正面玄関百人秀歌と百ト一首歌枕47春の夜の月水無瀬離宮定家略年譜90話語り



    
◆ 9 0 話 語 り   

 この二つの色紙形和歌において、世間一般では、「百人一首」は概ね年代順で構成され、「百人秀歌」は歌合い形式になっていると言われています。しかし、二つの歌集の間の関連性を見てきて、今までとは違った見方はないものかと模索してきました。

「百人一首」は、本当は「百ト一首」あるんですという自説に始まって、二つの歌集に織り込んだ定家の思ひ、 子々孫々の繁栄のための怨霊封じ、はたまた自分史を平安時代の和歌史に乗っけてしまったという発想など色々展開してきましたが、 さて、今回は、自説の「百ト一首」と「百人秀歌」の同じ番号の二首ずつを組み合わせてみました。

 歌人、歴史、和歌、逸話など織り交ぜて語ることが出来ればと思います。両集に同じ番号をもつ11首を除いて90話となります。 また、「百人秀歌」の歌の流れの方に歌人定家としての本領があると思い、「百人秀歌」の通し番号を基として「百ト一首」の歌を 添えました。

 註:天皇の生没年の4つ数字の間の2つの数字は在位期間を、3つの場合は在位中に没したことを示す。

(2018/8/15 大和物語まで 随時加筆修正してます)  
 
 
第1話(秀百5)〜   第11話(秀百15)〜  第21話(秀百27)〜   第31話(秀百38)〜 

=トピックス=
式子内親王と定家  六歌仙(紀氏と喜撰法師)   参議と中納言について  書写とかるたでの官位   天徳内裏歌合 

大和物語
 

1 秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わが衣手は 露にぬれつつ   天智天皇(626〜668ー672)  (後撰集 秋中302)

2 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山   持統天皇(645〜690ー697〜703)  (新古今集 夏175)

3 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む  柿本人麿(生没年不詳)  (拾遺集 恋三778)

4 田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ 山辺赤人(生没年不詳)  (新古今集 冬675)
 
 第1話 

秀5 かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける (百6)  中納言家持 (718?〜785)

百5 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき(秀8)   猿丸太夫 (生没年不詳)

秀5:美しく冴えた冬の空に見える天の川をかささぎが橋を架け渡したという七夕伝説を思い起こさせながら 澄み切った夜がすっかり更けたこと詠っている。(新古今集 冬620)

百5:山深く黄葉を踏み分けながら妻を求めて鳴いている鹿の声を聞くと、秋の悲しさが身に染みることです。(古今集 秋上215 よみ人知らず)


 万葉集時代の歌、1番の秋の田から天の香久山、富士の山へと山の頂上へ昇らせ、さらに天上を見上げさせます。その中に 天武天皇時代の羽衣伝説、「源氏物語」に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とある竹取物語なども 思い起こさせてくれます。思ひ、焦がれ、哀れなど永遠不変の人の孤独な姿を、「あしびきの」(3)の歌より一歩踏み出し始めます。

 空を舞う鵲と大地を踏みしめる鹿、霜の白さと木々の紅、澄み切った夜空を見上げ、カサカサと踏み分ける音を聞く。 視覚と聴覚の対照的な歌を並べてます。
 
 第2話 

秀6 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも (百7)  阿倍仲麿 (701〜770)

百6 かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける (秀5)  中納言家持 (718?〜785)

秀6:大空を見上げると、月がのぼっている。これは我が故郷、春日の山に出た月と同じなのだろうか。(古今集 羈旅406) 

百6:美しく冴えた冬の空に見える天の川をかささぎが橋を架け渡したという七夕伝説を思い起こさせながら 澄み切った夜がすっかり更けたこと詠っている。(新古今集 冬620)


 仲麿と家持は、天武天皇系の時代の人だが、仲麿は、家持が生まれる前年?、717年に遣唐使となり、753年11月に一度帰国を試みた。 その時皆が別れの宴を開いてくれ、その宴席で昇ってきた月を見て詠んだとされている。しかし船が難破し唐に戻り、その後帰国することなく唐で没した。

 宮中では、冬の澄み切った夜空にかかるかささぎの渡せる橋の白さを霜と見なして夜も更けたことだと思って見上げ、唐の国では、 帰国を夢見た仲麿が東から昇ってきた月を見て詠んでいるわけだ。雄大な天空で二つの歌を見事に織り合わせています。

 「あまのはら」は、古今集の羈旅の部にあるが、隠岐に配流となった参議篁の「わたのはらや」(百11)、 大宰府に流された菅家(菅原道真)の「このたびは」(百24)、鎌倉右大臣(源実朝)の「よのなかは」(百93)の歌なども羈旅の部立てにあり、皆、特に悲劇性のある歌人ばかりだ。 また、「たちわかれ」(16)の歌は離別の部立てにあるが、中納言行平も須磨に一時籠居したことがある。

 
 第3話 

秀7 わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟 (百11) 参議篁(小野篁) (802〜852)

百7 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも (秀6)  阿倍仲麿 (701〜770)

秀7:大海原の多くの島々をかけて漕ぎだしたよと、都にいる妻や子供たちに伝えておくれ海人の釣り船よ。(古今集 羈旅407)

百7:大空を見上げると、月がのぼっている。これは我が故郷、春日の山に出た月と同じなのだろうか。(古今集 羈旅406)


 小野篁は832年に遣唐副使を拒否して、嵯峨上皇の怒りをかい隠岐に配流となる。この歌も旧暦12月、現代の暦の年末から2月にかけての時期なので 冬に詠まれた歌である。冬の日本海に漕ぎだすのは暗澹たる心持ちだったと思うが2年後には許されて帰京し、参議、従三位に昇った。  承和の変(842)により道康親王(のちの文徳天皇)が東宮になるとその東宮博士に任じられた。仲麿のほうは帰国こそ叶わなかったが、唐において玄宗皇帝に仕え、 詩人李白らと親交があった。

★承和の変、淳和上皇の皇子恒貞親王が東宮を排され、仁明天皇の皇子道康親王(文徳天皇)が東宮となり、藤原良房が摂政となる。

 小野篁も京の都から遠く離れた流罪地より、月を眺めながら一日千秋の思いで帰京できる日を待ったことでしょう。

 
 第4話 

秀8 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき (百5)   猿丸太夫 (生没年不詳)

百8 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり (秀14)  喜撰法師 (9世紀中頃) 六歌仙 

秀8:山深く黄葉を踏み分けて立ち入ると、妻を求めて鳴く鹿の声が聞こえてきて、秋の悲しさが身に染みることです。(古今集 秋上215 よみ人知らず)

百8:わたしの庵は都の東南にあり、このように自分らしく生きてます。でも人は私が憂しとして世を過ごしていると言うんです。(古今集 雑下983)


「古今和歌集」の真名序で、六歌仙の一人、大友黒主について、「大伴の黒主の歌は、古の猿丸太夫の次なり」と述べているが、歌人の ことはよく分かっていません。しかも定家は六歌仙のうち大友黒主だけこの歌集から外してますし、猿丸太夫、喜撰法師、大友黒主と謎の人物ばかりです。

 第1話では、奥山を歩くのは鹿でしたが、ここでは孤独な人が分け入るととと解釈してます。

 「あきのたの」(1)の秋に始り、「はるすぎて」(2)の初夏、「あしびきの」(3)の秋、「たごのうらに」(3)の冬、「かささぎの」(秀5)の冬、 「あまのはら」(秀6)の冬、「わたのはらや」(秀7)の冬、「おくやまに」(秀8)の秋と続いて春が1首もありません。そして次の第5話の行平の「たちわかれ」の歌も 855年正月に因幡へ赴任する時に詠まれたので冬です。


 
 第5話 

秀9 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む (百16)  中納言行平 (818〜893)

百9 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに (秀13) 小野小町(9世紀中頃)六歌仙

秀9:今、お別れして因幡の国へ旅立ちますが、 その因幡にある稲葉山に生えている松のように私を待っていると聞いたら、すぐにでも帰ってきます。(古今集 離別365)

百9:美しい桜の花は散ってしまった。春の長雨が降っている間に。私の容色も衰えてしまった。日々無為に過ごしている間に。(古今集 春下113)


 文徳天皇の時代(850−858)に一時須磨に蟄居している時に詠んだ歌。
わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ (古今集 雑下 962)
・もしもまれに私の消息を尋ねる人がいたならば、須磨の浦で塩をとるために海藻にかけた海の水さながらに涙を流しながら嘆いていると答えてください。

 行平は、平城天皇の皇子阿保親王の子。父阿保親王は、「薬子の変」(810)に連座して大宰権帥として左遷されたが平城天皇崩御の後に嵯峨天皇により 帰京を許された(824)。行平は、826年に異母弟の業平と共に在原姓を与えられ臣籍降下しました。

 881年在原氏の学問所として奨学院を設立し、880年代中ごろに現存最古の在民部卿家歌合を主催した。 第3話の参議篁(百11) は、六歌仙の時代より前の時代に活躍し、行平は、六歌仙と同じ時代であった。二人とも和漢兼才であった。

★薬子の変、平城上皇と嵯峨天皇の対立。平城上皇、薬子とその兄の仲成らの平城遷都と復位をもくろんだ事件。

 この二つの歌は古今集の離別と春下にある。不遇の身の出身であっても政治の道に生き、学問を好み、在原氏の行末を思い学問所を設立した行平と、 あまり漢学の才は無く、多感であり、奔放な物語を後世に残している弟の業平の生き方を小野小町の歌に託して二人を対比させたのでしょうか。次に業平が登場しますね。

 
 第6話 

秀10 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(百17) 在原業平朝臣 (825〜880) 六歌仙

百10 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 (秀16) 蝉丸 (生没年不詳) 

秀10:神代にも聞いたことがない。竜田川を真っ赤な紅葉が川面を敷き詰め、川の水はその下を潜っているとは。(古今集 秋下294)

百10:これがまあ、京を出て東国へ行く人も、反対に京に戻る人も、お互いに知っている人も知らない人も、別れてはまた逢う、あの有名な逢坂の関なのですね。 (後撰集 雑一1089)


 清和天皇の女御となった藤原基経の妹である高子が東宮(陽成院)の母である御息所と呼ばれていた頃に、御屏風に描かれた紅葉の絵を題にして詠んだものである。 文徳天皇の時代には官位も上がらず不遇であったが陽成天皇の代には蔵人頭になる。しかしその翌年に亡くなった。

 文徳天皇の皇子で母は紀名虎の娘静子であるがゆえに藤原氏の勢力に負け東宮になれなかった惟喬親王(844〜897)に仕えており、 業平の妻は紀名虎の男有常の娘であったので、紀氏との繋がりも深い。次の第7話の藤原敏行とは妻同士が姉妹である。「伊勢物語」の主人公と言われたりしている。

人知れぬ 我が通ひ路の 関守は  宵々ごとに うちも寝ななむ (古今集 恋三 632)(伊勢物語 五段)
・人に知られてない私の恋の通い路の関所の番人は毎晩毎晩寝ていて欲しいものです。

 業平は、元良親王「わびぬれば」(20)や左京大夫道雅「いまはただ」(百63)とは異なった恋の道を行き来したようです。

 
 第7話 

秀11 すみの江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ (百18)  藤原敏行朝臣 (830?〜901?)

