正面玄関百人秀歌と百ト一首歌枕47春の夜の月水無瀬離宮定家略年譜86話語り



    
◆ 86話語り      (2018/1/31 第16話まで 随時加筆修正してます)

 この二つの色紙形和歌において、世間一般では、「百人一首」は概ね年代順で構成され、「百人秀歌」は歌合い形式になっていると 言われてます。しかし、二つの歌集の間の関連性を見てきて、今までとは違った見方はないものかと模索してきました。

「百人一首」は、本当は「百ト一首」あるんですという自説に始まって、二つの歌集に織り込んだ定家の思ひ、 子々孫々の繁栄のための怨霊封じ、はたまた自分史を平安時代の和歌史に乗っけてしまったという発想など色々展開してきましたが、 さて、今回は、自説の「百ト一首」と「百人秀歌」の同じ番号の二首ずつを組み合わせてみました。

 歌人、歴史、和歌、逸話など織り交ぜて 語ることが出来ればと思います。両集に同じ番号をもつ11首と秀歌集にのみ入首している4首の合わせて15首(5 X 3)を省きました。 また、「百人秀歌」の歌の流れの方に歌人定家としての本領があると思い、「百人秀歌」の通し番号を基として「百ト一首」の歌を 添えました。

 註:天皇の生没年の4つ数字の間の2つの数字は在位期間を、3つの場合は在位中に没したことを示す。  
 
 
第11話〜
 

1 秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わが衣手は 露にぬれつつ   天智天皇(626〜668〜672)

2 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山   持統天皇(645〜690〜697〜703)

3 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む  柿本人麿(生没年不詳)

4 田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ 山辺赤人(生没年不詳)
 
 第1話 

秀5 かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける (百6)  中納言家持 (718?〜785)

百5 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき(秀8)   猿丸太夫 (生没年不詳)

 美しく冴えた冬の空に見える天の川をかささぎが橋を架け渡したという七夕伝説を思い起こさせながら白々と 澄み切った夜がすっかり更けたこと詠っている。

 「かささぎ」の歌は新古今和歌集の冬に出典しており、この「おくやまに」は古今集の秋に収められている。

 共通番号1の「秋の田」から2の「天の香久山」、3の「山鳥のいる山」、4の「富士の山」へと続け、 万葉集時代の歌を大地から山の頂上へと目線を移し、さらに天上にまで昇っていきます。

 天武天皇時代の羽衣伝説、「源氏物語」に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とあるような「竹取物語」(不死の山の名前の 由来となる描写、しかしこの物語は800年代後半から900年代前半の成立ですが)などを思ひ起こさせながら、これから始まる、思ひ、焦がれ、哀れなど 永遠不変の人の孤独な姿を、まず「あしびきの」(3)と「奥山に」(百5)の2首によって映し出している。

 音ひとつしない深夜の澄みきった天上にいる白い鵲の鳥と山奥で紅葉をガサガサと踏み分けながら鳴く鹿と好対照です。

 
 第2話 

秀6 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも (百7)  阿倍仲麿 (701〜770)

百6 かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける (秀5)  中納言家持 (718?〜785)

 大空を見上げると、月がのぼっている。これは我が故郷、春日の山に出た月と同じなのだろうか。

 仲麿と家持は、天武天皇系の時代の人だが、仲麿は、家持が生まれる前年?、717年に遣唐使となり、その後帰国することなく唐で没した。 753年11月に一度帰国を試みたが、その時皆が別れの宴を開いてくれた。この歌はその宴席で昇ってきた月を見て詠んだとされている。

 宮中では、冬の澄み切った夜空にかかるかささぎの渡せる橋の白さを霜と見なして夜も更けたことだと思って見上げ、唐の国では、 帰国を夢見た仲麿が東から昇ってきた月を見て詠んでいるわけだ。

 「あまのはら」は、古今集の羈旅の部にあるが、他に、隠岐に配流となった参議篁の「わたのはらや」(百11)、大宰府に流された菅家(菅原道真)の 「このたびは」(百24)、新勅撰集にある鎌倉右大臣(源実朝)の「よのなかは」(百93)と全部で四首あり、どれも悲劇性のある歌人ばかりだ。

 
 第3話 

秀7 わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟 (百11) 参議篁(小野篁) (802〜852)

