正面玄関
★≪百人秀歌と百ト一首≫
★≪最勝四天王院≫
★≪定家略年譜≫
★≪北斗七星信仰≫
★≪二つの歌集とは 更新中≫
◆ 北 斗 七 星 信 仰 (2025/3/24)
「百人秀歌」と「百ト一首」の2つの歌集の歌番号を繋いでいくと、最初の歌番号に戻るグループがあることに気づき全ての歌について調べてみた。
「百人秀歌」5番(以下、秀番号)「かささぎの」は「百ト一首」の6番(以下、百番号)にある。同じ番号の秀6「あまのはら」は
百7にあり、その秀7にある「わたのはらや」は百11だ。
「秀5かささぎの百6」−「秀6あまのはら百7」−「秀7わたのはらや百11」−「秀11すみのえの百18」−と続き、
14首目で「秀8おくやまに百5」となり、振り出しの「秀5かささぎの百6」に戻って一つの環が形成されます。
そのように繋げていくと、最初の歌に戻り、環を形成する大きなグループが2つと
小さなグループが7つできた。そして「百人秀歌」だけにある4首の歌と「百ト一首」だけにある4首の歌がそれぞれに
結ばれて4つの流れとなった。
7つの小さなグループが北斗七星と関係があると仮定すると、2つの大きなグループは、
北斗七星がガイドする不動の北極星(北辰)と定家が愛した月を表している想定した。
環を作らない4つの流れは天の川としてみた。
・歌人の前の数字は「百人秀歌」番号です。
昴
近代秀歌
北極星
月
北斗七星
天の川
天の川での<定家略年譜>
☆
☆
-5-6-7-11-18-15-12-13-9-16-10-17-14-8- 北辰
1,2,3,4
19,20
32
☆
44
77
84,85
☆
北 斗 七 星
六連星 スバル
☆
-23-24-30-
貪狼星
☆
-37-39-38-
巨門星
☆
-40-43-45-42-41-
禄存星
☆
-46-48-49-50-51-52-47-
文曲星
-21-28-35-25-29-31-34-26-33-36-27-22- 月
☆
-54-68-63-59-55-
廉貞星
☆
-57-69-67-64-
武曲星
☆
-58-70-71-66-60-62-
破軍星
天の川
☆
秀73-72-74-百74
☆
秀53-56-61-65-75-82-83-87-93-98-99-百99
☆
秀76-79-80-78-81-86-88-89-92-94-97-100-百100
☆
秀90-91-95-96-101-百101
☆
平安時代の貴族たちの生活リズムとして、起床した後、属星を七回唱えるというのがあった。北斗七星は七つの星で構成されている。
人間は、生まれた年によって、北斗七星のいずれかの星を運命にもち、それを信仰したり、祀ったりすることで、あらゆる災禍から免れ、
あらゆる願いが実を結ぶとされていた。属星は本命星とも言われ生まれた年によって決定される。
(現代に息づく陰陽五行 稲田義行 日本実業出版社2009)
34貞心公(藤原忠平)の次男である藤原師輔が残した「九条殿遺戒」(くじょうどののいかい)は、貴族としての心得を記した家訓であり、毎日起床後に行うべき事柄をはじめとする日常生活の作法,
宮廷に出仕する際の心得など生活全般にわたって細かい訓誡をのべており子々孫々にまで重んじられた。有職故実の九条流は、師輔を祖として79法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)へと摂関家が続き繁栄した。
100定家が残した50年以上にわたる日記「明月記」では、天文に関する記述が多くあり、その方面でも重要な資料的価値が大きく、
斉藤国治氏は「定家『明月記』の天文記録−古天文学による解釈−」(慶友社 1999)を残されている。
※
「拾遺集」 冬 1146 清原元輔
いざかくて をり明かして 冬の月 春の花にも 劣らざりけり
・さあ、こうして月を見て居りながら、夜を明かそう。冬の月は、春の花に劣らず美しい。
新 日本古典文学体系 7 小町谷照彦 1990年発行 岩波書店
※
「四季折々の季節の中でも、人が殊に心を惹かれる花や紅葉の盛りよりも、
冬の夜の冴えた月に雪の映えて見える空は、不思議に色のない眺めが身にしみて、この世の外の世界のことまで思いやられて、
趣が深くあわれも尽きることのないものです。これを興ざめなものときめてしまった昔の人の心の浅いこと」 (「源氏物語・槿」紫式部 円地文子訳)
※
……冬の夜の月は昔から興ざめなものの例に引かれておりますし、
……ところが以前、私が斎宮の御裳着の勅使となって
…………私はそれ以来、冬の夜の雪の降っている晩の風情が分かるようになり、
火桶を抱えていても必ず縁先に出て、外の景色を眺めるようになりました。(「更級日記・宮仕えの記 資通と語らう 時雨の夜の思い出」 菅原孝標女 校注、訳者、注解 犬養 廉)
新編 日本古典文学全集 新潮社 By JapanKnowledge Personal
昴(スバル) プレアデス星団の六連星(むつらぼし) 不動11首
冬によく見られるプレアデス星団にあるスバルついて言及した日本での最古の記録は、
平安時代に源順(911-983)が醍醐天皇皇女勤子内親王(904-938)の命で作成した百科事典「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)だと考えられている。
この中で、昴星の和名は須波流と記されている。
古くからプレアデス星が糸を通して集めた玉飾りのように見えたことから「統(す)ばる」の意味ですばる星と呼んできた。
玉飾を糸でひとくくりとしたものを「万葉集」で「須売流玉」(すまるのたま)、
「日本紀竟宴和歌」(にほんぎきょうえんわか)で「儒波窶玉」(すばるのたま)などと呼んだものと同様らしい。
1
天智天皇
秋の田のかりほの庵の苫を荒みわが衣手は露にぬれつつ2
持統天皇
春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山3
柿本人麻呂
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む4
山辺赤人