百11 わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟 (秀7)  参議篁(小野篁) (802〜852)

秀11:住ノ江の岸に寄る波のように寄る部屋へ通う路を夢の中でさえ人目を避けようとしておられるのですか。(古今集 恋二559)

百11:大海原の多くの島々をかけて漕ぎだしたよと、都にいる妻や子供たちに伝えておくれ海人の釣り船よ。(古今集 羈旅407)


 藤原南家の出であり書家として有名。清和、陽成、光孝、宇多、醍醐朝に仕える。小野東風が空海とともに古今最高の能書家として名を挙げた。 しかし現存する書は、神護寺鐘銘だけである。因みに、小野東風は参議篁(百11)の孫である。

敏行には次の有名な歌がある。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる (古今集 秋上169)
・秋が来たと目にははっきりと見えないけれど、風の音にハッとその到来に気がついたのだった。

敏行は、「宇治拾遺物語」によれば、多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りを書いたが、魚を食するなど、不浄の身のままで 書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたという。また、亡くなった直後に生き返り自らお経を書いて、再び絶命したという伝説もあったりる。 参議篁も夜になると地獄に行って閻魔大王の補佐をしたり、地獄に落ちた者を助けたなどと物語になっているが、どちらも地獄の話が出てくるのは それだけ個性が強かったのか。

 藤原敏行朝臣の身まかりにける時に、よみてかの家につかはしける 紀友則(百33) (古今集 哀傷833) 
寝ても見ゆ 寝でもみえけり おほかたは うつせみの世ぞ 夢にはありける
・寝ていても目覚めていても亡き人の姿が見える。夢と現実との差がないということは、この世が夢だったのだ。

 古今集において、藤原氏の名がつくものは21人いるが、敏行と興風(百34)の二人は19首、17首と断トツに多く、 他は4首以下である。紀氏に近い敏行の藤原南家と、興風の藤原京家は藤原四家の中では滅びていく家でした。

 
 第8話 

秀12 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりける(百13)  陽成院 (869〜876ー884〜949)

百12 天つ風 雲の通い路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ(秀15)  僧正遍昭 (816〜890) 六歌仙

秀12:筑波山の嶺から流れ落ちて来るみなの川の水が積もり積もって淵となるように、あなたへの恋も淵のように深い思いになってしまった。 (後撰集 恋三776)

百12:五節の舞の乙女たちのあでやかさに、舞も終わりに近づいてきて名残惜しくなり、その気持ちを乙女を天女に見立てて空を吹く風よ、 雲間の通路を吹き閉じて、しばし乙女を此処に留めておきたい。(古今集 雑上872)


 「釣殿のみこ」に送った歌。「釣殿のみこ」は光孝天皇の皇女綏子(すいし)内親王のことで、光孝天皇は最初、子供たちをみな臣籍降下させたが 、同母の兄、源定省が親王宣下を受け、宇多天皇として即位(887)すると内親王となった。陽成院は8歳で即位したが、16歳の時に精神の病によって乱行が多いことで退位させられ、 その後、五代の天皇の世(光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上)を65年間上皇として過ごした。

 「天つ風」の歌と合わせてみると、若かりし頃美しい乙女に一途に恋する男の情感を初々しく感じとれます。 陽成院が恋した綏子内親王は天女のように美しい人だったのでしょうね。

 ところで百ト一首集には43首の恋の歌があるが各勅撰集にはそれぞれ詞書が添えられています。71番以降の恋の部立の歌は、 すべて歌合でのものや恋の心として詠ったものばかりですが、65番までの「後拾遺集」以前の歌には実際の臨場感あふれるものが含まれています。 多くは恨み、歎き、破綻に関するものです。その中で唯一成就しているのが、この陽成院と綏子内親王です。

 
 第9話 

秀13 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに (百9) 小野小町(9世紀中頃) 六歌仙

百13 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる(秀12)  陽成院 (869〜876ー884〜949)

秀13:美しい桜の花は散ってしまった。春の長雨が降っている間に。私の容色も衰えてしまった。日々無為に過ごしている間に。 (古今集 春下113)

百13:筑波山の嶺から流れ落ちて来るみなの川の水が積もり積もって淵となるように、あなたへの恋も淵のように深い思いになってしまった。 (後撰集 恋三776)


 小野小町は、生涯誰とも添い遂げなかったようで、浮き草のような人生だったようです。美女の代名詞のように言われますが、 仁明、文徳、清和の御時の歌人であること以外何も分かっていません。ひらひらと舞い散る人生と積もり積もって淵になる人生。 対照的な歌ですね。

 この歌は古今集の春の部に入ってますが、「わが身世にふる」を古ると思えば雑の部の歌とも解釈できます。 96番の「はなさそふ」のようにです。どちらも桜が舞い散るのをわが身に置き換えています。

       

 =式子内親王と定家=

 この「90話語り」を書き始めて第9話まできてみると、43首の恋の部立てに入っている歌の詞書が気になり始めました。

  「百人秀歌と百ト一首」のサイトにおいて、俊頼(74)の二つの歌が両集をつなげていると述べました。

  「定家略年譜」のサイトで、【後堀河院より勅撰集編纂のご下命を賜った71歳「ゆうされば」(71)からの31首はそれまでと また違った意図をもって並べたと思われます。】とも言及しました。

 まずは、「百ト一首」より43首と「百人秀歌」より1首の恋の部立てにある歌を書き出してみます。5に導かれて新しい発見をしました。

  ● 二つの101首集の恋の部の歌、「百ト一首」より43首、「百人秀歌」より1首の詞書 

番号 初句    詞書と註
3 あしびきの 拾遺集  巻134 恋三 778 「題しらず 人麿」
13 つくばねの 後撰集  巻11 恋三 776 「釣殿のみこに遣はしける 陽成院御製」 釣殿のみことは、綏子(すいし)内親王。  光孝天皇(15)の第三皇女。884年源朝臣姓をあたえられたが,同母兄の宇多天皇即位後,891年内親王となる。陽成妃となる。925年死去。
14 みちのくの 古今集  巻14 恋四 724 「題しらず 河原左大臣」
18 すみのへの 古今集  巻12 恋二 559 「寛平の御時きさいの宮の歌合の歌 藤原敏行朝臣」 (寛平の御時 889〜898年)
19 なにはがた 新古今集  巻11 恋一 1049 「題しらず 伊勢」
20 わびぬれば 後撰集  巻13 恋五 960 「事いできてのちに京極の御息所につかはしける 元良親王」
京極の御息所とは、 時平の娘褒子(ほうし)。宇多天皇の女御 宇多天皇(867‐887‐897‐931) 910年代?の事件か。この歌は「拾遺集 巻12 恋二 766 題しらず」として重複している
21 いまこむと 古今集  巻43 恋四 691 「題しらず 素性法師」
25 なにしをはば 後撰集  巻11 恋一 700 「女のもとにつかはしける 三条右大臣」
27 みかのはら 新古今集  巻11 恋一 996 「題しらず 中納言兼輔」
30 ありあけの 古今集  巻13 恋三 625 「題しらず 壬生忠岑」
38 わすらるる 拾遺集  巻14 恋四 870 「題しらず 右近」
39 あさじふの 後撰集  巻9 恋一 578 「人につかはしける 源ひとしの朝臣」
40 しのぶれど 拾遺集  巻11 恋一 662  「天暦の御時の歌合 平兼盛」  天徳4年3月30日内裏歌合960年
41 こひしてふ 拾遺集  巻11 恋一 661 「天暦の御時の歌合 壬生忠見」960年
42 ちぎりきな 後拾遺集  巻14 恋四 770 「心変り侍りける女に、人に代りて 清原元輔」
43 あひみての 拾遺集  巻12 恋二 710 「題しらず 権中納言敦忠」
44 あふことの 拾遺集  巻11 恋一 678 「天暦の御時歌合に 中納言朝忠」
45 あはれとも 拾遺集  巻15 恋五 950 「物いひ侍りける女の、後につれなく侍りて更にあはず侍りければ 一条摂政」 物語「一条摂政御集」
46 ゆらのとを 新古今集  巻11 恋一 1071 「題しらず 曾禰好忠」
48 かぜをいたみ 詞花集  巻7 恋上 31  「冷泉院、春宮と申しける時、百首の歌奉りけるによめる源重之」967年以前に成立
49 みかきもり 詞花集  巻7 恋上 225 「題しらず 大中臣能宣朝臣」
50 きみがためを 後拾遺集  巻12 恋二 669 「女のもとより帰りて遣はしける 少将藤原義孝」
51 かくとだに 後拾遺集  巻11 恋一 612 「女にはじめてつかはしける 藤原実方朝臣」
52 あけぬれば 後拾遺集  巻12 恋二 672 「」
53 なげきつつ 拾遺集  巻14 恋四 912 「入道摂政まかりたるけるに、門を遅くあけければ、立ちわづらひぬといひ入れて 侍りければ 右大将道綱母」入道摂政(藤原兼家)
54 わすれじの 新古今集  巻13 恋三 1194 「中関白かよひそめ侍りけるころ 儀同三司母」中関白(藤原道隆)
56 あらざらむ 後拾遺集  巻13 恋三 763 「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける 和泉式部」
58 ありまやま 後拾遺集  巻12 恋二 709 「かれがれなる男の、おぼつかなく、などいひたるによめる 大弐三位」
59 やすらはで 後拾遺集  巻12 恋二 680  「中の関白、少将に侍りける時、はらからなる人に物いひわたり侍りけり、  たのめて来ざりけるつとめて、 女にかはりてよめる 赤染衛門」 中の関白(藤原道隆)、少将の頃(974年〜977年)
63 いまはただ 後拾遺集  巻13 恋三 750 「伊勢の斎宮わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、 おほやけも聞こしめて、守りめなどつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければよみ侍りけり 左京大夫道雅」1017年のこと
65 うらみわび 後拾遺集  巻14 恋四 815 「永承6年内裏歌合に 相模」 1051年
72 おとにきく 金葉集  巻8 恋下 再奏本469 三奏本464 「堀河院御時艶書合によめる」 1102年  この歌は、「人知れぬ思ひありその浦風に波のよるこそいはまほしけれ 中納言俊忠」の返歌 俊忠は定家の祖父
74 うかりける 千載集  巻12 恋二 708 「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時、祈れどもあはざる 恋といへる心をよめる 源俊頼朝臣」
77 せをはやみ 詞花集  巻7 恋上 229  「題しらず 新院」 久安百首
80 ながからむ 千載集  巻13 恋三 802 「百首の歌奉りける時、恋の心をよめる 待賢門院堀河」 久安百首
82 おもひわび 千載集  巻13 恋三 818 「題しらず 道因法師」
85 よもすがら 千載集  巻12 恋二 766 「恋の歌とてよめる 俊恵法師」
86 なげけとて 千載集  巻15 恋五 929 「月前恋といへる心をよめる 円位法師」 円位法師(西行)
88 なにはえの 千載集  巻13 恋三 803 「摂政 右大臣の時の家の歌合に旅宿逢恋といへる心をよめる 皇家門院別当」
89 たまのをよ 新古今集  巻11 恋一 1034 「百首の歌の中に忍恋を 式子内親王」
秀90 きのくにの 新古今集  巻11 恋一 1075 「」
90 みせばやな 千載集  巻14 恋四 886 「歌合し侍りけるとき恋の歌とてよめる 殷富門院太輔」
92 わがそでは 千載集  巻12 恋二 760 「寄石恋といへる心を 二条院讃岐」
97 こぬひとを 新勅撰集  巻13 恋三 849 「建保六年内裏の歌合、恋の歌 権中納言定家」 1216年
 
