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★≪最勝四天王院≫
★≪定家略年譜≫
★≪北斗七星信仰≫
★≪二つの歌集とは 更新中≫
T.1竹取物語の五人の挑戦者 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
平安時代の物語。「竹取翁物語」と題した写本もあります。9世紀後半から10世紀前半頃に、和・漢,仏教の知識をもった男性によってつくられたと考えられています。
(元となる話は「万葉集」にも収められていて様々な伝承があります。)
内容は構成上、かぐや姫の生い立ち、5人の貴公子と帝(みかど)の求婚、かぐや姫の昇天の三部からなっています
姫のうわさを聞いて多くの男たちが求婚したが、なかでも中納言石上麻呂(いそのかみのまろ)、右大臣阿部御主人(あべのみうし)、
大納言大伴御行(おおとものみゆき)、石作皇子(いしづくりのみこ)、車持皇子(くらもちのみこ)、
の5人が特に熱心であった。
最後に帝が姫を求めて勅使を遣わしますが、姫はそのお召しにも応じず、養い親の翁や嫗の嘆きをあとに、不死の薬と手紙を残して、八月の十五夜に天人に迎えられて月の世界へ昇天してしまうのでした。
5人の貴公子
かぐや姫の難題
3人の実在の人物と仮託の2人
1
中納言石上麻呂
(いそのかみのまろ)燕の産んだ子安貝
石上麻呂(640〜717)は、壬申の乱(672年)では大友皇子側についていた。敗戦後に赦されて701年に大納言になり政治の中枢に携わった。しかし、710年に平城京に遷都した時に藤原京の留守役を命じられた。
2
右大臣阿倍御主人
(あべのみうし)火鼠の裘
ひねずみのかわごろも
(焼いても燃えない布)阿倍御主人(635?〜703)は、壬申の乱では大海人皇子側についていた。右大臣として太政官の頂点の座にいた。
持統天皇の代に、高市皇子、大伴御行、多治比嶋と並ぶ地位にあった。
3
大納言大伴御行
(おおとものみゆき)龍の首の珠
大伴御行(646〜701)は、壬申の乱では大海人皇子側についていた。
持統天皇の代に、高市皇子、阿倍御主人、多治比嶋と並ぶ地位にあった。
4
石作皇子
(いしづくりのみこ)仏の御石の鉢
多治比嶋(たじひのしま・624〜701)は宣化天皇(第28代)の玄孫。
天武天皇(第40代)の高祖母の石姫皇女は宣化天皇の皇女であり多治比嶋の祖母叔母になる。太政大臣の高市皇子に次いで高い地位についた。
5
車持皇子
(くらもちのみこ)蓬莱の玉の枝
ほうらいのたまのえ
(根が銀、茎が金、
実が真珠の木の枝)藤原不比等(659〜720)は、母が一説に車持与志古の娘。
701年の大宝律令編纂の中心的人物。阿倍御主人、大伴御行、多治比嶋などが次々と亡くなった後に、藤原氏の最初の黄金時代を築いた。
これは、「竹取物語」のかぐや姫に求婚する5人の貴公子の内、3人は実在の人で、
2人はそれとなく実在の人を感じさせます。もしそうであるなら、
作者と擬される28貫之は、「竹取物語」を書いて藤原氏の祖を風刺したのでしょうか。
「源氏物語」の「絵合」の帖では、物語の出で来はじめの祖と言われるとあります。
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T.2 漢詩集と万葉集 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
6安倍仲麿が遣唐使となり、唐の国にて玄宗(685〜712-756〜762)に仕え、李白、王維らの詩人と交流していたが帰国を試みたのは753年だった。
その2年前の751年に日本最初の漢詩集「懐風藻」が作られた。
※日本大百科全書(ニッポニカ) by Japanknowledge
詩集と歌集
年代
詳細
1
懐風藻
私選漢詩集
日本最初の漢詩集。選者は、
弘文天皇(大友皇子)のひ孫・淡海三船(おうみのみふね・722〜785)とも石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ・729〜781)とも言われるが不明。
5大伴家持が34歳の頃の751年成立。7世紀半ばから8世紀半ばの64人の漢詩からなる。
大友皇子(648〜672)に始まり、
700年代前半に活躍した葛井広成(ふじいのひろなり)で終わる。最後から二番目の石上乙麻呂(?〜750)は、宅嗣の父である。
乙麻呂は一時期土佐に配流になっていたことがあり、その当時に作った漢詩四首が載っている。
配流の悲哀を書した「銜悲藻(かんびそう)」があったらしい。
また=竹取物語=のモデルになった石上麻呂(640〜717)は、乙麻呂の父であり、
宅嗣の祖父である。
石上麻呂は、「壬申の乱」では大友皇子と共に戦ったが許されて大納言まで上った。
710年の平城京遷都の際に藤原京の留守役を命じられたわけだが、
麻呂、乙麻呂などが、戦いによって散逸した漢詩を集めていたものを22歳の宅嗣が父の没後にまとめたのではないだろうか。
※「懐風藻」全訳注 江口孝夫 講談社学術文庫 2018 第10刷
2
万葉集
私選集〜勅撰和歌集
現存する最古の歌集。雄略天皇に始まり、5大伴家持の歌で終わる。4500首余りの歌があり全20巻からなる。
最後の4巻は5家持の歌を軸として形成されている。一般的に「万葉集」は5家持の編纂によってなされたものと言われてきた。
大伴池主とのやり取りの中にある「山柿の門」(さんしのもん)の「山」は、5大伴家持の父である旅人と交流のあった山上憶良のことではないか。
785年の種継暗殺事件に関与していたとして、没後のことにも関わらず罪を問われて官位は剥奪され、息子は隠岐に配流となった。
桓武天皇は、罪に陥れた弟の早良親王などの怨霊に悩まされ続けた。崩御(806年)後、平城天皇は5家持の官位を元に戻したが、それのみならず代々受け継がれてきた歌集をまとめ、
最後に5家持の歌集を連ねて勅撰とし霊を慰めたのではないだろうか。