百7 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも (秀6)  阿倍仲麿 (701〜770)

 大海原の多くの島々をかけて漕ぎだしたよと、都にいる妻や子供たちに伝えておくれ海人の釣り船よ。

 832年に遣唐副使を拒否して、嵯峨上皇の怒りをかい隠岐に配流となる。この歌も旧暦12月、現代の年末から2月にかけての時期なので 冬に詠まれた歌である。冬の日本海に漕ぎだすのは暗澹たる心持ちだったと思うが2年後には許されて帰京し、参議、従三位に昇った。  承和の変(842)により道康親王(のちの文徳天皇)が東宮になるとその東宮博士に任じられた。

 ★承和の変、淳和上皇の皇子恒貞親王が東宮を排され、仁明天皇の皇子道康親王(文徳天皇)が東宮となり、藤原良房が摂政となる。

 篁も阿倍仲麿と同じように、隠岐から都の月を思っただろうとこの歌を組み合わせたのだろうか。しかし、篁が見た月は、奈良の三笠山ではなくて 山科の東山からの月だったのかな。仲麿のほうは帰国こそ叶わなかったが、唐において玄宗皇帝に仕え、詩人李白らと親交があった。

 
 第4話 

秀8 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき (百5)   猿丸太夫 (生没年不詳)

百8 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり (秀14)  喜撰法師 (9世紀中頃) 六歌仙 

 孤独な人が山深く黄葉を踏み分け来て、妻を求めて鳴く鹿の声を聞くと、秋の悲しさが身に染みることです。 「古今和歌集」の真名序で、六歌仙の一人、大友黒主について、「大伴の黒主の歌は、古の猿丸太夫の次なり」と述べているが歌人の ことはよく分かっていない。しかも定家は六歌仙のうち大友黒主だけこの歌集から外してます。

第1話では、奥山を歩くのは鹿でしたが、ここでは孤独な人と解釈してます。答えは一つではないと思います。色々あっていいでしょう。

紅葉を踏み分けながら鹿の鳴く声を聞くと秋が始まり寂寥感がつのるが、世間の人が何と言おうと、このように心静かに生きていると言う人を 定家は誰のことと思ってるのでしょうか。前話の三笠山から奥山、宇治山と続き、次の稲葉山へと進みます。

 「あきのたの」(1)の秋に始り、「はるすぎて」(2)の初夏、「あしびきの」(3)の秋、「たごのうらに」(3)の冬、「かささぎの」(秀5)の冬、 「あまのはら」(秀6)の冬、「わたのはらや」(秀7)の冬、「おくやまに」(秀8)の秋と続いて春が1首もありません。

 
 第5話 

秀9 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む (百16)  中納言行平 (818〜893)

百9 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに (秀13) 小野小町(9世紀中頃)六歌仙

 今、お別れして因幡の国へ旅立ちますが、その因幡にある稲葉山に生えている松のように私を待っていると聞いたら、すぐにでも帰ってきます。

 行平が、855年、因幡の国に行く時に詠んだ歌。2年後に帰京する。

 文徳天皇の時代(850−858)に一時須磨に蟄居している時に詠んだ歌。
 わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ (古今集 雑下 962)
・もしもまれに私の消息を尋ねる人がいたならば、須磨の浦で塩をとるために海藻にかけた海の水さながらに涙を流しながら嘆いていると答えてください。

  平城天皇の皇子阿保親王の子。「薬子の変」(810)に連座して父阿保親王は大宰権帥となり左遷。平城天皇崩御の後に嵯峨天皇により帰京を許される(824)。その後826年に行平と業平は 在原姓を与えられ臣籍降下する。

 881年在原氏の学問所として奨学院を設立する。880年代中ごろに現存最古の在民部卿家歌合を主催する。 第3話の参議篁(百11) は、六歌仙の時代より前の時代に活躍し、行平は、六歌仙と同じ時代であった。 二人とも和漢兼才であった。
 ★薬子の変、平城上皇と嵯峨天皇の対立。平城上皇、薬子とその兄の仲成らの平城遷都と復位をもくろんだ事件。

 これらの歌は古今集の離別と春下にある。不遇の身の出身であっても在原氏の行末を思い、 学問を好み政治の道に生きた行平と、「花のいろは」から浮かび上がってきた色好みの業平の生きた道を対比させているのでしょうか。あなたはどちらの生き方を選びますか。