   百人秀歌の71番から101番の恋の歌と百人秀歌のみの三首(73,76,90)
71 72 73 かすがのの
新古今集
 春
74 おとにきく
金葉集
 恋
75 うらみわび後拾遺集
 恋
76 やまさくら
金葉集
 春桜
77 せをはやみ詞花集
 恋
78 ながからん千載集
 恋
79 80
81
82
83 おもひわび千載集
 恋
84
85 よもすがら千載集
 恋
86
87
88 なげけとて千載集
 恋
89 なにはへの千載集
 恋
90 きのくにの新古今集
 恋
91 みせばやな千載集
92 たまのをよ新古今集
 恋
93
94 わがそでは千載集
 恋
95 96
97
98
99 100こぬひとを新勅撰集
 恋
101
 
   百ト一首の71番から101番     
71
72 おとにきく
金葉集
73 74 うかりける千載集
 恋
75 76
77 せをはやみ詞花集
 恋
78 79 80 ながからん千載集
 恋
81 82 おもひわび千載集
 恋
83 84 85 よもすがら千載集
 恋
86 なげけとて千載集
 恋
87 88 なにはへの千載集
 恋
89 たまのをよ
新古今集
 恋
90 みせばやな千載集
 恋
91 92 わがそでは千載集
 恋
93 94 95 96 97 こぬひとを新勅撰集
 恋
98 99 100
101
 
 上の百ト一首の71番からの図を見た時、式子内親王と定家が浮かび上がってきました。男女別で見てみると、
≪女流歌人≫
1金葉集「おとにきく」(72) 
2千載集「ながからん」(80)
3千載集「なにはえの」(88)
4千載集「みせばやな」(90)
5千載集「わがそでは」(92)
★新古今集「たまのをよ」(89) 

≪男性歌人≫
1詞花集「せをはやみ」(77) 
2千載集「うかりける」(74)
3千載集「おもいわび」(82)
4千載集「よもすがら」(85)
5千載集「なげけとて」(86)
★新勅撰集「こぬひとを」(97) 

 定家は、この歌集の中で二人を昇華させたのです。業平(17)や元良親王(20)のように斎宮や御息所のもとへ通ったりする ことは無かったでしょう。業平のような生き方に憧れたかもしれませんし、式子内親王を歌人として認めていたので 師弟愛のようなものもあったかもしれません。定家は、色々な思ひを百ト一首の中に収めることによって形式の中の永遠の愛にしてしまったのです。

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「おとにきく」(72)以降、予定された催しのために十分な準備で練り上げられたもの、生活の中から奔り出たのではなく芸術的意図で 構成されたものである。前半の歌に比べれば芸術的完成度は高いだろう。しかし一首一首に作者の個性がけざやかに躍動するおもしろさは、もはや消え失せた。 それは王朝の衰退につれて女性の役割が後景に退き、生き方がつつましさと息苦しさを加えていく中世への推移を、ごく自然に反映している。 (百人一首の作者たち 目崎徳衛 角川ソフィア文庫 参照)   =上にもどる=
   
 
 第10話 
秀14 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり (百8) 喜撰法師 (9世紀中頃) 六歌仙

百14 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに(秀17) 河原左大臣 (822〜895)

秀14:わたしの庵は都の東南にあり鹿も住んでいますが、このように自分らしく生きてます。でも人は私が憂しとして世を過ごしていると言うんです。 (古今集 雑下983)

百14:あの陸奥の信夫郡産のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心は乱れに乱れているが、誰のせいなんでしょう。誰でもないあなたのために乱れているんですよ。 (古今集 恋四724)


 喜撰法師も六歌仙の一人ですが、古今集にこの一首があるのみでよく分かっていません。自分が自分らしくしっかりと生きているつもりでも 何かの原因で心が乱れ始めてしまう時もありますよね。河原左大臣(源融)も陽成院(百13)の退位のあと、次の天皇を決める時には、自選するなど心乱れることだったでしょう。

 河原左大臣は、鴨川の西岸東六条のあたりに邸があり、宇治の別邸は、後に平等院になる。嵯峨天皇の皇子。 左大臣従一位になった。いろいろな逸話を残している。

 
 第11話 
秀15 天つ風 雲の通い路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ (百12) 僧正遍昭 (816〜890) 六歌仙

百15 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ(秀18) 光孝天皇 (830〜884ー887)

秀15:五節の舞の乙女たちのあでやかさに、舞も終わりに近づいてきて名残惜しくなり、その気持ちを乙女を天女に見立てて空を吹く風よ、 雲間の通路を吹き閉じて、しばし乙女を此処に留めておきたい。(古今集 雑上872)

秀15:あなたのために春の野に出でて若菜を摘んでいます。そんな私の袖に雪が降りかかっていますよ。(古今集 春上21)


 なんて洒脱な歌いっぷりでしょう。五節の舞の起源は、天武天皇が吉野に行幸のおり、天女が天から下って舞を舞ったという伝説に基づいている。 風、雲、雪、と白を基調とし、秋の新嘗祭の祝から冬に移り、今また早春へと初々しく情景が変わっている。この歌は出家する前の良岑宗貞の時代のものです。 桓武天皇の孫であり、父は天皇の皇子良岑安世です。仁明天皇の代が終わる850年に35歳で出家した。

仁和の御時、僧正遍昭に七十の賀たまひける時の御歌
かくしつつ とにもかくにも ながらへて 君が八千代に あふよしもがな  (古今集 賀 347)
・このようにこれからもあなたの賀宴を幾度も催しながら、どうにかこうにか生き長らえて、あなたの八千代の齢に巡り会いたいものだ。 

 光孝天皇は僧正遍昭の70歳の賀を主催している(885)。この宴が後に後鳥羽院(百99)による藤原俊成(百83)の90歳賀の基となったのです。


   
= 六 歌 仙 =
 第10話と第11話を見ると、河原左大臣(源融)が喜撰法師と僧正遍昭の二人の六歌仙に挟まれています。気になって源融 を調べてみました
 河原左大臣(源融) 822−895 74歳
 嵯峨天皇皇子として生まれる(822)
 文徳朝に参議に昇る(856)
 清和朝に中納言(864) この頃、異母兄の左大臣源信と大納言伴善男が不和の状態にある
 応天門の変(866) 伴善男は失脚、源信は無実だったが籠居し出仕を止める
 太政大臣藤原良房(清和朝に人臣初の摂政)亡き後(872)、左大臣になる
 陽成天皇が即位(876)し、15歳下の右大臣の基経が摂政になると自宅に引き篭もった
 光孝天皇即位(884)(基経、初の関白)後に政務に復帰する
 宇多朝に関白太政大臣基経が没すると(891)、太政官の首班に立った
 源融が895年に没すると、宇多天皇は藤原時平と菅原道真を登用した

 僧正遍昭は、仁明天皇に寵愛されていました。また、紀名虎の娘である種子所生の常康親王も、天皇から特に寵愛を受け、天皇崩御後には 出家し、雲林院に隠棲し詩作したが、僧正遍昭も同じく出家し、後に雲林院を譲り受けた。

 在原業平は、母が紀名虎の娘静子であるがゆえに藤原氏の勢力に負け東宮になれなかった文徳天皇の皇子、惟喬親王(844〜897)に 仕えており、業平の妻も紀名虎の男有常の娘であったので紀氏との繋がりも深い。

 融の略歴の中で、紀氏にとって「応天門の変」は,致命的な事件でした。 応天門の変で処罰を受けた人を調べてみると、紀夏井と言う人がいます。異母弟の紀豊城が共謀者の一人として逮捕されると、 夏井もこれに連座、肥後守の官職を解かれて土佐国への流罪となったのです。夏井は文徳天皇から寵遇を受け、また赴任地でも 農民から大変慕われたそうです。なんの罪もなく、人望のあった夏井の失脚こそが紀氏の中央政権からの没落となったのです。


 紀貫之が古今集の仮名序で記した六歌仙には謎めいたことがいろいろあると言われています。 喜撰法師は都の辰巳、宇治に住んだ人と伝わりますが、 本当のことは何も分かっていません。夏井の配流地の土佐は、宇治と扇形に反対の羊申の方向です。もし貫之が夏井を喜撰法師に仮託した としたら、人が何と言おうとも彼は配流地でしかと住んだのではないかと思います。

 応天門の変から30数年後に、古今集の仮名序をしたためながら貫之は何を思っていたのでしょう。

木のまより 見ゆるは谷の ほたるかも いさりにあまの 海へ行かも 喜撰法師 (玉葉集 夏404)
 京極為兼(定家の曽孫)は、なぜこの歌を撰んだのでしょうね。  
     =上にもどる=
           
 第12話 
秀16 これやこの 行くも帰るも 別れつつ 知るも知らぬも 逢坂の関 (百10) 蝉丸 (生没年不詳) 

百16 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む (秀9) 中納言行平 (818〜893)