それ以前にも5家持は聖武上皇崩御(756年)後、「奈良麻呂の変」(757年)とは関わりなかったにもかかわらず連座して実質左遷の因幡の国守(758年)となっている。
30代の頃に歌を詠み交わした大伴古慈斐や大伴池主などが土佐配流や獄死になった2年後、国庁の年賀の宴にて次の歌を詠む。
元日の雪は豊年の瑞祥と考えられていた。
「万葉集」(掉尾歌4516)
新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事
その後、5家持は栄進もするが時代に翻弄されて、薩摩国から陸奥国へと平城京と行き来しながら人生を終える。
歌を一首詠めば人と時代が追随する。764年に起こった淡路廃帝(淳仁天皇)、天武系最後の称徳天皇と道鏡の「宇佐八幡宮神託事件」、天武系から天智系の光仁天皇に移った後の早良親王(廃太子)と続いた平城京最後の八世紀後半の中央政権の覇権争いや平城天皇自身の「薬子の変」などを呼び起すような歌を歌集に残したくなかったのかな。
3
凌雲集
勅撰漢詩集
嵯峨天皇(786〜809-823〜842)勅命814年、小野岑守(778〜830)、菅原清公(770〜842)らによって編纂された。作者は平城天皇、
嵯峨天皇、大伴親王(淳和天皇)ら23人で、全90首。なお、後に1首が加えられ、91首となって現在に伝わっている。
小野岑守は、7参議篁の父
菅原清公は、23菅家(道真)の祖父
4
文華秀麗集
勅撰漢詩集
嵯峨天皇勅命818年、藤原冬嗣(775〜826)が仲雄王や菅原清公などに編纂を命じた。作者は嵯峨天皇、
淳和天皇をはじめ28人に及び、渤海使節や女流詩人の作品も収めるという。もともとは148首が収めれていたが、内5首は伝わらない。
5
経国集
勅撰漢詩集
淳和天皇(786〜823-833〜840)勅命827年、良岑安世(785〜830)、滋野貞主(しげのさだぬし・785〜852)、 菅原清公らが編纂。作者は、淳和天皇、石上宅嗣、淡海三船、空海ら176人。
20巻のうち6巻が残っている。
桓武天皇男・良岑安世は、15僧正遍昭の父
滋野貞主は、仁明天皇女御・縄子の父
李白は762年に亡くなり、天武系から天智系になった770年に杜甫、6安倍仲麿が没した。
その2年後に白居易(772〜846)は生まれた。844年には67巻本(839年に完成)の『白氏文集』が伝来している。
845年に75巻完成。平安文学に多大な影響を与えた。
仁明天皇三男・18光孝天皇(830〜884-887)の御代より和歌復興となり宇多天皇、醍醐天皇と続く。
※「懐風藻」江口孝夫 全訳注 講談社学術文庫 2018年 第10刷
※「万葉集」全訳注原文付(一)〜(四) 中西進 講談社文庫 (一) 2009年 第42刷
※「大伴家持」北山茂夫 平凡社 2009年
※「平城天皇」春名宏昭 吉川弘文館 2009年
※「漢詩をよむ 白楽天 100選」石川忠久 NHK出版 2009年 第4刷
※「世界大百科辞典」by JapanKnowledge
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T.3 仁明・文徳朝の女御、更衣、宮人 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
仁明天皇
(810〜833-850)
藤原冬嗣女・順子(808〜871)
「承和の変」の後に即位する第一皇子の道康親王(文徳天皇)の母
良房(804〜872)は順子と同母兄弟藤原総継
(?〜?)女御・沢子
(?〜839)第三皇子、時康親王(18光孝天皇・830〜884-887)文徳、清和、12陽成(869〜876-884〜949)と直系が続いた後に即位。
第四皇子、人康親王(831〜872)・16蝉丸か?
滋野貞主
(785〜852)女御・縄子
(?〜?)第五皇子、本康親王(?-901) 八条宮と称した
香の調合に優れ、「源氏物語」(梅枝)において紫の上が「八条の式部卿の御方を伝へて」とある。
本康親王の孫娘・褒子が京極御息所となり、20元良親王(890〜943)が「わびぬれば」の歌を詠む。
紀名虎
(?〜847)更衣・種子
(?〜869)第七皇子、常康親王(雲林院宮)(?〜869)
雲林院はのちに15僧正遍昭(816〜890)に譲る
文徳天皇
(827〜850-858)
藤原良房女・明子(828〜900)
第四皇子でもって即位する惟仁親王(清和天皇・850〜858-876〜881)の母紀名虎
(?〜847)更衣・静子
(三条町)
(?〜866)第一皇子、惟喬親王(小野宮)(844〜897)
10業平(825〜880)が仕える
第31代伊勢斎宮、恬子内親王 清和天皇(859)即位から12陽成天皇即位(876)まで斎院。母静子没後も退下出来ず。「伊勢物語」69段
滋野貞主
(785〜852)
宮人・奥子
(?〜?)
第三皇子、惟彦親王(850〜883)
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T.4 蝉丸 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
16蝉丸は、15僧正遍昭(816〜890)と17河原左大臣(源融)(822〜895)のあいだにいる。
順番が後になっているが、トピック<T.6 他氏排斥事件>での8猿丸大夫と14喜撰法師のことを考えると、
蝉丸もこの時代の人ではないかと思う。
盲目の琵琶の名手として、仁明天皇の第四皇子である人康(さねやす)親王(831〜872)という人がいます。18光孝天皇(830〜887)の同母弟です。
「新古今集」 (雑下掉尾歌1851) 蝉丸
世の中は とてもかくても 同じこと 宮も藁屋も はてしなければ
・世の中はどの様に過ごしても所詮同じことです。素晴らしい宮殿であっても、みすぼらしい藁屋であっても、どのように住んでいても際限がないのですから。
人康(さねやす)親王(831〜872)。 仁明天皇の第四皇子。
859年出家。 法名は法性。山科に住む。 隠棲理由の病気は両目を患ったためか?