 
 第6話 

秀10ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(百17) 在原業平朝臣 (825〜880) 六歌仙

百10これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 (秀16) 蝉丸 (生没年不詳) 

 神代にも聞いたことがありません。竜田川を真っ赤な紅葉が川面を敷き詰め川の水はその下を潜っているとは。

 清和天皇の女御となった藤原基経の妹である高子が東宮(陽成院)の母である御息所と呼ばれていた頃に、御屏風に描かれた紅葉の絵を 題にして詠んだものである。文徳天皇の時代には官位も上がらず不遇であった。異母兄の行平(百16)と異なり、漢学の才はなかったようだ。 陽成天皇の代には蔵人頭になるも翌年亡くなる。

 文徳天皇の皇子で母は紀名虎の娘静子であるがゆえに藤原氏の勢力に負け東宮になれなかった惟喬親王(844〜897)に仕えており、 業平の妻は紀名虎の男有常の娘であったので、紀氏との繋がりも深い。次の第7話の藤原敏行とは妻同士が姉妹である。「伊勢物語」の主人公と言われたりしている。

 業平の東下りも逢坂の関を通って行ったのでしょう。業平橋や言問橋など伊勢物語由来の橋が各地にあります。

 人知れぬ 我が通ひ路の 関守は  宵々ごとに うちも寝ななむ (古今集 恋三 632)(伊勢物語 五段)
・人に知られてない私の恋の通い路の関所の番人は毎晩毎晩寝ていて欲しいものです。

業平は、元良親王(共20)や左京大夫道雅(百63)と違って巧妙に人目を忍んで愛しき人のもとへ通っていたのでしょう。

 
 第7話 

秀11すみの江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ (百18)  藤原敏行朝臣 (830?〜901?)

百11 わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟 (秀7)  参議篁(小野篁) (802〜852)

住ノ江の岸に寄る波のようにその夜に寄る部屋へ、 夢の中のことなのに何故人目を避けようとしているのかな。

 藤原南家の出であり書家として有名。清和、陽成、光孝、宇多、醍醐朝に仕える。小野東風が空海とともに古今最高の能書家として名を挙げた。 しかし現存する書は、神護寺鐘銘だけである。因みに、小野東風は参議篁(百11)の孫である。

敏行には次の有名な歌がある。
 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる (古今集 秋上 169)
・秋が来たと目にははっきりと見えないけれど、風の音にはっとその到来に気がついたのだった。

 敏行は、「宇治拾遺物語」によれば、多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りを書いたが、魚を食するなど、不浄の身のままで 書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたという。また、亡くなった直後に生き返り自らお経を書いて、再び絶命したという伝説もあったりる。 参議篁も夜になると地獄に行って閻魔大王の補佐をしたり、地獄に落ちた者を助けたなどと物語になっているが、どちらも地獄の話が出てくるのは それだけ個性が強かったのでしょうか。

 藤原敏行朝臣の身まかりにける時に、よみてかの家につかはしける  (古今集 哀傷 833)  紀友則(百33)
 寝ても見ゆ 寝でもみえけり おほかたは うつせみの世ぞ 夢にはありける
・寝ていても目覚めていても亡き人の姿が見える。夢と現実との差がないということは、この世が夢だったのだ。

 古今集において、藤原氏の名がつくものは21人いるが、敏行と興風(百34)の二人は19首、17首と断トツに多く、 他は4首以下である。紀家に近い敏行の藤原南家と、興風の藤原京家は藤原四家の中では滅びていく家でした。

 
 第8話 

秀12 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりける(百13)  陽成院 (869〜876〜884〜949)

百12 天つ風 雲の通い路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ(秀15)  僧正遍昭 (816〜890) 六歌仙

 筑波山の嶺から流れ落ちて来るみなの川の水が積もり積もって淵となるように、あなたへの恋も淵のように深い思いになってしまった。

 「釣殿のみこ」に送った歌。「釣殿のみこ」は光孝天皇の皇女綏子(すいし)内親王のことで、光孝天皇は最初、子供たちをみな臣籍降下させたが 、同母の兄、宇多天皇が即位(887)すると内親王となった。陽成院は8歳で即位したが、16歳で精神の病によって乱行が多いことで退位させられ、 その後65年間上皇として過ごした。