秀16:これがまあ、京を出て東国へ行く人も、反対に京へ帰る人も、そしてお互いに知っている人も知らない人も、別れてはまた逢う、 あの有名な逢坂の関なのですね。(後撰集 雑一1089)

百16:今、お別れして因幡の国へ旅立ちますが、その因幡にある稲葉山に生えている松のように私を待っていると聞いたら、すぐにでも帰ってきます。(古今集 離別365)


 蝉丸のことはよく分かっていません。逢坂の関辺りに住んだ隠者らしく、琵琶法師だったらしい。

 第6話では、「これやこの」(百10)の歌は、業平の「ちはやぶる」(秀10・百17)と組んでおり、ここでは兄の行平と組んでます。弟は東へ行き、 兄は西に行ってますね。業平は「源氏物語」の光源氏のモデルの一人とも言われ、また行平の須磨での蟄居は「源氏物語」須磨の巻の話の元になったと言われてます。

津の国すまといふ所に侍りける時よみ侍りける
旅人は 袂すゞしく なりにけり 関吹き越ゆる 須磨の浦波 (続古今集 羈旅 868)
・袂に吹き込んできた風の涼しさにもう秋になってしまったと感じる。関所を吹き越えてゆく須磨の浦の風は自由で良いなあ。 旅人(行平)も京へ戻りたいと思うのでした。 

 「百ト一首」には関の歌が3首、逢坂の関2首と須磨の関1首があります。「これやこの」(百10)、「よをこめて」(百62)、 「あはじしま」(百78)です。歌番号を合わせると10+62+78=150 (30X5)と5の倍数になりますが...。

 
 第13話 
秀17 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れむとおもふ われならなくに (百14)  河原左大臣(源融)  (822〜895)

百17 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは (秀10)  在原業平朝臣 (825〜880) 六歌仙

秀17:あの陸奥産のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心は乱れに乱れているが、誰のせいなんでしょう。 誰でもないあなたのために乱れているんですよ。(古今集 恋四724)

百17:竜田川は、神代にも聞いたことがないようなたくさんの紅葉で川面は括り染めのようになってます。(古今集 秋下294)
 

 第6話では、水は関を潜るように紅葉の下を潜っていましたが、ここでは、乱れ模様に呼応して括り染めの方が良いですね。 解釈はその時の状況に応じて多様性がある方が幅が広がって良いと思います。

 源融は、「源氏物語」の六条の屋敷のモデルとなったと言われている鴨川の東六条辺りに河原院という豪邸に住んでいました。 嵯峨天皇の皇子で臣籍降下しました。陸奥の塩釜を模して、難波から海水を運び込んで塩を焼かせたり、屋敷に幽霊として出てきたり。 業平も禁じられた恋に走ったり、12話の行平も須磨に蟄居したり、源融を挟んで三人は、「源氏物語」の中で生き続けています。
 
               
第5話 秀9 たちわかれ 行平
百9 はなのいろは 小野小町
第6話 秀10 ちはやぶる 業平
百10 これやこの 蝉丸
第12話 秀16 これやこの 蝉丸
百16 たちわかれ 行平
第13話 秀17 みちのくの 河原左大臣
百17 ちはやぶる 業平
 ところで、第5話、第6話、第12話、第13話を続けて並べてみました。

 こうして見ると、蝉丸は伝わるところでは宇多、醍醐朝の人ですが、東西行き交う人々のそれぞれが背負った関のために定家はこの位置に置いたのでしょうか。 行平と業平に挟まれた小野小町は、源氏物語の最後を飾る「夢の浮橋」の浮舟のモデルかなと思ってみたり。 第9話では、陽成院と一緒ですから、仁明朝に天皇のお傍にいた人だったのでしょうか?

 
 
 第14話 
秀18 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ (百15)  光孝天皇 (830〜884〜887)

百18 すみの江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ (秀11)  藤原敏行朝臣 (830?〜901?)

秀18:あなたのために春の野に出でて若菜を摘んでいます。そんな私の袖に雪が降りかかっていますよ。(古今集 春上21)

百17:住ノ江の岸に寄る波のように寄る部屋へ通う路を夢の中でさえ人目を避けようとしておられるのですか。(古今集 恋二559)


 光孝天皇は、仁明天皇の皇子。陽成天皇の退位後、藤原基経によって55歳で即位した。基経とは母親同士が姉妹なので従兄弟同士。基経が政治を 取り仕切り初の関白となった。宮中行事の再興に努め、和歌隆興の祖となる。勅願寺建立を計画したが実現を見ないまま没した。跡をついだ宇多天皇が 仁和寺を創建した。

 「すみの江の」の歌は、寛平の御時きさいの宮の歌合の歌の時に詠われたものです。つまり光孝天皇の女御の班子女王(833-900)主催の歌合の歌。 寛平御時なので、宇多天皇の母とすべきか。実際は宇多天皇が企画したもの(892年頃?)。行平の現存最古の在民部卿家歌合の次に古い歌合とされている。

 藤原敏行(百18)、伊勢(百19)、素性法師(百21)、大江千里(百23)、源宗于(百28)、凡河内躬恒(百29)、壬生忠岑(百30)、坂上是則(百31)、 紀友則(百33)、藤原興風(百34)、紀貫之(百35)、文屋朝康(百37)、在原棟梁(業平男)、在原元方(棟梁男)などが参加した。 次代の醍醐天皇の勅命による「古今和歌集」(905年)の撰者が揃ってますね。

 若菜摘みの歌は女性の歌が多いので、この歌は女性の立場から詠んだものかも。君のために雪がまだ降ってくる ような早春に若菜を摘んでいるのに、あなたは夢の中でも人目を避けようとするのですか。待つ身の女の思ひは通じてないようです。

 

19 難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや  伊勢(875?〜940?) (新古今集 恋一1049)

20 わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ 元良親王(890〜943) (後撰集 恋五960) =上にもどる=
 
 第15話 
秀21 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば  (百28)  源宗干朝臣 (880?〜939?)

百21 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな (秀22)  素性法師 (845?〜909?)

秀21:山里では都と違って、冬は殊更に寂しさがまさるように感じます。人が尋ねることもなく草も枯れてしまうと思うと。(古今集 冬315)

百21:すぐに行こう、とあなたが言うから待っていたのに、ずっと待ち続けて何か月も過ぎ、いつの間にか9月の末の有明の月を 見ることになってしまった。(古今集 恋四691)


 宗干は、光孝天皇皇子、是忠親王男。源氏に臣籍降下した。寛平后宮歌合(第14話)や是貞親王家歌合などの歌合に参加。伊勢(19) や 貫之(百35)と親交があったようだ。古今集での源氏の歌人は7人いるが、宗之が最多の6首選ばれている。

 宇多天皇が紀伊の国から石のついた海松という海草を奉ったことを題として、人々が歌を詠んだとき、官位が上がらないことを伝えようとして詠んだ歌。
沖つ風 ふけゐの浦に 立つ浪の なごりにさへや われはしづまぬ (大和物語30段)
・沖つ風の吹く吹飯の浦に波が立つように、皆官位を頂いて引いていくのに、私はその波の残ったなごりのような官位さえいただけないのでしょうか。
しかし、天皇に「さて、なんのことやら。」ととぼけられてしまい、詠んだかいがなかったですね。見るだけで終わっってしまいました。

 冬になって草木も枯れて、人も来なくなり寂しさは増すばかりだけど、春夏になれば草木も芽吹き、生い茂って気持ちも晴れやかに なるでしょう。でもすぐ行くよと言われてからいつの間にか秋になってしまっている。もうすぐまた人目も草もかれる冬が来るのに。 
 
 第16話 
秀22 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな (百21)  素性法師 (845?〜909?)

百22 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ (秀27) 文屋康秀 (840?〜893?) 六歌仙

秀22:すぐに行こう、とあなたが言うから待っていたのに、待ち明かして暁を迎えてしまい、有明の月を見ることになってしまった。(古今集 恋四691)

百22:吹くやいなやすぐに秋の草木がしおれるので、だから山から吹く強い風を嵐というのですね。(古今集 秋下249)


 僧正遍昭(百12)男。父が出家した時に兄と共に一緒に出家した。父僧正遍昭は850年35歳の時に出家したので、 素性法師が5,6歳の時のはず。素性は父遍昭と共に常康親王(仁明天皇父と紀種子母)が出家して住んでいた雲林院を受け継ぐ。 紀種子は、紀名虎の娘なので、業平が仕えた惟喬親王(文徳天皇父)の母である紀静子と姉妹である。因みにもう一人の妹が敏行(百18)の母である。 素性は後に一人大和国(奈良県)の石上にある良因院に移り住んだ。

 昌泰元年(898)、宇多上皇が奈良に御幸したさいに召され、共に旅して各所で歌を奉った。この時、菅原道真もおり、 「このたびは」(百24)を詠んだ。大宰府左遷の3年前のことでした。

父仁明天皇から寵愛を受けた常康親王は古今集に1首残しています。
吹きまよふ 野風を寒み 秋萩の うつりもゆくか 人の心の 雲林院親王 (古今集 恋781) 
・吹き荒れる野風が寒いので秋萩が色移ってゆく。その様に人の心も移ろうのか。

 「15話」と異なり、この「16話」では、9月のある日の夜の出来事と一夜説です。今日の約束を破られた人の心も嵐です。

 
 第17話 
秀23 このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに (百24)  菅家 (845〜903)

百23 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど  (秀30) 大江千里 (860?〜922?) 

秀23:急な旅立ちだったので、幣を用意する暇がなかった。神様、この手向山の美しい錦のような紅葉を幣として 心のままにお受けください。(古今集 羈旅420)

百23:秋の月を見ると、いろいろな思ひがこみ上げて悲しくなります。なにも私一人のための秋ではないと分かっているのですが。(古今集 秋上193)


 昌泰元年(898)、宇多上皇が奈良へ御幸した時に菅原道真も供をして、その時に詠んだ歌。素性法師(百21)も駆けつけた。

 二人とも漢学者ですね、そして歌人でもあり歌を残しています。。菅原家と大江氏はもと同族らしいです。「紅葉の錦」というのは、漢詩にはあるが、 古今集から始まった新しい技巧らしいです。千里の歌も「白氏文集」にある詩を翻訳したもの。

 道真は左大臣藤原時平の他氏排斥策で大宰府に送られ失意のうちに亡くなくなりましたが(昌泰の変)、死後、正一位太政大臣を送られ、 神として北野神社に祭られた。千里は、官位は低く六位兵部大丞で終わりました。

流され侍ける時、家の梅の花を見侍て
東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな (拾遺集 雑春1006 贈太政大臣)
・もし東風が吹いたならば、私の所まで風を託して匂いを送ってください。家の主がいなくても花の咲く春をわすれないで。

 菅原孝標女(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫に当たり、祐子内親王家紀伊(百72)などと同じく祐子内親王に仕えた。 大江氏は、赤染衛門(百59)の夫が大江匡衡であり、ひ孫の大江匡房(百73)と続く。

 
 第18話 
秀24 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし  (百30)  壬生忠岑 (870?〜930?)