当道において、親王は琵琶の名手。
当道座とは、中世から近世にかけて日本に存在した男性盲人の自治的互助組織。
のちの世には、琵琶法師の祖とされて、毎年,琵琶法師の最高位の人たちが集まって霊を慰めた。
946年?に創建された蝉丸神社の主祭神の蝉丸大神は、音曲芸道の祖神と仰がれた。
諸芸能の生業者に崇敬され、興業には当神社発行の免許が必要とされた。
逢坂の関の辺りに住む盲目の琵琶法師としての蝉丸のイメージが作られていったのか。「今昔物語」での敦実親王(宇多天皇皇子)の琵琶の名人であった雑色が逢坂山に住んでおり、管絃の名人であった源博雅(918-980)が通い詰めた話(年代が合わないですね)や
はたまた醍醐天皇の皇子であるとか。「平家物語」、「能」、「人形浄瑠璃」などに取りあげられている。
人康親王の娘は、藤原基経との間に、時平、仲平、34忠平、穏子を儲けている。穏子は醍醐天皇中宮となり、朱雀天皇、村上天皇の生母となった。
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T.5 羇旅・離別 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
#
歌順
初句
出典
歌人名
1
秀6
あまのはら
古今集
羇旅4066安倍仲麿。羇旅歌の巻頭歌。第44代元正天皇御時、遣唐使として唐に渡る。帰国を志すが叶わず唐にて亡くなる。
2
秀7
わたのはらや
古今集
羇旅4077参議篁(小野篁)。第54代仁明天皇御時、遣唐副使の任を放棄したことにより嵯峨上皇の怒りをかって2年間隠岐に流罪となる。隠岐島へ船出する時に詠まれた。
3
秀9
たちわかれ
古今集
離別3659中納言行平(在原行平)。離別歌の巻頭歌。第55代文徳天皇御時、事ありて一時期、須磨に籠っていた時期がある。この歌は因幡守に赴任する時に詠まれたものです。
4
秀23
このたびは
古今集
羇旅42023菅家(菅原道真)。第60代醍醐天皇御時、藤原時平の中傷により大宰権帥に左遷となり配所で亡くなる
「古今集」(羇旅421 掉尾歌) 素性法師
手向けには つづりの袖も きるべきに 紅葉に飽ける 神や返さむ
・手向けには、この私の粗末な衣でも切って幣として捧げるべきですが、
紅葉に満ち足りた神様は受け取っては下さらずにお返しになるでしょうか。
共に朱雀院(宇多上皇)の奈良への旅にて詠まれたが、同じ場面で詠まれたかどうか分かっていない。
しかし、22素性法師は道真におごりを感じていたのでしょうか。それとも28貫之が結果論として道真の次にこの歌を並べたのでしょうか。
5
秀98
よのなかは
新勅撰集
羇旅52598鎌倉右大臣(源実朝)。XX順徳天皇御時、
甥の公暁に鶴ヶ丘八幡にて襲われ亡くなる。
ちなみに、「新勅撰集」(羇旅)の歌は大伴旅人と5家持の親子で始まりますが2首目の家持の歌、
(羇旅495)
ふせのうみの おきつしらなみ ありがよひ いやとしのはに 見つゝしのばむ
・布施の海の沖の白波が寄せては返すように、通い続け、ずっと毎年見ては素晴らしさを感じよう。
「おきつしらなみ」と、XX後鳥羽院を思い起こさせる言葉が出てきますね。
6阿倍仲麿、7小野篁、9在原行平の三人は、
その後それぞれの分野で活躍しましたが、23菅原道真と98源実朝は非業の最後でした。
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T.6 他氏排斥事件 (仮託の歌人たち・猿丸大夫と喜撰法師) 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
「古今和歌集」の真名序(紀淑望)で、六歌仙の一人、大友黒主について、「大友黒主の歌は、古の猿丸大夫の次なり」と述べています。
しかし、仮名序(紀貫之)では、この一文はありません。真名序と仮名序はどちらが先にできたのか意見の分かれるところです。
淑望が書き足したのか、28貫之が省いたか。そこに意味はあるのでしょうか。その意味を考えた時、伝承の歌人8猿丸大夫と14喜撰法師が浮かび上がってきました。
<T.5=羇旅・離別の歌=>で言及した7参議篁(802〜852)と9中納言行平(818〜893) にはさまれた8猿丸大夫は、その時代の人ではないだろうかと思い、
藤原北家による他氏排斥事件「承和の変」(842年)などを調べてみた。
また、六歌仙の一人、13小野小町と15僧正遍昭(816〜890)にはさまれた14喜撰法師は、
紀淑望や28紀貫之の紀氏の人たちにとって公にできない者へ鎮魂をこめて「応天門の変」(866年)仮託したのではないだろうか。
年
事件、変
略伝
785年
延暦四年藤原種継暗殺事件
藤原種継(藤原式家)は、桓武天皇より長岡京の造宮使に任命されたが、造宮監督中に矢で射られ亡くなった。事件直前に死去していたにも拘らず5大伴家持は首謀者として官籍から除名された。
桓武天皇の皇太弟であった早良親王も関係者として廃嫡、配流と憤死にまで発展した。
5家持は没後20年以上経過した平城天皇の御時(806年)に恩赦を受けて従三位に復している
810年
大同五年薬子の変
(平城太上天皇の変)桓武天皇が崩御した後、平城天皇が即位(806年)。病弱の原因が、叔父の早良親王の祟りなどにあると思い嵯峨天皇(平城弟)に譲位した。
しかし健康を取り戻した上皇は、平城京へ遷都しようとして失敗し、藤原種継の男(仲成)や女(薬子)が処罰されたり自害したりした。
皇太子だった高岳親王(平城男)は廃され、淳和天皇(嵯峨弟)が立てられた。9行平、10業平の父である阿保親王(平城男)も連座して
大宰員外帥へ左遷された。後に許されて824年に京に戻った。
平城法皇は変の後も朝覲を受けるなどの名誉ある待遇と相当の宮廷費を受けた。上皇が挙兵に着手して失敗した例は、こののち346年後の「保元の乱」の77崇徳院までない。
842年
承和九年承和の変
823年に淳和天皇(嵯峨天皇弟)が即位すると仁明天皇(嵯峨男)が皇太子となった。
833年に、仁明天皇が即位すると恒貞親王(淳和上皇男)が皇太子となった。840年に淳和上皇が崩御し、その2年後に嵯峨上皇が崩御すると、仁明天皇と良房妹との皇子(文徳天皇)を即位させたいのではと危惧し、恒貞親王に仕えていた
伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢(たちばなのはやなり)は阿保親王に相談した。
それが良房を通して仁明天皇の知るところとなり謀反人と断じられた。恒貞親王は廃され、良房の競争相手である同族の藤原氏や大伴氏、橘氏、文室氏など多くの氏が配流となった。