 「天つ風」の歌と合わせてみると、若かりし頃美しい乙女に一途に恋する男の情感を初々しく感じとれます。 陽成院が恋した綏子内親王は天女のように美しい人だったのでしょうね。ところで百ト一首集には43首の恋の歌があるが各勅撰集には それぞれ詞書が添えられています。72番以降の恋の部の歌は、すべて歌合でのものや恋の心として詠ったものばかりでですが、 65番までの「後拾遺集」以前の歌には実際の臨場感あふれるものが含まれている。多くは恨み、歎き、破綻に関するものである。 その中で唯一成就しているのが、この陽成院と綏子内親王です。

 
 第9話 

秀13 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに (百9) 小野小町(9世紀中頃) 六歌仙

百13 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる(秀12)  陽成院 (869〜876〜884〜949)

 美しい桜の花は散ってしまった。春の長雨が降っている間に。私の容色も衰えてしまった。日々無為に過ごしている間に。

 この歌は古今集の春の部に入ってますが、「わが身世にふる」を古ると思えば雑の部の歌とも解釈できます。 96番の「はなさそふ」のようにです。どちらも桜舞い散る庭です。第5話でもこの歌を雑の部に入れましたがその方がしっくりきます。

 陽成院は、「つくばね」の歌によって恋を成就させたのに、小野小町は、生涯誰とも添い遂げなかったようで、 浮き草のような人生だったらしい。方やひらひらと舞い散り、方や一点に集まり淵となると、対照的な歌ですね。 美女の代名詞のように言われる小町だが、仁明、文徳、清和の御時の歌人であること以外実際のことは何も分かっていません。

 

 =式子内親王と定家=

 この「八六話語り」を書き始めて第9話まできてみると、43首の恋の部立てに入っている歌の詞書が気になり始め各首調べてみました。 すると、5という数字に導かれて式子内親王(89)と定家(97)の二人のことが浮かび上がってきたのです。

 詳しくはこちから ≪式子内親王と定家

 
 第10話 
秀14 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり (百8) 喜撰法師 (9世紀中頃) 六歌仙

百14 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに(秀17) 河原左大臣 (822〜895)

 わたしの庵は都の東南にあり、このように自分らしく生きてます。でも人は私が憂しとして世を過ごしていると言うんです。

 自分が自分らしく生きているつもりでも誰かの原因で心が乱れ始めてしまう時もありますよね。悠然としていても一人の人間ですもの。

 喜撰法師も六歌仙の一人ですが、古今集にこの一首があるのみでよく分かりません。紀貫之(百35)に歌の心を知る一人として批評されてます。 六歌仙以外の歌人たちは言葉を並べているだけで歌を詠んだ気になっているだけだと。批評されるというのは、逆説的にそれに値するものですから、 批評されているうちが花ですよね。そういう意味では定家は、後鳥羽院によって非常に認められていたということになります。

 
 第11話 
秀15 天つ風 雲の通い路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ (百12) 僧正遍昭 (816〜890) 六歌仙

百15 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ(秀18) 光孝天皇 (830〜884〜887)

 五節の舞の乙女たちのあでやかさに、舞も終わりに近づいてきて名残惜しくなり、その気持ちを乙女を天女に見立てて空を吹く風よ、 雲間の通路を吹き閉じて、しばし乙女を此処に留めておきたい。

 なんて洒脱な歌いっぷりでしょう。五節の舞の起源は、天武天皇が吉野に行幸のおり、天女が天から下って舞を舞ったという伝説に基づいている。 風、雲、雪、と白を基調とし、秋の新嘗祭の祝から冬に移り、今また早春へと初々しく情景が変わっている。

 この歌は出家する前の良岑宗貞の時代のものです。桓武天皇の孫であり、父は天皇の皇子良岑安世です。仁明天皇の代が終わる850年に35歳で 出家した。光孝天皇は僧正遍昭の70歳の賀を主催している(885)。この宴が後に後鳥羽院(百99)による藤原俊成(百83)の90歳賀の基となったのです。