百24 このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに  (秀23) 菅家 (845〜903) 

秀24:後朝の別れの朝、有明の月は無情に感じられて、それ以降、暁ほど辛く悲しいものはありません。(古今集 恋三625)

百24:急な旅立ちだったので、幣を用意する暇がなかった。神様、この手向山の美しい錦のような紅葉を幣として心のままにお受けください。(古今集 羈旅420)


 藤原定国(藤原高藤男、醍醐天皇外叔父)の随身を務めたことがある(大和物語)。卑官を歴任。古今集選者の一人。後鳥羽院が定家と家隆に、「古今集」の秀歌を 問うたところ、二人ともこの歌を推した。「古今著聞集」では、陰明門院(土御門天皇中宮)が問うたことになっている。どちらにしても定家、家隆はこの歌を高く評価した。

 月や山は、そこに存在するだけの無情なものなのに、見上げ見ては、わが身を照らして、滅入ったり、気忙しくなったり。 身勝手な自分の感情や状況を無情の物に託することで救いを求めているのでしょうか。

 
 第19話 
秀25 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花  (百29)  凡河内躬恒 (870?〜930?)

百25 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな   (秀35) 三条右大臣 (873〜932) 

秀25:だいたいの見当をつけて折ることができるなら折ってみましょうか。初霜が降りて、見分け辛い白菊の花を。(古今集 秋下277)

百25:逢坂山の「さねかづら」が負っている「逢って寝る」というその名の通りなら人に知られないで繰るように行きたいものです。(後撰集 恋三700)


 菊は中国からの輸入品です。万葉集には一例もありません。平安初期に漢詩文に導入された後に和歌にも詠まれるようになったみたいです。卑官で あったが歌にすぐれ,古今集選者の一人です。

 「くる」は「I'll come.」で理解すると良いですね。「あなたの所へ行きます。」と言って、「I'll go.」と言ってしまうと、 何処に行ってしまうのということになりますね。

 
 第20話 
秀26 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ   (百33)  紀友則 (850?〜905)

百26 おぐら山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ  (秀34) 貞信公 (880〜949) 

秀26:陽がのどかに射してる春の日に、どうしてそんなに落ち着きもなく慌ただしく桜の花は散るのでしょう。(古今集 春下84)

百26:小倉山の紅葉よ、もし心があるのなら、次は天皇の行幸があるのでそれまで散らないで待っていてください。(拾遺集 雑秋1128)


 紀友則は貫之といとこ同士ですが、歳は20歳以上歳上です。友則は、古今集完成前に没しており、貫之と壬生忠岑が哀傷歌を残しています。

紀友則が身まかりにける時よめる
明日知らぬ わが身と思へど 暮れぬ間の 今日は人こそ かなしかりけれ (古今集 哀傷歌838 貫之)
・明日の命も分からない儚い我が身と思うものの、日の暮れない間の今日は、あの人のことが悲しく思われるのです。
時しもあれ 秋やは人の 別るべき あるを見るだに 恋しきものを (古今集 哀傷歌839 忠岑)
・時もあろうに、よりによって秋に人と死に別れるということがあってよいものか。生きていて会うことができる場合にさえ、秋という季節は、会って 別れると恋しい気持ちになるのに。

 春の桜と秋の紅葉と対照的に組み合わせで、どちらも慌ただしく散って行きます。 散っている現状を鑑みるのと、まだ散っていない現状を維持してくれと願う強さは、当時の公家社会の縮図のようです。紀友則は古今集選者の一人ですが、 完成前に没した。
 
 第21話 
秀27 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ  (百22) 文屋康秀 (840?〜893?) 六歌仙

百27 みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ  (秀36) 中納言兼輔 (877〜933) 

秀27:吹くやいなやすぐに秋の草木がしおれるので、だから山から吹く強い風を嵐というのですね。(古今集 秋下249)

百27:みかの原を分けて湧きでて流れるいづみ川、その「いつみ」ではないけど、いつ見たと言って恋しいのでしょうか。(新古今集 恋一996)


 この康秀の歌は、息子の朝康の歌と言われています。しかし定家は古今集の表記通りに康秀の作としているようです。また兼輔の歌も本来よみ人知らず の歌だったらしいのですが、父俊成が兼輔の作としたようで、定家もその説に従っています。ここに並んだ歌はどちらも作者が違うということです。

 俊成の「三十六人撰」、後鳥羽院の「時代不同歌合」には兼輔の代表歌の一つになっていますが、最初に「三十六人撰」を選んだ公任(百55)は、 次の歌を代表歌の一つにしています。
人の親の 心は闇に あらねども 子を思道に まどひぬる哉 (後撰集 雑一1102 兼輔朝臣))
・親の心は、闇というわけではないのに、他のことは何も見えなくなって、子を思う道にただ迷ってしまいます。

 六歌仙の歌人は秀10番代に並んでいます。康秀だけが飛びぬけて秀27番です。他の六歌仙と一緒にできない理由があったのか、 この歌が康秀の作でないと分かっていて、やはり作者の異なる兼輔と合わせるためだったのでしょうか。

 
 第22話 
秀28 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける  (百35) 紀貫之 (872?〜945?) 

百28 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば  (秀21)  源宗干朝臣 (880?〜939?)

秀28:さあ、あなたのお気持ちは分かりませんが、古里の奈良に咲く梅の花は昔からと同じように香っています。(古今集 春上42)

百28:山里では都と違って、冬は殊更に寂しさがまさるように感じます。人が尋ねることもなく草も枯れてしまうと思うと。(古今集 冬315)


 古今集時代の代表的歌人であり、仮名文学の先駆者。古今集の仮名序を書いた。新撰和歌集の撰者。土佐日記の作者。 醍醐の御代の太平な時に公私の生活に満足していたが、 貫之が土佐の守となって京を離れている数年の間に、醍醐上皇、翌年から、宇多法皇、定方(三条右大臣)、兼輔、母と次々と亡くなりました。 「山里の」の歌は、貫之の晩年そのもののような歌です。

 ふるさとも山里も都から離れ、人の心はいざ知らず、四季折々、自然の営みが何も変わらず繰り返されています。 
 
                   
第18話 秀24 ありあけの 壬生忠岑 古今集選者
百24 このたびは 菅家 贈正一位太政大臣
第19話 秀25 こころあてに 凡河内躬恒 古今集選者
百25 なにしおはば 三条右大臣 右大臣従二位
第20話 秀26 ひさかたの 紀友則 古今集選者
百26 おぐらやま 貞信公 贈正一位関白太政大臣
第21話 秀27 ふくからに 文屋康秀 六歌仙
百27 みかのはら 中納言兼輔 中納言兼右衛門督従三位
第22話 秀28 ひとはいさ 紀貫之 古今集選者 仮名序
百28 やまざとは 源宗干朝臣 正四位下右京大夫
 第18話、第19話、第20話、第21話、第22話を続けて並べてみました。

 こうして見ると、やはり文屋康秀が何故ここにいるのか疑問です。何故貫之は康秀を六歌仙に撰んだのか。定家は何故古今集に倣って 康秀の作としたのか。何故子の朝康ともども百ト一首集に入れたのか。

 天武天皇の皇子、長皇子(万葉集に歌を五首残している歌人)の子の一人が臣籍降下して文屋(文室)姓を賜っている。康秀はその五代後になる。 征夷大将軍の坂上田村麻呂と共にいた文室綿麻呂、承和の変で淳和天皇皇子、恒貞親王が皇太子を廃されると、春宮大夫であったがために連座して 左遷させられた文室秋津(文室浄三の孫)などがいる。天武系の名門の名を残したかったというのも入集させた理由の一つなのかなと思ったりもしてます。

 身分の低い古今集選者たちとパトロンたちの見事な組み合わせです。貫之と組んでいる宗干は正四位下ですが身の不遇さを 歎いています(15話)。貫之はもっと低く、従五位下でした。

 
 
 第23話 
秀29 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪  (百31) 坂上是則 (880?〜930?) 

百29 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花  (秀25)  凡河内躬恒 (870?〜930?) 

秀29:夜が明ける頃、有明の月が差しているかと思うほど、吉野の里にも降り積もっている雪の白さよ。(古今集 冬332)

百29:だいたいの見当をつけて折ることができるなら折ってみましょうか。初霜が降りて、見分け辛い白菊の花を。(古今集 秋下277)


 蝦夷征伐に功のあった坂上田村麻呂の子孫。蹴鞠の名手。

 降れる白雪は深雪なのかうすき雪なのか意見が分かれるところですが、月と見まちがえるくらいの明るさ ならば深雪かな。里であっても月と見まちがえるくらい沢山の雪が降っているのです。初霜も白菊と分からなくなるくらいなら霜がたくさん降りてると想像してます。

 
 第24話 
秀30 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど  (百23) 大江千里 (860?〜922?)

百30 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし  (秀24)  壬生忠岑 (870?〜930?)

秀30:秋の月を見ると、いろいろな思ひがこみ上げて悲しくなります。なにも私一人のための秋ではないと 分かっているのですが。(古今集 秋上193)

百30:後朝の別れの朝、有明の月は非情に感じられて、それ以降、暁ほど辛く悲しいものはありません。(古今集 恋三625)


 漢学者大江音人の男。「句題和歌」(大江千里集)を宇多天皇に詠進。官位は低く、六位兵部大丞。

 どちらの歌も月は無情に輝いています。誰のものでもないと分かっているのに月を見ながら思ひは色々馳せてますね。 この月同士の組み合わせは、第75話で、「ほととぎす」(秀86)と「なげけとて」(百86」があります。 

 
 第25話 
秀31 たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに  (百34) 藤原興風 (870?〜920?) 

百31 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪  (秀29)  坂上是則 (880?〜930?)