田子の浦にうちいでて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ---
---
19
伊勢
難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこの世をすぐしてよとや20
元良親王
わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ
・・・・ ・・ ・ 昴 ・ ・ ・・
32
春道列樹
山川に風のかけたる
しがらみは流れもあへぬ
紅葉なりけり
44
藤原朝忠
逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも
恨みざらまし
77
崇徳院
瀬をはやみ岩にせかるる
滝川のわれても末に
あはむとぞ思ふ
84
藤原清輔
ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき85
俊恵法師
夜もすがらもの思ふころは明けやらで閨のひまさへつれなかりけり
近 代 秀 歌 (歌人の前の数字は百人秀歌番号です)
ウエッブサイト「やまとうた・近代秀歌」参照
近代秀歌とは、98源実朝(鎌倉右大臣)の求めに応じ、承元三年(1209)、100定家が書いて贈った歌論書です。
その中で、「28紀貫之は、歌の心は巧みに、丈は及びがたく、詞は強く、姿の面白い様を好みましたが、
余情妖艶の体を詠みませんでした。それらを詠んだのが10業平・13小町・15遍昭たちです。
詞は古きを慕い、心は新しきを求め、及びがたい理想の姿を願って、寛平の代(9世紀末(889〜898)の宇多天皇の代)以前の歌を手本とすれば、
おのずから良い歌が出来ないわけがありましょうか。
28紀貫之たちの古今集的歌風の流れを受けたのちの歌人たちは、その心に向けて歌を詠みましたが、
近い時代の人々は、ただ思いつきの趣向を三十一文字に言い続けて、本来の進むべき方向から逸れて、
姿や詞の情趣を一向に理解しません。
しかし、70経信、76俊頼、80顕輔、82基俊、84清輔、87俊成たちは、寛平時代以前の古体を希求しました。
彼らの情のこもった姿の美しい姿は、仰ぐべき昔の代(六歌仙)にも匹敵するものではないか。」と、記しています。
また、吉海直人氏は、「だれも知らなかった<百人一首>」において、本歌取りについて記されており、
古注釈書で本歌取りであることを指摘している5例をあげ、さらに、100定家が本歌取りを意識しながら選んだ可能性がある5例、
断言はできないが、そういう見方をすると面白い7例なども指摘されてます。
合計17組と1首あり、全部で35首(5X7)となり、偶然にも5の倍数です。本歌取りの手本としているゆえによく似た言葉が多くあることになります。
100定家は、「慣用句のようになっている、「ほととぎす鳴くや五月」、「ひさかたの天の香久山」などのような句はたびたび用いて詠まなくては、歌が出来ません。
しかし、「年の内に春は来にけり」、「袖ひぢて結びし水」、「月やあらぬ春や昔」などあの人が詠んだものと分かるような句を詠み込むことは避けるべきです。」と、本歌の用い方を述べています。
つまり「百人秀歌」と「百ト一首」での撰歌意識において、もっと有名な歌があるのに何故撰ばなかったのかという謎に答えてくれてますね。
「百人秀歌」は「百人習歌」ではないのでしょうか。 上にもどる
北極星(北辰) 14首
6仲麿・7篁・9行平たちの当時の心情を切実に詠んだ歌や10業平・13小町・15遍昭たちの余情妖艶の体の歌を指針とせよとしたのでしょうか。
秀5−百6
大伴家持
鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ
ふけにける
秀6−百7
安倍仲麿
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に
出でし月かも
秀7−百11
小野篁
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣船
秀11−百18
藤原敏行
住の江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路
人目よくらむ
秀18−百15
光孝天皇
君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に
雪は降りつつ
秀15−百12
僧正遍昭
天つ風雲の通ひ路吹き閉じよをとめの姿
しばしとどめむ
秀12−百13
陽成院
筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて
淵となりぬる
秀13−百9
小野小町
花の色は移りにけりないたづらにわが身世に
ふるながめせし間に
秀9−百16
在原行平
立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば
今帰り来む
秀16−百10
蝉丸
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも
逢坂の関
秀10−百17
在原業平
ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに
水くくるとは
秀17−百14
源融
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし
われならなくに
秀14−百8
喜撰法師
わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と
人はいふなり
秀8−百5
猿丸大夫
奥山にもみぢ踏み分けなく鹿の声聞くときぞ
秋はきにけり
北極星に宿る歌人たちのトピック
T.1=竹取物語 T.2=漢詩集と万葉集 T.3=仁明・文徳朝の女御 T.4=蝉丸 T.5=羇旅・離別 T.6=他氏排斥事件
月 12首
28紀貫之たち古今集時代の歌の心は巧みに、丈は及びがたく、詞は強く、姿の面白い様を、100定家は歌人たちが愛した月に宿らせたのですね。
秀21−百28
源宗干
山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬ
と思へば
秀28−百35
紀貫之
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に
にほひける
秀35−百25
藤原定方
名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな
秀25−百29
凡河内躬恒
心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどわせる
白菊の花
秀29−百31
坂上是則
朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に
触れる白雪
秀31−百34
藤原興風
誰をかも知る人にせむ
高砂の
松も昔の友ならなくに
秀34−百26
藤原忠平
小倉山峰のもみぢ葉心あらばいまひとたびのみゆき待たなむ
秀26−百33
紀友則
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の
散るらむ
秀33−百36
清原深養父
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月
宿るらむ
秀36−百27
藤原兼輔
みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ
秀27−百22
文屋康秀
吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらし
といふらむ
秀22−百21
素性法師
今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
月に宿る歌人たちのトピック
T.7=是貞親王家歌合・寛平御時后宮歌合・新撰万葉集 T.8=大和物語
北斗七星 33首 上にもどる
「28紀貫之たちの古今集的歌風の流れを受けたのちの歌人たちは、その心に向けて歌を詠みましたが、
近い時代の人々は、ただ思いつきの趣向を三十一文字に言い続けて、本来の進むべき方向から逸れて、
姿や詞の情趣を一向に理解しません。」と、100定家は述べています。
その心に向けた歌人たち33人を時代順に七つの星に宿らせました。一条朝の女流歌人たちのあとの11世紀後半の近い時代の歌人たちが少ないのは是ゆえだったのですね。
★ 貪狼星・とんろうしょう
単なる欲望を意味するのではなく、度を越してしまい、自我を出しすぎる。
秀23−百24
菅原道真
このたびは幣も取り敢へず
手向山
紅葉の錦神のまにまに
秀24−百30
壬生忠岑
有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
秀30−百23
大江千里
月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
★ 巨門星・こもんしょう
優秀な頭脳をひけらかすことなく、でもその才をいかんなく発揮して上の者に仕える。
秀37−百39
源等
浅茅生の小野の篠原
忍ぶれど
あまりてなどか人の恋しき
秀39−百38
右近
忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
秀38−百37
文屋朝康
白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける
★ 禄存星・ろくぞんしょう
天体観測器を表し、古代、人生の幸不幸は、天体の動きに左右されると信じられていた。禍福を左右する星とされた。
秀40−百43
藤原敦忠
逢ひ見みての後の心に
くらぶれば
昔は物を思はざりけり
秀43−百45
藤原伊尹
あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
秀45−百42
清原元輔
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
秀42−百41
壬生忠見
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
秀41−百40
平兼盛
忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで
★ 文曲星・もんごくしょう
唯一の三等星で、他より輝きは小さい。芸術や文学に秀でている。技を極める。物の重さを測る器具を表し、神経質な星。
秀46−百48
源重之
風をいたみ岩うつ波の
おのれのみ
砕けて物を思ふころかな
秀48−百49
大中臣能宣
御垣守衛士の焚く火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ
秀49−百50
藤原義孝
君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
秀50−百51
藤原実方
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
秀51−百52
藤原道信
明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな
秀52−百47
恵慶法師八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり
秀47−百46
曽禰好忠
由良のとを渡る船人かぢを絶え行方も知らぬ恋の道かな
★ 廉貞星・れんていしょう
清く正しい。現実を照らし合わせながら善悪を定める。よくないと思うものは容赦なく排除する。五番目に位置し、玉衡と呼ばれ、責任感の強い星。
秀54−百68
三条院
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき
夜半の月かな
秀68−百63
藤原道雅
今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな
秀63−百59
赤染衛門
やすらはで寝なましものを小夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな
