


あらし吹く
三室の山の
もみぢ葉は
竜田の川の
錦なりけり


人はいさ
心も知らず
ふるさとは
花ぞ昔の
香ににほひける


憂かりける
人をはつせの
山おろしよ
はげしかれとは
祈らぬものを


もろともに
あはれと思へ
山桜
花よりほかに
知る人もなし

 
   B 摂津、紀伊の名所    6 難波 7 住吉 8 芦屋 9 布引の滝 10 生田杜 11 和歌浦 12 吹上浜 
秀11 住の江 秀百19 難波潟 秀百20 難波 秀89 難波江 秀74 高師の浜 秀47 由良の戸 秀90 由良の岬 秀90 紀ノ國

住の江の
岸に寄る波
よるさへや
夢の通ひ路
人目よくらむ


難波潟
短き蘆の
ふしの間も
 逢はでこの世を
すぐしてよとや


わびぬれば
今はたおなじ
難波なる
みをつくしても
逢はむとぞ思ふ


難波江の
蘆のかりねの
ひとよゆゑ
みをつくしてや
恋ひわたるべき


音に聞く
高師の浜の
あだ波は
かけじや袖の
ぬれもこそすれ


由良のとを
渡る舟人
かぢを絶え 
行く方も知らぬ
恋の道かな


きのくにの
ゆらのみさきに
拾ふてふ
 たまさかにだに
逢い見てしかな


きのくにの
ゆらのみさきに
拾ふてふ
 たまさかにだに
逢い見てしかな

 
   C 交野から播磨の名所    13 交野 14 水無瀬川 15 須磨 16 明石 17 飾磨  
秀81 淡路島 秀81 須磨の関 秀100 松帆の浦

淡路島
かよふ千鳥の
鳴く声に
 幾夜ね覚ぬ
須磨の関守


淡路島
かよふ千鳥の
鳴く声に
 幾夜ね覚ぬ
須磨の関守


来ぬ人を
まつほの浦の
夕なぎに 
焼くや藻塩の
身もこがれつつ










 
   D 西国の名所    18 松浦山(佐賀県唐津湾) 19 因幡 20 高砂 21 野中の清水(播磨) 22 天橋立
秀6(詞) 唐土 秀7(詞) 隠岐の国 秀9 因幡の山 秀31 高砂 秀62有馬山 秀62 伊那

天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも


わたの原
八十島かけて
こぎ出でぬと
人には告げよ
あまのつり舟


立ち別れ
いなばの山の
峰に生ふる
まつとし聞かば
今帰り来む


たれをかも
知る人にせむ
高砂の 
松も昔の
友ならなくに


有馬山
猪名の笹原
風吹けば 
いでそよ人を
忘れやはする


有馬山
猪名の笹原
風吹けば 
いでそよ人を
忘れやはする

秀66 大江山 秀66 生野 秀66 天橋立

大江山
いく野の道の
遠ければ 
まだふみも見ず
天の橋立


大江山
いく野の道の
遠ければ 
まだふみも見ず
天の橋立


大江山
いく野の道の
遠ければ 
まだふみも見ず
天の橋立










 
   E 山城の名所    23 宇治川 24 大井川 25 鳥羽田 26 伏見 27 泉川 28 小塩山 29 逢坂山(逢坂関)
秀14宇治山 & 秀67 宇治川 秀36 みかの原 秀36 泉川 秀16 & 秀35 & 秀60 逢坂山(関)