秀31:一体誰を昔からの友としましょうか。年老いた今、同じような高砂の老い松がいるが、 その松だって昔からの友ではないのですから。(古今集 雑上909)

百31:夜が明ける頃、有明の月が差しているかと思うほど、吉野の里にも降り積もっている雪の白さよ。(古今集 冬332)


 最古の歌学書「歌経標式」の作者、藤原浜成のひ孫。官位は低かったが、寛平御時后宮歌合など歌界で活躍した。古今集では 17首入選と、藤原敏行の19首と同じように藤原家では断トツに多い。興風は、藤原京家。敏行は、藤原南家。 どちらの家も藤原北家の勢力に追い落とされていきます。

 雪を月に、花を雪に、雨を涙に、紅葉を錦に見立てたりしますが、二つの物を重ね合わせて、その残像に 一つの情景が浮かんで来たり、自分自身を反映させたりします。興風の歌には高砂の松と比べる長寿さが、めでたいことなのに、無情の松と語り合うわけでもなく 孤独の波に押し寄せられている深い歎きが込められています。。 

 

32 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり  春道列樹(880?〜920?) (古今集 秋下303)  =上にもどる=
 
 第26話 
秀33 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ  (百36) 清原深養父 (880?〜930?) 

百33 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ  (秀26)  紀友則 (850?〜905?)

秀33:夏の夜は短いので、まだ宵のうちと思っている間に、夜が明けてしまった。月は間に合わなくて雲のどのあたりに宿っているのかな。(古今集 夏166)

百33::陽がのどかに射してる春の日に、どうしてそんなに落ち着きもなく慌ただしく桜の花は散るのでしょう。(古今集 春下84)


 深養父は、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るった舎人親王の子孫、清原氏です。天武系ですね。元輔(百42)の祖父、 清少納言(62)の曽祖父です。官位は低く、貫之を通じて兼輔や定方の世話になった。

 夏の夜は、短くてすぐに夜が明けてしまうので、その速さに月はついていけません。どこに宿っているのか。 桜は慌ただしく散っています。春の日の光がのどかに射しているのに。どちらも時の慌ただしさの対比がおもしろいですね。

 
 
 第27話 
秀34 おぐら山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ  (百26) 貞信公 (880〜949) 

百34 たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに  (秀31)  藤原興風 (870?〜920?)

秀34:小倉山の紅葉よ、もし心があるのなら、次は天皇の行幸があるのでそれまで散らないで待っていてください。(拾遺集 雑秋1128)

百34:一体誰を昔からの友としましょうか。年老いた今、同じような高砂の老い松がいるが、 その松だって昔からの友ではないのですから。(古今集 雑上909)


 貞信公(藤原忠平)は、陽成院を退位させ、宇多天皇ともめた基経の四男、菅原道真を大宰府に左遷した時平の弟。時平の没後、政権をとり、 延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられ、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。朱雀の世には、平将門、藤原純友の 乱が起きた。忠平と紀貫之はほぼ同時代の人です。最後は従一位関白太政大臣まで昇りつめましたが、宇多、醍醐の時代ような世に戻ることを知らないまま、村上天皇の代に なって3年後に没しました。

 平将門は地方より15、16歳のころ京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を私君とした時期がありました。

 おぐら山の峰のもみじ葉を擬人化してその心を求め、長寿の高砂の松も友の代わりとして擬人化しようにも、非情の物に 人の情は跳ね返されるだけですが、そこに一抹の救いを託しているのでしょう。 

 
 第28話 
秀35 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな  (百25) 三条右大臣 (873〜932) 

百35 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける  (秀28)  紀貫之 (872〜945?)

秀35:逢坂山の「さねかづら」が負っている「逢って寝る」というその名の通りなら人に知られないで繰るように行きたいものです。(後撰集 恋三700)

百35:さあ、あなたのお気持ちは分かりませんが、古里の奈良に咲く梅の花は昔からと同じように香っています。(古今集 春上42)


 内大臣、高藤の男、朝忠(百44)の父 管絃にすぐれ、歌人として有名。兼輔とともに専門歌人の貫之らを庇護した。

 なんとしても女性の所へ行く方法はないものかと実かずらの名の持つ意味に願いを込めているが、「ひとはいさ」は、 女性とご無沙汰していたことを皮肉られたので返した歌です。つる性常緑低木のさねかづらと落葉高木の梅と植物も対比させたのでしょうか。。 

 
 第29話 
秀36みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ  (百27) 中納言兼輔 (877〜933) 

百36 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ  (秀33) 清原深養父 (880?〜930?)

秀36:みかの原を分けて湧きでて流れるいづみ川、その「いつみ」ではないけど、いつ見たと言って恋しいのでしょうか。(新古今集 恋一996)

百36:夏の夜は短いので、まだ宵のうちと思っている間に、夜が明けてしまった。月は間に合わなくて雲のどのあたりに宿っているのかな。(古今集 夏166)


 鴨川の堤に邸があったので、堤中納言と称された。貫之、躬恒などと歌人グループを形成していた。琴の名手であり、『後撰集』には清原深養父が琴を弾くのを 聴きながら、藤原兼輔と紀貫之が詠んだという歌が収められている。

 深養父は清少納言(百62)の曽祖父であり,三条右大臣や兼輔の庇護の元にありました。兼輔は紫式部(百57)の曽祖父です。兼輔は三条右大臣と 従弟同士です。紫式部には出自において清少納言より自負心があったことでしょう。

夏夜、深養父が琴ひくを聞きて
短か夜の ふけゆくまゝに 高砂の 峰の松風 吹くかとぞ聞く (後撰集 夏167 藤原兼輔朝臣)
・短い夏の夜が更けゆくにつれて、中国の詩に言うように、峰の松風が吹いているのではないかと、この琴の音を聞いてしまいますよ。
おなじ心を
葦引きの 山の下水は ゆきかよひ 琴の音にさへ ながるべら也 (後撰集 夏168 つらゆき)
・山下水のように目立たない私ですが、あなたの琴の音と通じ合って自然に泣かれることですよ。

 

‐‐‐
兼輔は、人の世の表裏に通じた柔軟な人間味からこぼれる自然のユーモアを持っていた。そこでこういう兼輔に臣従し、兼輔を通じて定方の知遇をも得た貫之らは 、拘束と気苦労の多い貴族社会の中でまことに例外的な「身分階級を離れた人間性自体の親密さによって結ばれ】、一つの別天地を形成することができたのである。 藤岡忠美氏がこれを一つの「小世界」と呼んだのは極めて適切な規定である。(「古今から後撰へ」「国語国文研究八」)。

 時平・定国の死後、「つねに笑みておはせし」寛仁の醍醐天皇と温雅な太政大臣忠平の下で、よい意味でも悪い意味でも政治的緊張の全く無い世が続き、 公的生活の外に展開する貴族の私生活が前代に比べて一段と華やかになって行った時勢を反映するのである。(紀貫之 目崎徳衛 吉川弘文館)    =上にもどる=

 
 第30話 
秀37 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき  (百39) 参議等 (880〜951) 

百37 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける  (秀38)  文屋朝康 (870?〜910?)

秀37:浅茅が生えてる小野の篠原、その「しの」ではないけれど、もうこれ以上忍びきれません。どうしてこんなに恋しいのでしょう。(後撰集 恋一577)

百37:草の上に置く白露に風が吹く秋の野は、その露が散って、糸で貫いていない玉が散りこぼれるようです。(後撰集 秋中308)


 嵯峨源氏。中納言希の男 村上天皇が践祚し、翌年の天暦元年(947年)、68歳で参議に任じられ公卿に列する。後撰集に4首残しているが、「源ひとし朝臣」 と記されている。定家自身も53歳で参議になったので、この歌集には、最晩年に参議になった源等のことを思い、「参議等」としたのでしょうか。参議と記されて いるのは、もう二人、参議篁(百11)(802-852)と参議雅経(百94)(1170-1221)がいる。

小野篁が参議になったのは承和14年(847年)、没する5年前です。古今集に6首残しているが、 「小野篁朝臣」と記されている。藤原雅経が参議になったのは、承久2年(1220年)、没する1年前です。新古今集初出で「藤原雅経」となっている。

 定家は色紙和歌には歌人名を記していません。自分史を和歌600年の上に載せたので歌人名を書けなかったと思ってます。 「百人一首」を世に出した息子の為家が、歌人名など若干手を加えたと思っているのですが、官職名に配慮しているのは、為家より定家の方だと思います。 定家が自分史の為に歌だけを欲しかったのではなく、歌人たちの歴史と自分が認めた歌を残したかったということではないでしょうか。それが「百人秀歌」の方かなと思ってます。 しかしその配列は、隣り合わせた2首ずつの歌合形式ではなく、歌人たちの歴史を鑑みながら「百ト一首」と組み合わせ、和歌を繰っては束ねて、錦のように織りなして いったと思います。 

         

                                    
 = 参議と中納言について =
番号 勅撰集名 勅撰集での名 二つの歌集での名  特記
1 新古今集 中納言家持 (秀5)中納言家持(6)
2 古今集 小野篁朝臣 (秀7)参議篁(11)
3 古今集 在原行平朝臣 (秀9)中納言行平(16)
4 新古今集 中納言兼輔 (秀36)中納言兼輔(27)
5 後撰集 源ひとしの朝臣 (秀37)参議等(39)
6 拾遺集 権中納言敦忠 (秀40)権中納言敦忠(43) 百人秀歌のみ「中納言敦忠」となっている
7 拾遺集 中納言朝忠 (秀44)中納言朝忠(44)
8 千載集 中納言定頼 (秀67)権中納言定頼(64) 新古今集以降、権中納言となっている
9 後拾遺集 大江匡房朝臣 (秀72)権中納言匡房(73) 百人秀歌では前中納言匡房となっている
10 新古今集 権中納言国実 (秀73)権中納言国実(--)
11 新古今集 権中納言長方 (秀90)権中納言長方(--)
12 新古今集 藤原雅経 (秀97)参議雅経(94)
13 新勅撰集 権中納言定家 (秀100)権中納言定家(97) 1232年71歳にて権中納言
 

 第30話の後、官位昇進への執着が強かった定家にとっては、他の歌人の官位にも留意したのではないかと思い、最終官位が参議と中納言を持つ歌人を 抜き出してみました。

 後撰集に4首のみ残こしている「源ひとしの朝臣」は、この集に入首しなければ、参議になった人として知られること は無かったでしょう。定家撰の「八代集秀逸」(道助法親王の仰せで、天福二年(1234)9月に進献したもの。実は後鳥羽院命)では、源等朝臣と記しています。 同時期に編まれたはずの二つの集には「参議」としていることこそ、定家の「参議」と「中納言」への思い入れの証しでは。

 篁は新古今集に参議として、家持、行平は、新古今集に中納言として入っています。雅経は新勅撰集から以後、参議となってます。

 匡房は、初出の続拾遺集での朝臣から金葉集・詞花集では大蔵卿になり、千載集・新古今集・新勅撰集では前中納言になっています。 「百人秀歌」も前中納言ですが「百ト一首」では権中納言です。ところが為家撰の続後撰集や為兼選の玉葉集でも前中納言となっているので、 どうも「百ト一首」だけ権中納言となっているようです。

 最初の五人、家持、行平、篁、等、兼輔は、新古今集、しいては定家によって復活した人たちなんですね。 定家自身も次の続後撰集から以後は「前中納言定家」と記されています。

 大僧正や太政大臣以外で「前」が付いている人はいません。定家は、自分自身と同様に参議、中納言に至った者たちを現役のままで残したかったのです。それは、 「百ト一首」の方の定家の生涯と共にということですね。この二つの歌集は、決して平安時代の貴族たちの輪廻でも棺でもなく、未来永劫生き続ける為のものだったと 思いたいです。そして、定家没後777年の現在(2018年)においてあらゆる形で生き続けていますよね。      =上にもどる=
  
 
 第31話 
秀38 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける  (秀37) 文屋朝康 (870?〜910?)