秀59−百55
藤原公任
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
秀55−百54
儀同三司母
忘れじの行末まではかたければ今日を限りの命ともがな
★ 武曲星・むごくしょう
勇敢なチャレンジャー。危険をかえりみない。正義の星。そばに輔星がある。宰相の意味があり、武曲星を支援している。それ故の強さか。
秀57−百69
能因法師
あらし吹く三室の山の
もみぢ葉は
竜田の川の錦なりけり
秀69−百67
周防内侍
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ
秀67−百64
藤原定頼
朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらわれわたる瀬々の網代木
秀64−百57
紫式部
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな
★ 破軍星・はぐんしょう
勝負を左右し、明暗を分ける星。変動や破壊を意味する。新しいステージの始まりを呼び起こす
秀58−百70
良暹法師
さびしさに宿を立ち出でてながむればいづこも同じ秋の夕暮れ
秀70−百71
源経信
夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く
秀71−百66
行尊
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
秀66−百60
小式部内侍
大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立
秀60−百62
清少納言
夜をこめて鳥の空音は
はかるとも
よに逢坂の関はゆるさじ
秀62−百58
大弐三位
有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
上にもどる
北斗七星に宿る歌人たちのトピック
T.9=菅原家と藤原長良・良門流 T.10=天徳内裏歌合 T.11=梨壺の五人 T.12=源氏物語のモデル T.13=一条朝前後
天の川35首(5X7)
「70経信、76俊頼、80顕輔、82基俊、84清輔、87俊成たちは、寛平時代以前の古体を希求しました。
彼らの情のこもった姿の美しい姿は、仰ぐべき昔の代(六歌仙)にも匹敵するものではないか。」と、100定家は述べています。
70経信は北斗七星(破軍星)に宿り、百74俊頼は天の川の堀河院がわ、82基俊と87俊成は天の川のXX後鳥羽院がわに、
76俊頼と80顕輔は天の川のXX順徳院がわ、そして84清輔はスバルに宿っています。
「百人秀歌」にのみある4首の歌で始まり、「百ト一首」だけにある4首の歌で終わる歌が35首(5X7)あります。
XX後鳥羽院かわにいる53定子に始まる女流歌人の5首とその後の7首、XX順徳院かわにいる76俊頼から始まる13首、
「堀河百首」に名を残す堀河院かわの4首、
後堀河院かわの6首には、特別な定家の思ひが込められているのでしょう。
104人の歌人たちの内、71番までの歌人は昴、北極星、月、北斗七星のそれぞれの環の中に入っているが、
53一条皇后宮定子に始まり56道綱母、61和泉式部、65伊勢大輔、75相模の5人の女流歌人は揃って天の川のXX後鳥羽院の流れにいます。
歌を取り出してみると、
・よもすがらちぎりしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
・嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
・あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
・いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな
・恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
100定家が、これらの5首(5X1)の女性の歌に仮託して、XX後鳥羽院への思ひを秘めたのです。
XX後鳥羽院に取り立ててもらい、 華やかに歌壇人生を送れたにもかかわらず二度と会うことも叶わなくなり、
せめてもう一度お会いしたい願いや、遠島にあっても都と文を交わし、
歌集や歌合を精力的に編纂しているXX後鳥羽院の御所こそ九重ですと言いたかったのでしょう。
そして後世の人々に院より怒りをかったままの自分の名が残ることが口惜しかったのですね。
後堀河院かは 6首
順徳院かは13首 天の川35首(5X7) 後鳥羽院かわ12首
堀河院かは 4首
秀53
定子
よもすがらちぎりしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
定家のトピック
T.14=母と名のつく歌人と定家
T.15=式子内親王と定家
百53−秀56
道綱母
嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
百56−秀61
和泉式部
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
百61−秀65
伊勢大輔
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな
百65−秀75
相模
恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
−−−−−−−−−−−−−−−
−
−−−−−−−−−−−−−−−
−
−−−−−−−−−−−−−−−
−
−−−−−−−−−−−−−−−
秀90
藤原長方
紀の国のゆらのみさきに拾ふてふたまさかにだに逢ひ見てしがな
秀76
源俊頼
山桜咲きそめしより久方の雲ゐに見ゆる滝の白糸
百75−秀82
藤原基俊
契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり
秀73
