正面玄関百人秀歌と百ト一首最勝四天王院北斗七星信仰水無瀬離宮定家略年譜百人秀歌の歌人たち


    
◆ 百人秀歌の歌人たち (101人)   

 「百人秀歌」と「百人一首」という二つの色紙形和歌集において、世間一般では、 「百人秀歌」は2首ずつ歌合い形式になっていて、「百人一首」は概ね年代順で構成されていると言われています。

 「百人秀歌」と同様に、「百人一首」も101首あるんですという自説<百人秀歌と百ト一首>に 始まり、それらに織り込んだ定家の思惑、子々孫々の繁栄のための怨霊封じ、はたまた<自分史>を平安時代の和歌史に乗せて しまったという発想など色々展開してきましたが、 さて、今回は、「百人秀歌」と自説の「百ト一首」の同じ歌番号を持つ歌人たちとその時代背景を考えてみたいと思います。。

 註:天皇の生没年の4つ数字の間の2つの数字は在位期間を、3つの場合は在位中に没したことを示しています。

(2019/11/30 随時更新中)
 
 
 
 ◆ 目 次
 
天智天皇
秀百 1
持統天皇
秀百 2
柿本人麿
秀百 3
山辺赤人
秀百 4
大伴家持
秀5(百6)
安倍仲麿
秀6(百7)
小野篁
秀7(百11)
猿丸大夫
秀8(百5)
在原行平
秀9(百16)
在原業平
秀10(百17)
藤原敏行
秀11(百18)
陽成院
秀12(百13)
小野小町
秀13(百9)
喜撰法師
秀14(百8)
僧正遍昭
秀15(百12)
蝉丸
秀16(百10)
源融
秀17(百14)
光孝天皇
秀18(百15)
伊勢
秀百 19
元良親王
秀百 20
源宗之
秀21(百28)
素性法師
秀22(百21)
菅原道真
秀23(百24)
壬生忠岑
秀24(百30)
凡河内躬恒
秀25(百29)
紀友則
秀26(百33)
文屋康秀
秀27(百22)
紀貫之
秀28(百35)
坂上是則
秀29(百31)
大江千里
秀30(百23)
藤原興風
秀31(百34)
春道列樹
秀百 32
清原深養父
秀33(百36)
藤原忠平
秀34(百26)
藤原定方
秀35(百25)
藤原兼輔
秀36(百27)
源等
秀37(百39)
文屋朝康
秀38(百37)
右近
秀39(百38)
藤原敦忠
秀40(百43)
平兼盛
秀41(百40)
壬生忠見
秀42(百41)
藤原伊尹
秀43(百45)
藤原朝忠
秀百 44
清原元輔
秀45(百42)
源重之
秀46(百48)
曽禰好忠
秀47(百46)
大中臣能宣
秀48(百49)
藤原義孝
秀49(百50)
藤原実方
秀50(百51)
藤原道信
秀51(百52)
恵慶法師
秀52(百47)
一条院皇后宮
秀53
三条院
秀54(百68)
儀同三司母
秀55(百54)
道綱母
秀56(百53)
能因法師
秀57(百69)
良暹法師
秀58(百70)
藤原公任
秀59(百55)
清少納言
秀60(百62)
和泉式部
秀61(百56)
大弐三位
秀62(百58)
赤染衛門
秀63(百59)
紫式部
秀64(百57)
伊勢大輔
秀65(百61)
小式部内侍
秀66(百60)
藤原定頼
秀67(百64)
藤原道雅
秀68(百63)
周防内侍
秀69(百67)
源経信
秀70(百71)
大僧正行尊
秀71(百66)
大江匡房
秀72(百73)
源国信
秀73
祐子内親王紀伊秀74(百72) 相模
秀75(百65)
源俊頼
秀76(百74)
崇徳院
秀百 77
待賢門院堀河
秀78(百80)
藤原忠通
秀79(百76)
藤原顕輔
秀80(百79)
源兼昌
秀81(百78)
藤原基俊
秀82(百75)
道因法師
秀83(百82)
藤原清輔
秀百 84
俊恵法師
秀百 85
藤原実定
秀86(百81)
藤原俊成
秀87(百83)
西行法師
秀88(百86)
皇嘉門院別当
秀89(百88)
藤原長方
秀90
殷富門院大輔
秀91(百90)
式子内親王
秀92(百89)
寂蓮法師
秀93(百87)
二条院讃岐
秀94(百92)
九条良経
秀95(百91)
前大僧正慈円
秀96(百95)
藤原雅経
秀97(百94)
源実朝
秀98(百93)
藤原家隆
秀99(百98)
藤原定家
秀100(百97)
藤原公経
秀101(百96)
 