百38 忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな  (秀39) 右近 (910?〜966?)

秀38:草の上に置く白露に風が吹く秋の野は、その露が散って、糸で貫いていない玉が散りこぼれるようです。(後撰集 秋中308)

百38:忘れられる私のことはさておいて、神に誓ったあなたの命がなくなるのではと惜しまれてなりません。(拾遺集 恋四870)


 朝康は康秀(百22)の息子です。古今集に1首、後撰集に2首残すだけですが、宇多天皇代の「是定親王家歌合」「寛平御時后宮歌合」(889)などで歌を詠んでいる ので、官位は低かったが、歌人として認められていたようです。

 朝康の秋の歌も、右近の歌と合わさると、露は涙、玉は命として、命が惜しいと祈られながらも散ってしまったようです。敦忠か? 

 
 第32話 
秀39 忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな  (百38) 右近 (910?〜966?) 

百39 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき  (秀37) 参議等 (880〜951)

秀39:忘れられる私のことはさておいて、神に誓ったあなたの命がなくなるのではと惜しまれてなりません。(拾遺集 恋四870)

百39:浅茅が生えてる小野の篠原、その「しの」ではないけれど、もうこれ以上忍びきれません。どうしてこんなに恋しいのでしょう。(後撰集 恋一577)


 右近衛少将藤原季縄(?〜919)の娘。醍醐天皇中宮隠子(885-954)に仕えた。村上朝の応和二年(962)、康保三年(966)などの歌合に出詠。 「大和物語」にある173段の300首近くある歌の中からこの「わすらるる」の歌1首を取り上げています。

 「浅茅生の」の歌は恋一にある初々しい恋の始まりの歌です。忍びきれない男の思ひにあふれた歌ですが、 やがて恋も終末期の「四」になると裏切った人の命を祈られるまでになってしまうのですね。 

 
 第33話 
秀40 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものも 思はざりけり  (百43) 権中納言敦忠 (906〜943) 

百40 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで  (秀41) 平兼盛 (910?〜990?)

秀40:一度は逢ったものの、それが途絶えて後の苦しみや悲しみに比べると、それまでの事は物思いをしなかったも同然ですよ。(拾遺集 恋二710)

百40:心の内に忍んでいた恋も、「どうかしたんですか」と人がたずねるほどに顔色にでてしまいました。(拾遺集 恋一622)


 左大臣時平の三男。母は、在原棟簗の女とも言われているので、正しければ業平(百17)のひ孫になる。時平の子として、菅原道真(百24)の祟りによって、 短命を予期していたが、実際38歳で亡くなった。

 誰にも分からないように忍んでいた恋も、とうとう人がたずねるくらい顔に現れるようになってしまった。でも一度逢ったあとで 逢わなくなってしまった苦しみや悲しみは、忍んでいただけの苦しみなどどうってことも無いくらい大きいものでした。 

         

                                                       
 = 二つの歌集の書写とかるたでの官位 =

 前のトピックの「参議と中納言の表記について」をアップしてから、後の代での書写や江戸時代のかるたではどの様な官位表記になっているのか 興味が湧いてきたので、百人秀歌のみ中納言になっている敦忠、百ト一首のみ権中納言になっている匡房、正三位か従二位のどちらかになっている家隆の3人に 焦点を当てて調べてみました。

書 名 藤原敦忠 大江匡房 藤原家隆
新古今集 新勅撰集 続後撰集 (家隆のみ三集とも官位名が異なる) 権中納言敦忠 前中納言匡房 朝臣 正三位 従二位
A 尭孝(1391-1455)、 百人一首書写1445年 現存する最古のもの  権中納言敦忠 権中納言匡房 従二位家隆
B 三条西実隆(1455-1537)筆  ??? ??? 従二位家隆
C 歌仙絵版本の現存最古本は「素庵本百人一首」素庵(1571‐1632)  権中納言敦忠 前中納言匡房 従二位家隆
D 浄行院様御遺物百人一首かるた 寛文年間頃(1661-1673)?  権中納言敦忠 権中納言匡房 従二位家隆
E 百人一首像讃抄 細川幽斎著 菱川師宣(1618-1694)・画 延宝六年1678年   権中納言敦忠 権中納言匡房 従二位家隆
F★ 尾形光琳(1658-1716) かるた  中納言敦忠 権中納言匡房 従二位家隆
G 聖護院宮 版画色彩百人一首歌かるた 歌は肉筆 江戸中期  中納言敦忠 中納言匡房 ???
H 版画百人一首  ??? ??? ???
I 蒔絵百人一首歌かるた 寛文(1661-1673)・延宝期(1673-1681)  ??? ??? ???
J 蒔絵箱入り紙地百人一首歌かるた 江戸時代  ??? 前中納言匡房 ???
K 持明院基時卿色紙型百人一首歌かるた 元禄十七年(1703)没    ??? ??? 従二位家隆
L 絹地百人一首歌かるた  ??? 権中納言匡房 ???
M 板地百人一首歌かるた  ??? ??? ???
N 錦百人一首あづま織 安永四年(1775) 勝川春章(1726-1792)画  権中納言敦忠 権中納言匡房 従二位家隆
O 百人一首 為家本 屋代弘賢(1758-1841)模写本  権中納言敦忠 権中納言匡房 従二位家隆
P 百人秀歌 宮内庁書陵部蔵 編者久曽神昇   中納言敦忠 前中納言匡房 正三位家隆
Q 道勝法親王筆百人一首歌かるた 1620年没 元和期(1615-1624)  中納言敦忠 前中納言匡房 正三位家隆
R 尊円親王(1298-1356)「百人一首」版下本 慶安三年(1650)出版  中納言敦忠 前中納言匡房 正三位家隆
S 本阿弥光悦(1558-1637)  (百人秀歌順配列 歌は百人一首)  中納言敦忠 前中納言匡房 正三位家隆
T 奈良絵本「百人一首」 吉田本  中納言敦忠 前中納言匡房 正三位家隆
U 小倉山百人一首 延宝八年(1680) 尊円親王筆本 菱川師宣画  中納言敦忠 前中納言匡房 正三位家隆
V 笹竹上藤紋散し蒔絵箱入り歌かるた 江戸中期末頃  中納言敦忠 前中納言匡房 正三位家隆
W むべ山百人一首かるた  江戸後期  中納言敦忠 前中納言匡房 正三位家隆
F★ 光琳かるた画稿  中納言敦忠 前中納言匡房 正三位家隆
頼政を消して直す
 

・ 入手した画像から確認できた3人の官位を表にしてみました。百人一首の従二位家隆と百人秀歌の正三位家隆とに分けると区別が付き易くなるので、 これ以降、従二位型と正三位型としますね。書名の最初にアルファベットを記しています。

A尭孝が書写した百人一首は、現存最古のものだそうです。私たちが知っている百人一首と同じように敦忠、匡房は権中納言となっており、家隆は従二位です。

B三条西実隆筆のものは、残念ながら敦忠と匡房の官位は分かりませんでした。 

C角倉素庵は書を本阿弥光悦に学びました。「素庵本百人一首」は、歌仙絵版本の現存最古本です。従二位型なのに匡房は「前」です。

E百人一首像讃抄が庶民に向けて大当たりしたので、この絵を盗用したと思われる百人一首基箭抄の絵入本が出現したりしてます。

F光琳かるたは従二位型なのに敦忠が「権」の付いていない正三位型です。CもFも正三位型の影響があるのでしょうか。

Gおそらくすべての中納言に「前」も「権」も付いてないと思われます。定頼と定家は常に権中納言ですのに、この二人も「中納言」となっていますから。 残念ながら家隆の官位が分かりません。

因みに中納言が官位の歌人は、先のトピックスの=参議と中納言について=における表のように、二つの歌集を合わせて、家持(6)、行平(16)、兼輔(27)、敦忠(43)、朝康(44)、定頼(64)、匡房(73)、国実(秀73)、長方(秀90)、定家(97)の10人(5X2)です。

・ H〜Mでは、ほとんど官位を確認できませんでした。

・ 正三位型はすべて百人秀歌と同様の官位名になっています。どういう流布でもってこの二つの型ができたのでしょうね。

T吉田本については、石川透氏の奈良絵本「百人一首」についてのpdfファイルを参照しました。

W「むべ山百人一首」かるたは、博打用に作られたもので下の句札にも絵があります。この札が何故正三位型なのかな。

F★光琳かるた画稿です。こちらでの官位は正三位型になっています。実際の光琳かるたは従二位型なんですが、敦忠は正三位型のままで、「中納言敦忠」です。 ところで、正三位家隆は、頼政と書き、消して、その横に家隆となってるんです。三位を書いたところで無意識に源三位の頼政となったのでしょうか。 頼政と言えば、近衛天皇の鵺退治のこと、あやめ御前のこと、以仁王の挙兵のことなど、江戸の庶民にとって、三位と言えば頼政となるくらい人気があったのでしょうか。   

参考資料:
百人一首 為家本・尊円親王本考 吉田幸一 笠間書院 平成十一年(1999)5月30日発行
百人一首 堯孝筆  宮内庁書陵部蔵 笠間影印刊刊行会 編者 樋口芳麻呂 プリント オン デマンド
御所本百人秀歌 宮内庁書陵部 笠間影印刊刊行会 編者 久曽神昇 プリント オン デマンド
別冊太陽 WINTER '72 no.1 百人一首 平凡社 1972年12月1日発行
日本のかるた 小倉百人一首の背景 濱口博章・山口格太郎共著 カラーブックス 保育社 昭和50年重版(昭和48年初版発行)
別冊太陽愛蔵版 平凡社 1974年11月9日発行
百人一首入門 監修 有吉保・神作光一 淡交社 平成16年12月18日初版発行
奈良絵本「百人一首」について 石川透pdfファイル       =上にもどる= 
  
 
 第34話 
秀41 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで  (百40) 平兼盛 (910?〜990?)