 仁和の御時、僧正遍昭に七十の賀たまひける時の御歌
 かくしつつ とにもかくにも ながらへて 君が八千代に あふよしもがな  (古今集 賀 347)
・このようにこれからもあなたの賀宴を幾度も催しながら、どうにかこうにか生き長らえて、あなたの八千代の齢に巡り会いたいものだ。 

 
 第12話 
秀16 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 (百10) 蝉丸 (生没年不詳) 

百16 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む (秀9) 中納言行平 (818〜893)

 これがまあ、京を出て東国へ行く人も、反対に京へ帰る人も、そしてお互いに知っている人も知らない人も、別れてはまた逢う、 あの有名な逢坂の関なのですね。

 蝉丸のことはよく分かっていません。逢坂の関辺りに住んだ隠者らしく、琵琶法師だったらしい。

 第10話では、「これやこの」の歌は、業平の「ちはやぶる」(百17)と組んでおり、ここでは兄の行平と組んでます。弟は東へ行き、 兄は西に行ってますね。業平は「源氏物語」の光源氏のモデルの一人とも言われ、また行平の須磨での蟄居は「源氏物語」須磨の巻の話の元になったと言われてます。

 津の国すまといふ所に侍りける時よみ侍りける
旅人は 袂すゞしく なりにけり 関吹き越ゆる 須磨の浦波 (続古今集 羈旅 868)
・袂に吹き込んできた風の涼しさにもう秋になってしまったと感じる。関所を吹き越えてゆく須磨の浦の風は自由で良いなあ。 旅人(行平)も京へ戻りたいと思うのでした。 

 「百ト一首」には関の歌が3首、逢坂の関2首と須磨の関1首があります。「これやこの」(百10)、「よをこめて」(百62)、 「あはじしま」(百78)です。歌番号を合わせると10+62+78=150 (30X5)と5の倍数になりますが...。

 
 第13話 
秀17 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れむとおもふ われならなくに (百14)  河原左大臣(源融)  (822〜895)

百17 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは (秀10)  在原業平朝臣 (825〜880) 六歌仙

 あの陸奥産のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心は乱れに乱れているが、誰のせいなんでしょう。誰でもないあなたのために乱れているんですよ。

 竜田川は神代にも聞いたことがないようなたくさんの紅葉で川面は括り染めのようになってます。第6話では、水は関を潜るように紅葉の下を潜っていましたが、 ここでは、乱れ模様に呼応して括り染めの方が良いですね。解釈はその時の状況に応じて多様性がある方が幅が広がって良いと思います。答えが一つではない時もあります。

 「源氏物語」の六条の屋敷のモデルとなったと言われている鴨川の東六条辺りに河原院という豪邸に住んでいた。嵯峨天皇の皇子で臣籍降下した。 藤原基経が陽成院を退位させた後、次の天皇に立候補したが、一度人臣に降りた者は帝位につけないと拒否された。二人ともその生きざまが、 「源氏物語」の中で生き続けています。
 
               
第5話 秀9 たちわかれ 行平
百9 はなのいろは 小野小町
第6話 秀10 ちはやぶる 業平
百10 これやこの 蝉丸
第12話 秀16 これやこの 蝉丸
百16 たちわかれ 行平
第13話 秀17 みちのくの 河原左大臣
百17 ちはやぶる 業平
 ところで、第5話、第6話、第12話、第13話を続けて並べてみました。

 こうして見ると、蝉丸は伝わるところでは宇多、醍醐朝の人ですが、東西行き交う人々のそれぞれが背負った関のために定家はこの位置に置いたのでしょうか。 源氏物語の最後を飾る「夢の浮橋」の浮舟は小野小町がモデルなのかなと思ってみたり。行平、業平、小野小町、河原左大臣、蝉丸と5人いますが...。
 
 
 第14話 
秀18 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ (百15)  光孝天皇 (830〜884〜887)

百18 すみの江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ (秀11)  藤原敏行朝臣 (830?〜901?)