源国信
春日野の下萌えわたる草の上につれなく見ゆる春の淡雪
百90−秀91
殷富門院大輔
見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
百76−秀79
藤原忠通
わたの原漕ぎ出でて見れば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波
百82−秀83
道因法師
思ひわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり
百73−秀72
大江匡房
高砂の尾上の桜咲にけり外山の霞立たずもあらなむ
百91−秀95
藤原良経
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む
百79−秀80
藤原顕輔
秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
百83−秀87
藤原俊成
世の中よ路こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
百72−秀74
祐子内親王紀伊
音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
百95−秀96
慈円
おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖
百80−秀78
待賢門院堀河
長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
百87−秀93
寂蓮法師
村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ
百74
源俊頼
憂かりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
百96−秀101
藤原公経
花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
百78−秀81
源兼昌
淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜ねざめぬ須磨の関守
百93−秀98
源実朝
世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも
百101
藤原為家
立ちのこす梢もみえず山桜花のあたりにかかる白雲
百81−秀86
藤原実定
ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる
百98−秀99
藤原家隆
風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
百86−秀88
西行法師
嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
百99
後鳥羽院
人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
百88−秀89
皇嘉門院別当
難波江の蘆のかり寝のひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき
百89−秀92
式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
百92−秀94
二条院讃岐
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
百94−秀97
藤原雅経
み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり
百97−秀100
藤原定家
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
百100
順徳院
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
上にもどる
定家略年譜と秀73からの天の川(堀河院) (歌の初めのみ掲載 詳細は<定家略年譜>のサイトを参照)
「百ト一首」を定家略年譜に沿って並べたとして、「百人秀歌」を基としてそれに沿わせていった時、秀歌番号より百首番号が大きいと
流れに沿っていくのですが、二か所に不都合が生じます。
秀73国信の歌を秀72にすることは出来なかったのだろうか。次のページで展開するが、
これらの組み合わせの中で部立てが春同士なのは73番だけなんです。そこに意味があると言うことでしょうか。
定家略年譜
秀73からの天の川(堀河院)
天福元年
1233年
百72音に聞く 高師の浜のあだ波は
かけじや袖の ぬれもこそすれ
秀72高砂の 尾上の桜 咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ定家女出家 定家出家
定家孫女生1234年
秀73春日野の 下萌えわたる 草の上に
つれなく見ゆる 春の淡雪
百73高砂の 尾上の桜 咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ
文暦元年
1234年
百73高砂の 尾上の桜 咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ
秀73春日野の 下萌えわたる 草の上に
つれなく見ゆる 春の淡雪「新勅撰集」草稿奉る
後堀河院没1233年
秀72高砂の 尾上の桜 咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ
百72音に聞く 高師の浜のあだ波は
かけじや袖の ぬれもこそすれ
嘉禎元年
1235年
百74憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ
激しかれとは 祈らぬものを
秀74音に聞く 高師の浜のあだ波は
かけじや袖の ぬれもこそすれ「新勅撰集」道家に献
後鳥羽院環京拒否1235年
秀74音に聞く 高師の浜のあだ波は