良房は、文徳天皇の外伯父となり、太政大臣(文徳天皇御時)、摂政(清和天皇御時)となった。藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている事件。
866年
貞観八年応天門の変
清和天皇(文徳天皇男)御時に、応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣・源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言により無罪となった。その後、
密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。伴善男の祖父、大伴継人は、種継暗殺事件の首謀者として処刑されている。伴善男の処罰により、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。
「応天門の変」で処罰を受けた人の中に、紀夏井と言う人がいる。異母弟の紀豊城が共謀者の一人として逮捕されると、
夏井もこれに連座、肥後守の官職を解かれて土佐国への流罪となった。夏井は文徳天皇から寵遇を受け、また赴任地でも
農民から大変慕われたとのこと。なんの罪もなく、人望のあった夏井の失脚こそが紀氏の中央政権からの没落となった。
901年
昌泰四年昌泰の変
左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)により醍醐天皇が23右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し子供たちも流罪に処した事件。
醍醐天皇の即位当時(897年)、仁明天皇の嫡流子孫である20元良親王(12陽成院男)らを皇位継承者に擁立する動きに強い警戒感を抱いていた宇多法王は、天皇御時に起こった基経との苦々しい阿衡事件(888年)から
藤原時平が外戚の地位を狙っていることにも反発していた。23菅原道真を重用していた宇多法王と時平に信頼を寄せていた醍醐天皇の間に亀裂が生じていた。
宇多法皇が23道真の娘婿でもある斉世親王を皇太弟に立てようとしているという風説が流れると、醍醐天皇と藤原時平らが政治の主導権を奪還せんとしたのである。時平の讒言を信じた醍醐天皇の宣命によって23道真は大宰員外帥に降格された。
2年後の903年に現地で没した。
923年、罪を許され、従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈られた。
993年、5月に正一位左大臣を贈られ、10月に太政大臣を贈られた。
8猿丸大夫は、仁明天皇の時代の人と推定し、真名序で「大友黒主は古の猿丸大夫の次」と言ってます。「おおとも」という音に導かれて、
黒主より前の人である伴健岑(とものこわみね)を猿丸大夫として仮託してみた。大伴氏は、平安初期に淳和天皇の諱(大伴親王)を避けて伴氏(ともうじ)に改称しました。
伴健岑は、恒貞親王の春宮坊帯刀舎人でした。春宮坊の長は春宮大夫と呼ばれましたが、伴健岑は大夫の役目もになっていたことはないでしょうか。「去っていった麻呂は、大夫であった。」...「猿丸大夫」とか...。
「古今集」には、「物名」(もののな、ぶつな)という部立てがあります。
勅撰集で「物名」の歌がまとめられているのは、「古今集」の他に59藤原公任撰の「拾遺抄」を基とした「拾遺集」、87俊成撰の「千載集」などがあります。
そして100定家撰の「新勅撰集」では、第二十巻の雑歌五で物名の歌をいくつかまとめています。
「古今集」では詠み人知らずの歌としているのを、59公任は「三十六人撰」で猿丸大夫の歌として取り上げました。87俊成は、「三十六人撰」の歌人はそのままにして歌を選び変えましたが、8猿丸大夫の歌はそのまま同じ歌です。そして100定家も、
やはり8猿丸大夫の歌として選びました。28紀貫之、59藤原公任、87藤原俊成、100藤原定家と歌道の家に連綿と受け継がれていったものがあるような気がしてます。
そういう考え方で、掛詞として、8猿丸大夫を読み解いてみました。「物名」として何か秘められたものがあるのかもしれませんが...。
「玉葉集」(夏404) 喜撰法師
木のまより 見ゆるは谷の ほたるかも いさりにあまの 海へ行かも
「玉葉集」撰者の京極為兼(100定家の曽孫)は、なぜこの歌を撰んだのでしょう。
「応天門の変」から30数年後に、「古今集」の真名序を記した紀淑望や仮名序を記した28紀貫之は、没落していった自分たちの紀氏を14喜撰法師に、大伴氏の名を大友黒主を通して8猿丸太夫に仮託
したのではないでしょうか。
これは、「竹取物語」のかぐや姫に求婚する5人の貴公子の内、3人は実在の人で、2人はそれとなく実在の人を感じさせながら、暗に藤原氏を風刺しようとしたのと同じような組み立てでしょうか。
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T.7 是貞親王家歌合・寛平御時后宮歌合・新撰万葉集 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
是貞親王(18光孝天皇第二皇子、母は班子女王)は、「新撰万葉集」の編纂に先立って宇多天皇(18光孝天皇第三皇子、母は班子女王)より託されて、その元となる「是貞親王家歌合」の撰定を行っている。現存してるのは秋歌71首。
「寛平御時后宮歌合」は(889年〜893年)、春、夏、秋、冬、恋の5題を各20番、あわせて100番200首という大規模なものであるが、歌合行事はなく、撰歌合(せんかあわせ)であったといわれる。そうでないと、「おくやまに」を詠んだ歌人が其処にいたことになります。
現存しているのは、193首。
「是貞親王家歌合」とともに、「新撰万葉集」に多数入集して、「古今集」の成立の前提となったものである。
「新撰万葉集」は、23菅原道真撰と言われている、和歌の漢詩訳集である。上・下2巻。序によれば,成立は上巻が893年(寛平5)。「菅家万葉集」とも言われる。現存しているのは、上巻が237首。
これらの「歌合」、「新撰万葉集」、「古今集」の詞書などと「百人秀歌」の入首歌を照らし合わせると関係するものが5首(5X1)ありました。
#
#
初句
歌人名
出典
歌合、新撰万葉集、古今集の詞書と、この101首の歌集の関係
1
秀11
すみの江の
藤原敏行
古今集 恋二559
詞書どおり「寛平御時后宮歌合」の(186)に初句が、「すみよしの」としてあります。
2
秀30
つきみれば
大江千里
古今集 秋上193
詞書どおり「是貞親王家歌合」にあります。大江家は菅原家と同じく漢学者の家系です。
3
秀8
おくやまに
よみ人しらず
古今集 秋上215