 あなたのために春の野に出でて若菜を摘んでいます。そんな私の袖に雪が降りかかっていますよ。

 光孝天皇は、仁明天皇の皇子。陽成天皇の退位後、藤原基経によって55歳で即位した。基経とは母親同士が姉妹の従兄弟同士。基経が政治を 取り仕切り初の関白となった。宮中行事の再興に努め、和歌隆興の祖となる。勅願寺建立を計画したが実現を見ないまま没した。跡をついだ宇多天皇が 仁和寺を創建した。

 「すみの江の」の歌は、寛平の御時きさいの宮の歌合の歌の時に詠われたものです。つまり班子女王主催の歌合の歌。班子女王は光孝天皇の女御ですが 寛平御時なので、宇多天皇の母とすべきか。実際は宇多天皇が企画したもの(892年頃?)。行平の現存最古の在民部卿家歌合の次に古い歌合とされている。

 藤原敏行(百18)、伊勢(百19)、素性法師(百21)、大江千里(百23)、源宗于(百28)、凡河内躬恒(百29)、壬生忠岑(百30)、坂上是則(百31)、紀友則(百33) 、藤原興風(百34)、紀貫之(百35)、文屋朝康(百37)、在原棟梁(業平男)、在原元方(棟梁男)などが参加した。次代の醍醐天皇の勅命による「古今和歌集」(905年)の撰者が 揃ってますね。

 

19 難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや   伊勢(875?〜940?)

20 わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ  元良親王(890〜943)
 
 第15話 
秀21 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば  (百28)  源宗干朝臣 (880?〜939?)

百21 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな (秀22)  素性法師 (845?〜909?)

 山里では都と違って、冬は殊更に寂しさがまさるように感じます。人が尋ねることもなく草も枯れてしまうと思うと。

 すぐに行こう、とあなたが言うから待っていたのに、ずっと待ち続けて何か月も過ぎ、いつの間にか9月の末の有明の月を 見ることになってしまった。しかも冬になると待っている人だけでなく来訪者すら来なくなるのですね。。草木が生い茂る夏が過ぎ、 実りの秋になりやがて枯れていく世の中で人は待ち続けているのですね。

 宗干は、光孝天皇皇子、是忠親王男。源氏に臣籍降下した。寛平后宮歌合(第14話)や是貞親王家歌合などの歌合に参加。伊勢(19) や 貫之(百35)と親交があったようだ。古今集での源氏の歌人は7人いるが、宗之が最多の6首選ばれている。

 宇多天皇が紀伊の国から石のついた海松という海草を奉ったことを題として、人々が歌を詠んだとき、官位が上がらないことを伝えようとして詠んだ歌。
 沖つ風 ふけゐの浦に 立つ浪の なごりにさへや われはしづまぬ
・沖つ風の吹く吹飯の浦に波が立つように、皆官位を頂いて引いていくのに、私はその波の残ったなごりのような官位さえいただけないのでしょうか。
 しかし、天皇に「さて、なんのことやら。」ととぼけられてしまい、詠んだかいがなかったですね。見るだけで終わっってしまいました。

 
 第16話 
秀22 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな (百21)  素性法師 (845?〜909?)

百22 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ (秀27) 文屋康秀 (840?〜893?)

 すぐにいくよ、とあなたが言うので、お待ちしてましたのに来ないので、この9月の有明の月を待っていたかのように出会ってしまいましたよ。

 今はもう秋、飽きが来て、草木が萎れるように気持ちも萎れてしまったなんて、人の心も荒らしていくのですね。

 僧正遍昭(百12)男。父が出家した時に兄と共に一緒に出家した。父僧正遍昭は850年35歳の時に出家したので、 素性法師が5,6歳の時のはず。素性は父遍昭と共に常康親王(仁明天皇父と紀種子母)が出家して住んでいた雲林院を受け継ぐ。 紀種子は、紀名虎の娘なので、業平が仕えた惟喬親王(文徳天皇父)の母である紀静子と姉妹である。因みにもう一人の妹が敏行(百18)の母である。 素性は後に一人大和国(奈良県)の石上にある良因院に移り住んだ。

 昌泰元年(898)、宇多上皇が奈良に御幸したさいに召され、共に旅して各所で歌を奉った。この時に菅原道真もおり、 「このたびは」(百24)を詠んだ。大宰府左遷の3年前のことでした。

 父仁明天皇から寵愛を受けた常康親王は古今集に1首残しています。
 吹きまよふ 野風を寒み 秋萩の うつりもゆくか 人の心の 雲林院親王  (古今集恋 781)
・吹き荒れる野風が寒いので秋萩が色移ってゆく。その様に人の心も移ろうのか。

 
 第17話 
 
 第18話 



 
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