わが庵は
都のたつみ
しかぞすむ
世をうぢ山と
人はいふなり


朝ぼらけ
宇治の川霧
たえだえに
あらはれわたる
瀬々の網代木


みかの原
わきて流るる
いづみ川 
いつ見きとてか
恋しかるらむ


みかの原
わきて流る
るいづみ川 
いつ見きとてか
恋しかるらむ


これやこの
行くも帰るも
別れては
知るも知らぬも
逢坂の関


名にし負はば
逢坂山の
さねかづら 
人に知られで
くるよしもがな


夜をこめて
鳥のそら音は
はかるとも 
よに逢坂の
関は許さじ

秀34 小倉山 秀70(詞)
梅津の山里
秀52(詞)
河原院
秀59(詞)
大覚寺滝殿
秀99 ならの小川
(上賀茂神社)
秀百32(詞)
志賀の山越え

をぐら山
峰のもみぢ葉
心あらば 
今ひとたびの
みゆき待たなむ


夕されば
門田の稲葉
おとづれて 
蘆のまろやに
秋風ぞ吹く


八重むぐら
茂れる宿の
寂しきに 
人こそ見えね
秋は来にけり


滝の音は
絶えて久しく
なりぬれど
名こそ流れて
なほ聞こえけれ


風そよぐ
ならの小川の
夕暮れは
みそぎぞ夏の
しるしなりける


山川に
風のかけたる
しがらみは 
流れもあへぬ
紅葉なりけり




     
    伊勢路の名所  30 志賀の浦 31 鈴鹿山 32二見の浦 33大淀浦 
「最勝四天王院障子和歌」では八つの路が広がっていますが、定家は伊勢路を選ばずに七つの路としています。 陽数の七にするためだったのかなと思いながらも、それだけの理由なら他の道でも良かったわけです。

伊勢と言えば、出家した西行がいました。

定家は西行の歌から、

「ねがはくは 花のもとにて 春しなん そのきさらきの 望月のころ」(続古今集 雑上1527) と願い、その通りになった歌ではなく、

「三夕の歌」の一つとなった歌でもなく、
「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立たつ沢の 秋の夕暮れ」(新古今集 秋上362)

恋の歌である、
「嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」(千載集 恋五929)を選びました。

西行は23歳で出家したのち、諸国を巡り、高野山に入りました。その後も諸国を巡り、治承元年(1177)に伊勢に入りました。

文治三年(1187)、自歌合『宮河歌合』を作って定家に判を請いました。これは、 当時勅勘が解けた後の若干26歳の定家にとって身に余る光栄な出来事だったのではないでしょうか。

この歌は出家して円位と呼ばれていた時に詠まれた歌ですが、少なくとも定家は伊勢路を断つことによって、 西行法師としてでなく出家する前の佐藤義清という北面の武士の恋の歌として捉えたかったのではないでしょうか。

歌人たちは今も各地の名所となった地で私たちと共に生きていると思います。
 
   F 東国の名所 34 鳴海の浦(尾張) 35 浜名の橋 36 宇津の山(駿河) 37 更科山(信濃) 38 清見潟(駿河) 
                 39 富士山 40 武蔵野 41 白河の関
秀50 伊吹山 4 田子の浦 4 富士山 秀12 筑波嶺 秀12男女川

かくとだに
えやはいぶきの
さしも草 
さしも知らじな
燃ゆる思ひを


田子の浦に
うちいでて見れば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ


田子の浦に
うちいでて見れば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ


筑波嶺の
峰より落つる
みなの川 
恋ぞつもりて
淵となりぬる


筑波嶺の
峰より落つる
みなの川 
恋ぞつもりて
淵となりぬる




 
   G 陸奥の名所    42 阿武隈川 43 安達ヶ原 44 宮城野の原 45 安積の沼 46 塩釜の浦 
秀17 陸奥 秀17 信夫 秀45 末の松山 秀91 雄島

陸奥の
しのぶもぢずり
たれゆゑに 
乱れそめにし
われならなくに


陸奥の
しのぶもぢずり
たれゆゑに 
乱れそめにし
われならなくに


契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ 
末の松山
波越さじとは


見せばやな
雄島のあまの
袖だにも 
ぬれにぞぬれし
色はかはらず







 