「是貞親王家歌合」にある筈なんですが有りません。「寛平御時后宮歌合」(82)と「新撰万葉集」(113)にはあります。
4
秀27
ふくからに
文屋康秀
古今集 秋下249
「是貞親王家歌合」にある筈なんですが有りません。「寛平御時后宮歌合」と「新撰万葉集」にもありません。
5
秀38
しらつゆに
文屋朝康
後撰集 秋中308
詞書では「延喜御時歌めしければ」となってますが、「寛平御時后宮歌合」(90)と「新撰万葉集」(87)にあります。
5首の内、2首は古今集の詞書通りとなっており、3首は詞書と違っています。
定省親王(宇多天皇)は、班子女王を同母とする第一皇子の是忠親王(21源宗干の父)や第二皇子の是貞親王がいるにもかかわらず第三皇子でありながら即位しました。これは藤原基経の異母妹の尚侍藤原淑子が、
班子女王と非常に親密な関係にあり、また定省親王を猶子にしていたことがあります。基経が望んでいたわけではなかったようですが。
六歌仙時代の27文屋秀康の歌を、「是貞親王家歌合」にて、と言うのは間違えたのではなく、
藤原家の排斥に巻き込まれた人たちの鎮魂歌として、自分たちを草木に例え、摂関家の人たちの陰謀を風に例えたのです。そしてその歌を「是貞親王家歌合」にて、ということにして
悲劇の親王たちの名も浮かび上がらせたのです。
28貫之男の紀時文は、「後撰集」の編纂の折に、38朝康の歌を延喜御時として、暗に23道真の左遷を匂わせているのではないでしょうか。100定家は、これらの事を承知していて、この「百人秀歌」と「百ト一首」を
合わせて読み解くと、摂関家から排斥された歌人たちの思ひを浮かび上がらせられる様にしたのではないでしょうか。
「古今集」の詞書が間違っているのではなく、そこに選者たちの思惑があったのかもしれません。
全105首の歌はすべて勅撰和歌集にあるということですが、勅撰集歌人としての8猿丸大夫の名はどこにもありません。
8番目の「おくやまに」の歌は、「古今集」ではよみ人しらずとなっています。
59藤原公任の「三十六人撰」に始まり、87俊成、100定家と受け継がれてきたものがあるのでしょう。
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T.8 大和物語 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
「大和物語」は10世紀中頃に成立し、通常173段の章段からなる歌物語です。前編と後編から成り、前編は、
宮廷歌物語、後編は、伝説や口碑による悲話などが語られています。
宇多天皇の出家間近の19伊勢の悲しみの歌に始り、15遍昭の出家と放浪にて終わります。
「古今集」‐‐‐‐‐‐‐‐「伊勢物語」 (惟喬親王、在原氏、紀氏)
「後撰集」・「拾遺集」‐‐‐‐「大和物語前編」 (宇多上皇、醍醐天皇、親王、藤原氏)
ところで、46源重之は10世紀末に没した人ですが、46重之がこの物語の関係人物の中で没年順では一番遅い人になります。
「大和物語」の中の歌のみならず語りの箇所だけの登場や姻戚関係など関係する歌人は100人余りいますが、
そのうち20人(5X4)が、「百人秀歌と百ト一首」に入っています。
歌は300首近くありますが一首しか撰ばれていません。
定家が編纂した「新勅撰集」に、「大和物語」より16首、13人の歌人を撰んでいますが、
そのうち5人(5X1)がこの歌集に入ってます。名前の色を変えています。
忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな 39右近
3
人麻呂
10
在原業平
12
陽成院
13
小野小町
15
僧正遍昭
19
伊勢
20
元良親王
21
源宗干朝臣
24
壬生忠岑
25
凡河内躬恒
26
紀友則
28
紀貫之
34
貞信公
35
三条右大臣
36
中納言兼輔
39
右近
40
権中納言敦忠
41
平兼盛
44
中納言朝忠
46
源重之
※「大和物語の人々」 雨海博洋、ヤマザキ正伸、鈴木佳與子 笠間選書 昭和54年発行
※「大和物語 全訳注」 雨海博洋・岡山美樹 講談社学術文庫 2006年
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T.9 菅原家と藤原長良・良門流 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
昌泰の変<T.6=他氏排斥事件=>により、道真は大宰府に没し、子供たちも配流になりますが、
その後許されて京に戻ってきます。長男の高視系は学者の家として文章博士となり、侍読を務める者もあらわれ鎌倉時代初期には定家と関わってきます。
家系図の記号: || 子孫、 ++++婚姻関係、 ・・・・・兄弟、
(秀23)菅原道真
(845-903)
(長良流高経家)
・
基経(836-891)
良房養子・・・
(長良流清経家)
||
||
||
||
時平(871-909)
||
||
||
||
||
淳茂あつしげ
(道真五男)・・
高視たかみ 一時期土佐に配流
(道真長男・876-913)
藤原倫寧ともやす
(?-977)
藤原文範
(909-996)
||
||
||
||
||
||
||
||
在躬
ありつね
雅規
まさのり
(?-979)・・・
文時
ふみとき
(899-981)
||
・・・
・倫寧女
+++
藤原為雅
・・
藤原為信
||
||
||
||
||
||文時の詩は「和漢朗詠集」(秀59公任撰)に日本作者では最も多い。唐作者では白居易。拾遺集に一首。
・
・
・
||
||
||
輔正すけまさ
(925-1009)
参議(996年)
円融天皇
花山天皇
両天皇の侍読
資忠
すけただ
(936-989)
(秀56)
道綱母
「蜻蛉日記」
(937?-995)
藤原為時
(良門流利基家)
(949?-1029?)
菅原文時の門下生+++++
為信女
||
||・
・
||
||
孝標
たかすえ
(972-?)+++
倫寧女
・・・
・・・・・
惟規
のぶのり・・・
(秀64)
紫式部
「紫式部日記」
||
||
孝標女
「更級日記」
(1008-1059?)・・・
定義
さだよし
(1002-1065)+++++
(秀50)
実方の女
||
||
在良ありよし
(1041-1121)
「新勅撰集」に三首
鳥羽天皇の侍読・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・
是綱
(定義長男)
||
||
||
||
藤原信成
(良門流高藤家)+++
在良女
・・・
花園大臣家
小大進
宣忠
||
||
||
||
||
||
(秀91)
殷富門院大輔
(1130?-1200?)