かけじや袖の ぬれもこそすれ
百74憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ
激しかれとは 祈らぬものを
定家略年譜と秀76からの天の川(順徳院) (詳細は<定家略年譜>のサイトを参照)
二か所目の不都合が78歳の時の後鳥羽院崩御の時です。定家は両集の組み合わせを決めており、
天皇の崩御や政変などには「関所」に関する歌を用いると決めていたのでしょう。ただ自分より院が先に崩御するとは考えていなかったのかもしれません。
もし健在であったなら、ここに「後鳥羽院かは」の82「思ひわび」、「契りおきし」が入ってもおかしくありません。定家没後のことは、為家が流れに沿って配列を決めたが、組み合わせは不動だったでしょう。
定家略年譜
秀76からの天の川(順徳院)
嘉禎三年
1237年
百76わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの
雲居にまがふ 沖つ白波
秀76山桜 咲き初めしより ひさかたの
雲居にみゆる 滝の白糸
「俊頼髄脳」書写
98従二位家隆が天王寺にて没80歳1237年
秀76山桜 咲き初めしより ひさかたの
雲居にみゆる 滝の白糸
百76わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの
雲居にまがふ 沖つ白波
暦仁元年
1238年
「僻案抄」を100順徳院に送る 将軍頼経上洛
北白川院陳子(持明院基家女・後堀河天皇母)没66歳
宣秋門院任子(九条兼実女・99後鳥羽天皇中宮)没65歳
文暦元年
1239年
百78淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に
幾夜寝ざめぬ 須磨の関守
秀78長からむ 心も知らず 黒髪の
乱れて今朝は ものをこそ思へ
99後鳥羽院隠岐にて没60歳 (諡号顕徳院)
1240年
秀79わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの
雲居にまがふ 沖つ白波
百79秋風に たなびく雲の 絶え間より
もれ出づる月の 影のさやけさ
嘉禎元年
1240年
百79秋風に たなびく雲の 絶え間より
もれ出づる月の 影のさやけさ
秀79わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの
雲居にまがふ 沖つ白波
「治承物語」書写される
藤原秀能没57歳
北条時房没66歳 1241年
秀80秋風に たなびく雲の 絶え間より
もれ出づる月の 影のさやけさ
百80長からむ 心も知らず 黒髪の
乱れて今朝は ものをこそ思へ
文暦元年
1241年
百80長からむ 心も知らず 黒髪の
乱れて今朝は ものをこそ思へ
秀80秋風に たなびく雲の 絶え間より
もれ出づる月の 影のさやけさ
97定家没80歳
1239年
秀78長からむ 心も知らず 黒髪の
乱れて今朝は ものをこそ思へ
百78淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に
幾夜寝ざめぬ 須磨の関守
嘉禎元年
1242年
百81ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば
ただ有明の 月ぞ残れる
秀81淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に
幾夜寝ざめぬ 須磨の関守
四条天皇没12歳
100順徳院佐渡にて没46歳 1242年
秀81淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に
幾夜寝ざめぬ 須磨の関守
百81ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば
ただ有明の 月ぞ残れる
後堀河院の崩御に伴い破棄した「新勅撰集」を、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経父であり、
九条家3代当主の道家により政治的配慮を余儀なくされた再編集に対して、100定家は歌人として屈辱的な思いをしたのではないだろうか。
過去に二条天皇勅命による「続詞花集」が84清輔によって編まれていたが、
崩御によりとん挫したことがある。100定家も我が身に同じ事が起こってしまったと思ったから草稿を庭で焼いてしまったのだ。
最晩年において最高の名誉となるはずがこのようなことになり、
全く別の形で98実朝に贈った歌論書「近代秀歌」の内容や本歌取りの具体例を織り込んで歌人たちを天空の星に宿らせて留め置いたのですね。
これらは二つの歌集が合わさって初めて解き明かされることなのです。
参考資料
※「安倍清明 北斗七星占い」 祖笛翠 2000年 勁分社
※「現代に息づく陰陽五行」 稲田義行 2009年第8刷 日本実業出版社
※「陰陽師の解剖図巻」 川合章子 エクスナレッジ 2021年8月30日 初版第1刷発行
※「定家『明月記』の天文記録−古天文学による解釈−」 斉藤国治 1999年 慶友社
※「新勅撰和歌集」 久曾神昇 樋口芳麻呂校訂 2009年第4刷 岩波書店
※「源氏物語・巻四・槿」 円地文子訳 昭和五十五年第8刷 新潮社
※「更級日記」菅原孝標女 校注、訳者、注解 犬養 廉 新編日本古典文学全集 新潮社 By JapanKnowledge Personal
※「だれも知らなかった<百人一首>」 吉海直人 春秋社 2008年1月1日 第一刷発行
※「星座を見つけよう」 H.A.レイ文・絵 草下英明訳 1991年第51刷 福音館書店
※「眺める・撮る 星空の楽しみかた」 KAGAYA 河出書房新社 2021年12月30日2刷発行
ウエッブサイト「やまとうた・近代秀歌」
ウエッブサイト「「藤原定家は、なぜ超新星の記録を残したか」
京都の天文学【4】臼井正(京都学園大学) あすとろん5号 2009年1月1日発行
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