 
 ● 宇都宮頼綱に送った和歌  46首

天智天皇に始まり、雅経、家隆に及ぶ(1+45)46首です。

秀百1
天智天皇

秋の田の
かりほの庵の
苫を荒み
わが衣手は
露にぬれつつ

秀百2
持統天皇

春過ぎて
夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ
天の香具山

秀百4
山辺赤人

田子の浦に
うちいでて見れば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ

秀6(百7)
安倍仲麿

天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも

秀7(百11)
参議篁

わたの原
八十島かけて
漕ぎ出でぬと
人には告げよ
海人の釣船

秀9(百16)
中納言行平

立ち別れ
いなばの山の
峰に生ふる
まつとし聞かば
今帰り来む

秀10(百17)
在原業平朝臣

ちはやぶる
神代も聞かず
竜田川
からくれなゐに
水くくるとは

秀11(百18)
藤原敏行朝臣

住の江の
岸に寄る波
よるさへや
夢の通ひ路
人目よくらむ

秀12(百13)
陽成院

筑波嶺の
峰より落つる
みなの川
恋ぞつもりて
淵となりぬる

秀14(百8)
喜撰法師

わが庵は
都のたつみ
しかぞ住む
世をうぢ山と
人はいふなり

秀16(百10)
蝉丸

これやこの
行くも帰るも
別れては
知るも知らぬも
逢坂の関

秀17(百14)
河原左大臣

陸奥の
しのぶもぢずり
誰ゆゑに
乱れそめにし
われならなくに

秀百19
伊勢

難波潟
短き蘆の
ふしの間も
逢はでこのよを
過ぐしてよとや

秀百20
元良親王

わびぬれば
今はた同じ
難波なる
みをつくしても
逢はむとぞ思ふ

秀23(百24)
菅家

このたびは
幣も取り敢へず
手向山
紅葉の錦
神のまにまに

秀28(百35)
紀貫之

人はいさ
心も知らず
ふるさとは
花ぞ昔の
香ににほひける

秀29(百31)
坂上是則

朝ぼらけ
有明の月と
見るまでに
吉野の里に
触れる白雪

秀31(百34)
藤原興風

誰をかも
知る人にせむ
高砂の
松も昔の
友ならなくに

秀百32
春道列樹

山川に
風のかけたる
しがらみは
流れもあへぬ
紅葉なりけり

秀34(百26)
貞信公

小倉山
峰のもみぢ葉
心あらば
いまひとたびの
みゆき待たなむ

秀35(百25)
三条右大臣

名にし負はば
逢坂山の
さねかづら
人に知られで
くるよしもがな

秀36(百27)
中納言兼輔

みかの原
わきて流るる
いづみ川
いつみきとてか
恋しかるらむ

秀45(百42)
清原元輔

契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山
波越さじとは

秀47(百46)
曽禰好忠

由良のとを
渡る船人
かぢを絶え
行方も知らぬ
恋の道かな

秀50(百51)
藤原実方朝臣

かくとだに
えやはいぶきの
さしも草
さしも知らじな
燃ゆる思ひを

秀52(百47)
恵慶法師

八重葎
しげれる宿の
さびしきに
人こそ見えね
秋は来にけり

秀57(百69)
能因法師

あらし吹く
三室の山の
もみぢ葉は
竜田の川の
錦なりけり

秀59(百55)
大納言公任

滝の音は
絶えて久しく
なりぬれど
名こそ流れて
なほ聞こえけれ

秀60(百62)
清少納言

夜をこめて
鳥の空音は
はかるとも
よに逢坂の
関はゆるさじ

秀62(百58)
大弐三位

有馬山
猪名の笹原
風吹けば
いでそよ人を
忘れやはする

秀65(百61)
伊勢大輔

いにしへの
奈良の都の
八重桜
けふ九重に
にほひぬるかな

秀66(百60)
小式部内侍

大江山
いく野の道の
遠ければ
まだふみもみず
天の橋立

秀67(百64)
権中納言定頼

朝ぼらけ
宇治の川霧
たえだえに
あらわれわたる
瀬々の網代木

秀70(百71)
大納言経信

夕されば
門田の稲葉
おとづれて
蘆のまろやに
秋風ぞ吹く

秀71(百66)
前大僧正行尊

もろともに
あはれと思へ
山桜
花よりほかに
知る人もなし

秀73
権中納言国信

春日野の
下萌えわたる
草の上に
つれなく見ゆる
春の淡雪

秀74(百72)
祐子内親王紀伊

音に聞く
高師の浜の
あだ波は
かけじや袖の
ぬれもこそすれ

百74
源俊頼朝臣

憂かりける
人をはつせの
山おろしよ
はげしかれとは
祈らぬものを

秀81(百78)
源兼昌

淡路島
かよふ千鳥の
鳴く声に
幾夜ねざめぬ
須磨の関守

秀82(百75)
藤原基俊

契りおきし
させもが露を
命にて
あはれ今年の
秋もいぬめり

秀89(百88)
皇嘉門院別当

難波江の
蘆のかり寝の
ひとよゆゑ
みをつくしてや
恋ひわたるべき

秀90
権中納言長方

きのくにの
ゆらのみさきに
拾ふてふ
たまさかにだに
逢ひ見てしがな

秀91(百90)
殷富門院大輔

見せばやな
雄島のあまの
袖だにも
濡れにぞ濡れし
色はかはらず

秀97(百94)
参議雅経

み吉野の
山の秋風
小夜ふけて
ふるさと寒く
衣うつなり

秀99(百98)
正三位家隆

風そよぐ
ならの小川の
夕暮は
みそぎぞ夏の
しりしなりける

秀100(百97)
権中納言定家

来ぬ人を
まつほの浦の
夕なぎに
焼くや藻塩の
身もこがれつつ










正面玄関にもどる ‖ 上にもどる