百41 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか (秀42) 壬生忠見 (910?〜980?)

秀41:心の内に忍んでいた恋も、「どうかしたんですか」と人がたずねるほどに顔色にでてしまいました。(拾遺集 恋一622)

百41:恋をしているという私のことがもう既に噂になっています。まだ思ひ始めたばかりというのに。(拾遺集 恋一621) 


 兼盛は光孝天皇の玄孫。篤行王の男。天暦四年(950)に臣籍降下して、兼盛王から平氏になった。 次トピックスのように、兼盛の歌が勝ちました。実際の歌合では、「こいしてふ」が先に詠まれたのですが、 定家はこの両集ともに「しのぶれど」を先にしています。勝負に勝った方を先にしたということでしょうか。

 心の内に思ひ始めただけなのに、もう人のうわさになっているし、顔に現れ始めたのでしょうか、人に問われるまでに なってしまいました。恋のエネルギーほど身からほとばしるものはないのでしょうか。 

 

 = 天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ) =

 村上天皇の治世(天暦御時)の天徳四年三月三十日(960/4/28)、十二題二十番で競われた。判者は左大臣藤原実頼、その補佐に大納言源高明。 後世の範と仰がれた晴儀の内裏歌合が披講された。

 その時に第34話の2首が20番目に番えられ、後の世に語り草となる名勝負となった。 勝負が決しがたく、判者の実頼は、天皇の御気色を伺ったところ、ひそかに兼盛の歌を口ずさまれたので勝ちとした。 兼盛は、この歌が勝ったことを聞いて、喜び勇んで、他の自分の勝負には執着せず、退出してしまったらしい。

 12人の歌人が出詠したがその内5人(5X1)がこの集に入っている。

 平兼盛(秀41)
 壬生忠見(秀42)
 藤原朝忠(秀44)
 清原元輔(秀45)
 大中臣能宣(秀48)  

 同じ時代に活躍した歌人たちですが、これを眺めていると、敦忠(秀40)が存命していたらこの歌合に出詠していたのではと思わずにはいられない。       =上にもどる=

 
 第35話 
秀42 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか (百41) 壬生忠見 (910?〜980?)

百42 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは   (秀45) 清原元輔 (908〜990)

秀42:恋をしているという私のことがもう既に噂になっています。まだ思ひ始めたばかりというのに。(拾遺集 恋一621)

百42:約束したでしょ。何度も袖を濡らしながら、あの末の松山が波を越さないように、私たちの仲も末長く変わるまいと思っていたのに。(後拾遺集 恋四770)


 壬生忠岑男。官位は低かったが、歌人としては有名であった。忠見を挟んで兼盛と元輔が対峙してますが。「袋草子」によると、 元輔は、兼盛が毎度沈思して歌を詠むことを難じています。(百人一首 島津忠雄)

 忠見は、この歌で負けた後に、食事ものどを通らず没したというが、その後も歌を残しています。それくらいの名勝負だったということでしょう。

 第32話では、初々しさを経て、誓った男の裏切りにその命を惜しんでいるが、ここでは、初々しさを経て、誓った女の裏切りを 歎いています。 

 
 第36話 
秀43 あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな   (百45) 謙徳公 (924〜972)

百43 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり  (秀40) 権中納言敦忠 (906〜943)

秀43:かわいそうにと、同情してくれそうな人も思い浮かばず、我が身はこのまま虚しく死んでしまうのでしょう。(拾遺集 恋五950)

百43:恋とともに始まるそのものの苦しみや悲しみに比べると、それまでの事は物思いをしなかったも同然ですよ。(拾遺集 恋二710)


 藤原伊尹(これただ、これまさ)。貞信公(百26)の孫。九条右大臣師輔男。摂政太政大臣正二位。和歌所の別当として梨壺の5人を監督する立場になり、 後撰集の編集に関与する。謙徳公の歌は、後撰集に2首、拾遺集に6首入首した後、4集に無く、新古今集に10首、新勅撰集に9首撰ばれており、この時代に合っていたのでしょう。

 この2首を並べてみると、恋の歌というより、人生の孤独を詠んだ述懐歌、 苦悩の心理過程を詠んだ歌として解釈した方が晩年の定家の意に添っていると思います。 

 

44 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし  中納言朝忠(910〜966) (拾遺集恋一678)  =上にもどる=
 
 第37話 
秀45 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは   (百42) 清原元輔 (908〜990)

百45 あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな   (秀43) 謙徳公 (924〜972)

秀45:約束したでしょ。何度も袖を濡らしながら、あの末の松山が波を越さないように、私たちの仲も末長く変わるまいと思っていたのに。(後拾遺集 恋四770)

百45:かわいそうにと、同情してくれそうな人も思い浮かばず、我が身はこのまま虚しく死んでしまうのでしょう。(拾遺集 恋五950)


 元輔は、清原深養父(百36)の孫。青少納言(百62)の父。後撰集選者の一人。第36話で述べたように謙徳公は和歌所に別当。 勅撰集の編纂と共に万葉集に訓点をつけた。他の撰者は、坂上望城(百31の男)、紀時文(百35の男)、大中臣能宣(百49)、源順です。 元輔は、専門歌人として、高官の家に出入りし、多くの歌を詠じている。

 この歌は心変わりした女に、人に代わりて詠んだとのこと。謙徳公の歌は、「一条摂政御集」にあり、女から捨てられた 男の孤独な弱い心を詠んでいるので、どちらも男の失恋の歌。元輔の方が、怨念が深そうに思えます。 

 
 第38話 
秀46 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな  (百48) 源重之 (940?〜1000?)

百46 由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え 行く方も知らぬ 恋の道かな    (秀47) 曽祢好忠 (950?〜1003?)

秀46:風が激しいので、岩を打つ波が、岩は平気で、自分だけが心も千々に砕けて物思いするこの頃です。(詞花集 恋上211)

百46:由良の瀬戸を漕いでゆく船頭が、かいを失って行方も分からず漂うように、どこへ、どのようになるかも分からない私の恋の道ですよ。(新古今集 恋一1071)


 清和源氏。冷泉天皇の東宮時代の帯刀先生(東宮警護の士の長)。東宮時代(950-967)(天暦、天徳、応和、康保)年間に百首を奉った中の1首。 この百首の歌は百首歌では最古のものと言われている。曾禰好忠(百46)らと親交があり、実方(百51)の陸奥赴任には随った。実方の没後も留まり、そこで没した。

 岩が相手の冷淡さ、頑なに閉ざされた心を喩えていて、自分の身の拙さを思い知らされていますし、 漂うばかりの行方が分からない恋の道と、どちらも先の見えない状態を歌ってます。 

 
   
 = 大和物語 =
 大和物語は10世紀中頃に成立し、通常173段の章段からなる歌物語です。前編と後編から成り、前編は、宮廷歌物語、後編は、 伝説や口碑による悲話などが語られています。実在の人物が百人余り登場し、宇多天皇の出家間近の伊勢(19)の悲しみの歌に始り、 遍昭(秀15)の出家と放浪に終わります。作者は分かっていませんが、後撰集と関りがあると言われてます。

 ところで、源重之(秀46)は10世紀末に没した人ですが、重之がこの物語の関係人物の中で没年順では一番遅い人になります。 大和物語の中の歌のみならず語りの箇所だけの登場や姻戚関係として理解させられる歌人100人余りのうち20人(5X4)が、この集に入っています。 (大和物語 全訳注 雨海博洋・岡山美樹 講談社学術文庫 2006年発効)より

           
人麻呂(3) 在原業平(秀10) 陽成院(秀12) 小野小町(秀13) 僧正遍昭(秀15)
伊勢(19) 元良親王(20) 源宗之朝臣(秀21) 壬生忠岑(秀24) 凡河内躬恒(秀25)
紀友則(秀26) 紀貫之(秀28) 貞信公(秀34) 三条右大臣(秀35) 権中納言兼輔(秀36)
右近(秀39) 中納言敦忠(秀40) 平兼盛(秀41) 中納言朝忠(秀44) 源重之(秀46)
 
 ・この集に撰ばれた歌は、「忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな」右近(秀39)の1首だけです。

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 話は横に逸れますが、この二つの歌集を編んだ時、同時に編纂したと思われる新勅撰集においては如何かと調べてみました。 大和物語173段より15段(5X3)、16首の歌を入れています。その13人の歌人のうち5人(5X1)がこの歌集の歌人です。ただし、大和物語の 和歌の出典と考えられるものがあるので、歌人名が一致しないものがある。あくまで新勅撰集を主体としている。
 
                                       
番号 段数 歌番号 新勅撰集     歌人名
1 3段 4   6巻 冬・365   とし子
2 5段 8  14巻 恋四・884   凡河内躬恒 (秀25) ★
3 7段 10  14巻 恋四・934   よみひとしらず
4 29段 41   4巻 秋上・243   三条右大臣 (秀35) ★
5 35段 48  19巻 雑四・1265   権中納言兼輔 (秀36) ★
6 36段 49   7巻 賀・453   権中納言兼輔
7 39段 52  13巻 恋三・820   源宗干朝臣 (秀21) ★
8 41段 54  18巻 雑三・1213   大納言清蔭
9 71段 103  18巻 雑三・1225   権中納言兼輔
10 90段 134  12巻 恋二・735   修理
11 106段 161  14巻 恋四・875   元良親王 (20) ★
162  14巻 恋四・876   平中興女
12 117段 184  14巻 恋四・888   孚子内親王
13 134段 211  13巻 恋三・822   延喜御製 (醍醐天皇)
14 137段 214   5巻 秋下・301   とし子
15 143段 230  14巻 恋四・865   在原滋春
 

 大和物語の段を主体としてみると、第1段は宇多天皇の出家に際しての伊勢の悲しみ。第2段は出家後の様子。 第3段はそれから30年近くたって、宇多上皇の六十の賀から始まる。定家は、第1,2段は序章と見なして、第3段から始まると考えていたかもしれない。

 また、何段から後編が始まるのか様々な考察があり、第142段から始まるとか、第143段からとか言われている。「むかし、男ありけり...」で始まる伊勢物語の ように業平男の滋春のこの段が「むかし、在中将のみむすこ...」と始り、ここで始まり方が変わるので、ここからが後編だと言う人もいる。 定家も143段から後編が始まると思っていたのかもしれない。この表を見ていると、そういう考え方が湧き出てくるのです。恋の歌が多いです。     =上にもどる=
 
          


 
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