小侍従
(1121-1202)
長守
||
||
為長の任参議(1235年)は輔正(23菅原道真ひ孫)の996年の任参議以来239年ぶり。
土御門・順徳・後堀河・四条・後嵯峨の5代の天皇に亘り侍読を務める。
九条家の家司として仕え、同じく家司の定家より高く評価される。為長
(1158-1246)
土御門天皇より五代の侍読
23菅原道真は993年5月に正一位左大臣を贈られ、10月に太政大臣を贈られた。
=上にもどる=
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T.10 天徳内裏歌合(てんとく だいり うたあわせ) 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
村上天皇の治世(天暦御時)の天徳四年三月三十日(960/4/28)、十二題二十番の歌合。判者は左大臣藤原実頼、その補佐に大納言源高明。
後世の範と仰がれた晴儀の内裏歌合が披講された。
20番目に詠まれた41平兼盛と42壬生忠見の歌が後世の語り草となる名勝負となった。
勝負が決しがたく、判者の実頼は天皇の御気色を伺ったところ、ひそかに41兼盛の歌「しの...」を口ずさまれたので勝ちとした。
41兼盛はこの歌が勝ったことを聞いて喜び勇んで他の自分の勝負には執着せず退出してしまったらしい。
負けた42忠見は、食事ものどを通らず没したというが、後々の歌が残っているので誇張された逸話だが、それくらいの名勝負だったということですね。
実際の歌合では、42忠見が先に詠まれたが、100定家は「百人秀歌と百ト一首」ともに41兼盛を先にしている。<定家略年譜>の自分史においてその必要性があったということか。
5人(5X1)がこの集に入っており、歌は3首撰ばれている。
伝本により45清原元輔の名が有ったり無かったりしているが、10世紀の代表歌人が並ぶ中に45元輔が撰ばれていないのは不自然と思う。
「百人秀歌」40番までの内、「天徳内裏歌合」開催時に存命していたと思われるのは39右近だけです。40敦忠も943年に亡くなっています。
41番からは「天徳内裏歌合」参加者に始まり、「後撰集」編者と関係者が並び、48大中臣能宣をもって一つの時代が終わります。
「大和物語」も46重之で終わってますね。
歌人名
出典
和歌
1
41平兼盛
拾遺集
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
2
42壬生忠見
拾遺集
恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
3
44藤原朝忠
拾遺集
逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
4
45清原元輔
後拾遺集にあるが、伝本によって兼盛、元真、元輔とあり特定できない。
5
48大中臣能宣
※「拾遺和歌集」校注者 小町谷照彦 新 日本古典文学大系7 岩波書店 1990年第1刷
※「後拾遺和歌集」校注者 久保田淳 平田善信 新 日本古典文学大系 岩波書店 1994年第1刷
※「陰陽師7」岡野玲子 原作 夢枕 獏 白泉社 平成12年第4刷
※「天徳内裏歌合」「国史大辞典」by ジャパンナレッジ
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T.11 梨壺の五人 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
梨壺の五人
親子関係
1
源順☆
2
紀時文
1
28紀貫之の男
3
坂上望城
2
29坂上是則の男
4
45清原元輔
3
33清原深養父の孫
4
60清少納言の父
5
48大中臣能宣
5
65伊勢大輔の祖父
☆源順(嵯峨源氏 911-983)は、漢詩や和歌に優れ、
梨壺の五人の一人として「万葉集」の訓点作業と「後撰集」の撰集作業に参加した。
天徳四年(960)の内裏歌合<T.10=天徳内裏歌合)>の参加メンバーの一人。
冬によく見られるプレアデス星団にあるスバルついて言及した日本での最古の記録は、
平安時代に源順(911-983)が醍醐天皇皇女勤子内親王(904-938)の命で作成した百科事典「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)だと考えられている。
この中で、昴星の和名は須波流と記されている。
源高明のサロンに出入りしていた関係か安和二年(969)の「安和の変」<T.13=一条朝前後>以後は散位生活を送る。
特に斎宮女御・徽子女王とその娘・規子内親王のサロンには親しく出入りし、
977年の斎宮・規子内親王の伊勢国下向の際も群行に随行している。
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T.12 源氏物語のモデル 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
文徳天皇の代に身分の低い紀名虎の娘である静子(更衣)と言う人がいました。天皇の寵妃であり、
天皇も第一皇子の惟喬親王を特に愛しておりました。しかし、後ろ盾がなく次の天皇に望むも諦めざるを得ませんでした。「伊勢物語」では、静子の娘の恬子内親王が斎宮として伊勢にいた時に、
10在原業平を接待するようにと手紙を送ったような逸話(69段)がありますね。
宮道列子が良門流の藤原高藤の室となり、
誕生した娘の胤子は臣籍降下していた源定省に嫁いでます。
源定省は親王に戻り、宇多天皇になった人です。敦仁親王、敦慶親王、敦実親王たちの母となりました。
第一皇子の敦仁親王が醍醐天皇です。しかし、胤子は、醍醐天皇の即位を見る前に亡くなりました。
冒頭に「いづれの御時か....」という詞書で始まる「伊勢集」は、19伊勢本人が残したものか、
娘の中務が編集したのか分かりませんが、「源氏物語」に通じるものがあります。19伊勢は、権門の仲平や時平に捨てられた後、
宇多天皇に見初められます。その後、その息子の敦慶親王との間に中務が生まれます。
村上天皇皇女の規子内親王が斎宮になった時、母の斎宮女御(徽子女王)は一緒についていきました。
44朝忠は、宇多天皇関係者(源氏物語の登場人物たち)と64紫式部の良門流の家系を繋ぐ要でした。
64紫式部は、良門流の出自を強く意識していたのではないでしょうか。
「いづれの御時にか」より始まる「源氏物語」のあまたさぶらう女御や更衣の一人桐壺の更衣って、藤壺って誰のことなんでしょうね。
繰り返される歴史の中で、モデルになるべき候補者は様々で、思い描く人それぞれに思い描くモデルがいるはずです。
家系図の記号: ||、==子孫、 +++++婚姻関係、 ・・・・・兄弟、
滋野縄子
+++++
仁明天皇
++++
藤原沢子
||
||
第五皇子
本康親王第四皇子
人康親王
||
||
廉子女王
++++
時平
←←母・人康親王女
←←父・藤原基経
||
||
||
第三皇子
(18)
光孝天皇 ←←母・藤原沢子
←←父・仁明天皇
||
||
(秀百20)
元良親王+++
京極御息所
(褒子)++++
宇
多
天
皇+++温子
←母・操子女王(嵯峨天皇孫)
←父・藤原基経
良門
||
宮道列子
+++++
高藤
・・・・・・・・
利基
++++
(秀百19)
伊勢++++
||
||
+===
=中務
++++
胤子
・・・・・
(35)
定方
(36)
兼輔★
+
||
||
||
+
++++敦慶親王
・・★醍醐天皇・・
敦実親王
||
||
||
(秀百44)
朝忠・・・・朝頼・
・・定方女
++++
雅正
兼輔★
次男
清正女++++
☆源守清
醍醐天皇
第七皇子
有明親王
||
||
||
||
||
源雅信
(母・時平女)+++++
朝忠女
穆子為輔
為頼
・・・・・
為時
源高雅
||
||
||
||
||明子
父・源高明+++
藤原道長
+++
倫子
宜孝
+++++
(64)
紫式部
||
||
||
||
懿子
よしこ+++++
長家
1005-1064一条中宮
彰子
988〜1074(62)
大弐三位
999?-1082?
||
忠家
1033-1091
★醍醐天皇
885-930
||
第三皇子
代明親王
904-937第四皇子
重明親王
906-954第七皇子
有明親王
910-961第十皇子
源高明
914-982第十四皇子
朱雀天皇
923-952第十六皇子
村上天皇
926-967
||
||
||
徽子女王
(斎宮女御)
929-985☆源守清
||
||
||
||
||
規子内親王
村上天皇
第四皇女
(斎宮)
949-986
第二皇子
冷泉天皇
950〜1011第七皇子
円融天皇
959-991選子内親王
第十皇女
(大斎院)
964〜1035第九皇子
具平親王
964〜1009
光源氏のモデルとなった人は、非常に好色であった20元良親王、
琴、弓に秀でた好色無双の美人と称された敦慶親王、音曲に優れた敦実親王など余多いると思うが、
源氏に臣籍降下したのち親王に戻り天皇となった宇多天皇もモデルの一人だったでしょう。
しかし実在の朱雀天皇、冷泉天皇に続いて64紫式部の身近な存在として具平親王がいました。
藤壺の女御は19伊勢(宇多天皇と、その親王、敦慶親王と結ばれた)、明石の君は宮道列子、明石の姫君は胤子。彼女たちは、
良門流の受領の娘であった64紫式部たちのあこがれのヒロインだったかもしれません。
また64紫式部の母は為信娘<T.9菅原家と藤原長良・良門流>ですが、その為信の妻は宮道忠用の娘です。
紫式部にとっても宮道家は身近な存在でした。
※ 源氏物語千年紀記念「紫式部伝: その生涯と『源氏物語』」 門田文衛 法蔵館 2007年1月25日 初版第1刷発行
※「王朝女流歌人抄」 清水好子 新潮社 平成4年5月25日 3版発行
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T.13 一条朝前後 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
貞観八年(866)の「応天門の変」、昌泰四年(901)の「昌泰の変」などの<T.6=他氏排斥事件>の後、
藤原家は臣籍降下をした源氏を排斥したり、兄弟同士のあいだで天皇の外戚となるための争いを続けていきます。
年
事件、変
略伝
969年
安和二年 安和の変
藤原氏による他氏排斥事件。謀反の密告により醍醐天皇の第十皇子である左大臣源高明が失脚させられた。
村上天皇の崩御後に冷泉天皇が即位した。まだ幼く子供がいないので、皇太子弟として、高明娘を妻とする弟の為平親王と、
藤原兼家女を妻とするさらに若い弟の守平親王をめぐっての両家の争い。数年後に守平親王が円融天皇となる。
高明には、師輔3女との間に源俊賢(一条朝四納言の一人)。師輔5女・愛宮との間に源経房と明子がいた。経房は「枕草子」に左中将として登場し、
「枕草子」を世に広めた人として伝わる。また、娘の明子は叔父の盛明親王の養女となり
その後、東三条院(円融天皇女御・一条天皇母)の庇護を受けた。道長室となり、子の一人、長家が御子左家の祖となる。
愛宮は変後に離別し、出家して桃園に住んだことが「蜻蛉日記」に記されている。
986年
寛和二年 寛和の変
花山天皇の退位と出家に伴う政変。
円融天皇皇子・東宮懐仁親王(一条天皇)を即位させ、外祖父になりたい藤原兼家が企てたこと。
兼家の叔父である実頼男の頼忠は、円融、花山両天皇の関白だったが、天皇の外戚になることが出来ず失脚した。
これにより息子の59公任の昇進は滞るようになった。
また、この事件の為に、花山天皇の親王時代に学問を教え、
当時式部丞になっていた64紫式部父・藤原為時は、失職し以後10年余り散位となった。為時兄の為頼も花山朝に順調に昇進したが変後は停滞し、
長徳2年(996)、太皇太后宮大進に任ぜられ太皇太后・昌子内親王に仕えた。
昌子内親王(950-1000)は、朱雀天皇第一皇女で冷泉天皇中宮。摂関家出身の女御に遠慮して里邸で過ごした。61和泉式部の母が傍に仕え、
夫の橘道貞邸にて崩御。
996年
長徳二年 長徳の変
中関白家の内大臣、藤原伊周と弟の隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件。
伊周の誤解により、花山法王を矢で射ってしまった。
また、東三条院(一条天皇母、詮子)を呪詛したこと、密かに太元師法を修したことなどにより、道長は、伊周、隆家を流罪にして失脚させた。
その後、母の55儀同三司母、妹の53一条院宮定子は、不遇の中で亡くなった。
1011年
寛弘八年 敦康親王
敦康親王は一条天皇の第一皇子でありながら母の53定子、叔父の伊周の死後、後ろ盾がなかった。
天皇は譲位後に敦康親王の東宮を望んだが、藤原行成は文徳天皇の惟喬親王の例を挙げて止めさせた。
54三条天皇即位と共に東宮は、
道長女の彰子出生の敦成親王(後一条天皇)となった。行成は敦康親王(999〜1019)が亡くなるまで家司として仕えた。
敦康親王には具平親王女との間にゲン子女王がおり、女王は後朱雀天皇中宮となる。その長女の祐子内親王には、藤原長家(御子左家)が別当として、74祐子内親王紀伊、
75相模、菅原孝標女(更級日記)などが出仕していた。
1016年
長和五年小一条院
54三条院(976-1011〜1016-1017)は即位後数年たって眼病を患ったり(1014)、内裏が二度にわたって消失したり不幸なことが続いた。
道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。
病状の悪化もあり、54三条院は第一皇子の敦明親王(小一条院)の東宮を条件に、
敦成親王(後一条天皇)に譲位し、翌年42歳で崩御した。
後一条天皇の即位に伴い、敦明親王(小一条院)が東宮になったが、三条院崩御後に東宮を辞退した。
64紫式部父の為時は、1014年に任期を1年残して越後守を辞退し帰京。1016年に出家した。
源高明失脚後、兼家は従兄、兄弟と争い、四男の道長は、兄弟の思わぬ病死の後、最後に勝ち残りました。
34貞信公(忠平880-949)以降、九条流は、師輔、兼家、道長、頼通、師実、師通、忠実と紆余曲折は有りながらもおおよそ摂関家の直系が続きますが、
79法性寺入道前関白太政大臣(忠通1097-1164)までの200年間の摂関家からの歌が一首もありません。
定家は、忠平や忠通を敗者とみなしていたのでしょうか。
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T.14 母と名がつく歌人と定家 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
この時代の女性の名前はほとんど分かっていません。父親の役職名や赴任地名などによって呼ばれてました。
そういう呼び方の中で「だれそれの母」と呼ばれる人がいます。この集では二人、55儀同三司母と56右大将道綱母がいますが、二つの集のどちらにも順番は違えども並んでいます。
何かを感じて系図を調べてみました。
家系図の記号: || 子孫、 +++++婚姻関係、 ・・・・・兄弟、
56右大将道綱母 (937?-995)
「蜻蛉日記」
+++++++
藤原兼家(道隆父) (929-990)
||
55儀同三司母 (953?-996)
+++++
中関白家・藤原道隆 (953-995)
右大将道綱
(955〜1020)+++
源雅信女・中の君
(?-1000)
||
||
道隆三男
伊周
(974〜1010)・・・
53定子
一条院皇后宮
(977〜1000)・・・
道隆四男
隆家
(979〜1044)
||
||
||
||
||
隆家次兄
経輔
(1006-1081)・・・・・・・・・・・
隆家女
+++++
道綱三男
兼経
(1000-1043)+++
弁乳母・
禎子内親王乳母
(三条院第三皇女)
(後三条天皇母)
||
||
||
||
||
||
||
||
||
||
||
||
||
御子左家祖
長家
(1005-1064)
兼経三男
顕綱(歌人)
(1029-1103?)
||
||
経輔女
+++
長家次兄
忠家
(1033-1091)
伊予の守
敦家
(1033-1090)++++
堀河天皇乳母
兼子
(1050-1133)・・・
長子
(1079-?)
「讃岐典侍日記」
||
||
俊忠
(1073-1123)++++++++++++
兼子女
・・・
敦兼
(1079-?)兼子は伊予三位敦兼母として、
「千載集」に一首入首
||
||
87
俊成
(1114-1204)+++++++++
美福門院加賀
(?-1193) 美福門院加賀は定家母として、「新古今集」、
「新勅撰集」それぞれに一首入首。
||
「無名草子」?
100
定家
(1162-1241)・・・・・・・・・・・・・
健御前
建春門院中納言
「たまきはる」
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T.15 式子内親王と定家 (恋の部立て) 歌人名の前にある数字は秀歌番号です
<百人秀歌と百ト一首>のページにおいて、秀76俊頼と百74俊頼の二つの歌が両集をつなげていると述べました。
<定家略年譜>のページでは、後堀河天皇より勅撰集編纂のご下命を賜った71歳「71・夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く」から最後までの31首はそれまでと
また違った意図をもって並べたとも言及しました。
43首の恋の部立てに入っている歌の詞書が気になり始めました。
特に今までの経過から71番以降の恋の歌は日々の生活の中から湧き出た歌ではなくなり、「歌合」の中での形式美の歌ばかり選ばれています。
それらの恋の部立の歌を書き出してみました。
番号
歌
勅撰集
詞書と註
秀74
音に聞く高師の浜のあだ波は
かけじや袖のぬれもこそすれ金葉集
巻8 恋下 再奏本469 三奏本464 「堀河院御時艶書合によめる」 1102年
この歌は、「人知れぬ思ひありその浦風に波のよるこそいはまほしけれ 中納言俊忠」の返歌 俊忠は定家の祖父
百74
憂かりける人を初瀬の山おろしよ
激しかれとは祈らぬものを千載集
巻12 恋二 708 「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時、祈れどもあはざる恋といへる心をよめる 源俊頼朝臣」
秀75
恨みわびほさぬ袖だにあるものを
恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ(百65)後拾遺集
巻14 恋四 815 「永承6年内裏歌合に 相模」 1051年
77
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末にあはむとぞ思ふ詞花集
巻7 恋上 229 「題しらず 新院」 久安百首
秀78
長からむ心も知らず黒髪の
乱れて今朝はものをこそ思へ千載集
巻13 恋三 802 「百首の歌奉りける時、恋の心をよめる 待賢門院堀河」 久安百首
秀83
思ひわびさても命はあるものを
憂きにたへぬは涙なりけり千載集
巻13 恋三 818 「題しらず 道因法師」
85
夜もすがらもの思ふころは明けやらで
閨のひまさへつれなかりけり千載集
巻12 恋二 766 「恋の歌とてよめる 俊恵法師」
秀88
嘆けとて月やはものを思はする
かこち顔なるわが涙かな千載集
巻15 恋五 929 「月前恋といへる心をよめる 円位法師」 円位法師(西行)
秀89
難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ
みをつくしてや恋ひわたるべき千載集
巻13 恋三 803 「摂政 右大臣の時の家の歌合に旅宿逢恋といへる心をよめる 皇家門院別当」
秀90
きのくにのゆらのみさきに拾ふてふ
たまさかにだに逢い見てしかな新古今集
巻11 恋一 1075 「権中納言長方」
秀91
見せばやな雄島のあまの袖だにも
ぬれにぞぬれし色はかはらず千載集
巻14 恋四 886 「歌合し侍りけるとき恋の歌とてよめる 殷富門院太輔」
秀92
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
忍ぶることの弱りもぞする新古今集
巻11 恋一 1034 「百首の歌の中に忍恋を 式子内親王」
秀94
わが袖は潮干にみえぬ沖の石の
人こそ知らねかわく間もなし千載集
巻12 恋二 760 「寄石恋といへる心を 二条院讃岐」
秀100
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
焼くや藻塩の身もこがれつつ新勅撰集
巻13 恋三 849 「建保六年内裏の歌合、恋の歌 権中納言定家」
●「百人秀歌」の71番から101番の恋の歌 13首
71
72
73
74 おとにきく
金葉集75 うらみわび後拾遺集
76
77 せをはやみ詞花集
78 ながからん千載集
79
80
81
82
83 おもひわび千載集
84
85 よもすがら千載集
86
87
88 なげけとて千載集
89 なにはへの千載集
90 きのくにの新古今集
91 みせばやな千載集
92 たまのをよ新古今集
93
94 わがそでは千載集
95
96
97
98
99
100こぬひとを新勅撰集
101
●「百ト一首」の71番から101番の恋の歌 12首
71
72 おとにきく
金葉集73
74 うかりける千載集
75
76
77 せをはやみ詞花集
78
79
80 ながからん千載集
81
82 おもひわび千載集
83
84
85 よもすがら千載集
86 なげけとて千載集
87
88 なにはへの千載集
89 たまのをよ
新古今集90 みせばやな千載集
91
92 わがそでは千載集
93
94
95
96
97 こぬひとを新勅撰集
98
99
100
101
「百ト一首」の71番からの図を見た時、男女別で見てみると、89式子内親王と97定家が浮かび上がってきました。
≪女流歌人≫
1金葉集「おとにきく」(72) 祐子内親王紀伊
2千載集「ながからん」(80) 待賢門院堀河
3千載集「なにはえの」(88) 皇嘉門院別当
4千載集「みせばやな」(90) 殷富門院大輔
5千載集「わがそでは」(92) 二条院讃岐
★新古今集「たまのをよ」(89) 式子内親王
≪男性歌人≫
1詞花集「せをはやみ」(77) 崇徳院
2千載集「うかりける」(74) 源俊頼朝臣
3千載集「おもいわび」(82) 道因法師
4千載集「よもすがら」(85) 俊恵法師
5千載集「なげけとて」(86) 西行法師
★新勅撰集「こぬひとを」(97) 権中納言定家
100定家は、この歌集の中で二人を昇華させたのです。10業平や20元良親王のように斎宮や御息所のもとへ通ったりする
ことは無かったでしょう。10業平のような生き方に憧れたかもしれませんし、92式子内親王を歌人として認めていたので
師弟愛のようなものもあったかもしれません。100定家は、色々な思ひを「百ト一首」の中に収めることによって形式の中の永遠の愛にしてしまったのです。
のちの世の人々は、それを感じ取り能の「定家葛」などが創作されていったのでしょう。
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