 ◆ トピック
 
秀5番の次 T.1 竹取物語 秀6番の次 T.2 羇旅・別離の歌 秀8番の次 T.3 仮託の歌人たち・他氏排斥事件
秀9番の次 T.4 仁明・文徳朝の女御、更衣、宮人 秀10番の次 T.5 伊勢物語 秀13番の次 T.6 式子内親王と定家(恋の部立て)
秀16番の次 T.7 蝉丸について 秀18番の次 T.8 是定親王家歌合 秀36番の次 T.9 紀貫之の時代
秀39番の次 T.10 参議と中納言 秀41番の次 T.11 天徳内裏歌合 秀44番の次 T.12 源氏物語のモデル
秀48番の次 T.13 大和物語 秀51番の次 T.14 思ひ 秀52番の次 T.15 一条朝前後
    
 
 ◆ 百人秀歌の歌人たち (101人)
  
天智天皇
秀百1

秋の田の
かりほの庵の
苫を荒み
わが衣手は
露にぬれつつ
★天智天皇御製(626〜668−672) (後撰集 秋中302)
実際は、万葉集に「秋田刈る仮庵を作りわが居れば 衣手寒く露ぞ置きにける」(巻十2174)というよみ人知らずの歌があり、それがいつの間にか変化して御製として伝わったようだ。

奈良時代の天武天皇系が途絶えたので、天智系に移つり、 平安時代の治世者として農民を思いやるにふさわしい歌として選ばれたように解釈されたりする。また、 万葉集13の中大兄皇子と大海人皇子と額田王との三角関係の果てに敗れて袖を濡らしている解釈もある。 香久山と畝火山と耳成山と神代から争った話があるくらいだから人の世でも当然かなということだ。


★持統天皇御製(645〜690−697〜703) (新古今集 夏175)
この歌も万葉集に「春すぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天のかぐ山」(巻一28)として原歌がある。

白い衣が具体的に何を表しているのか。白い衣を干す習慣があったとか、菜の花であるとか、初夏に立ち昇る 雲を衣のように見立てたものとか、人それぞれに自分を納得させようと考えを披露してるが、いまだに納得できるようなものはない。 香久山が天から降りてきたと言う神話や天の羽衣を思い起こさせ、色々想像させてくれる。

大化の改新の年に生まれ、夫の天武天皇亡きあと、694年に藤原京遷都を成し遂げた。新しい国造りに向けての新しい苦難の道を歩みだす時に、 一瞬晴れ晴れとした青空を眺め、戦いすんで、みそぎの後の衣を干しているような心境だったのではないだろか。さあ、躍動の夏がやってきた。
   =上にもどる=
持統天皇天皇
秀百2

春過ぎて
夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ
天の香具山
柿本人麻呂
秀百3

あしびきの
山鳥の尾の
しだり尾の
ながながし夜を
ひとりかも寝む
★柿本人麿(生没年不詳) (拾遺集 恋三778)
☆山鳥の長〜く垂れ下がった尾より、もっと長〜い秋の夜を、私は愛する人と別れて一人で寝ることになるのだろうか。

この歌も万葉集に「思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を」(巻十一2802)とあり、 その左註にこの歌がある。よみ人しらずなので人麿の歌ではない。拾遺集に撰ばれたのも、この頃に出た「人丸集」によるものらしい。 人麻呂、人麿、人丸と色んな表記があります。平安時代には、俗に人丸と言われてた。

持統天皇、次の文武天皇の時代の宮廷歌人。行幸に従ってその場所場所で歌を 献上した。最後は石見国(島根県益田)で亡くなったらしい。万葉時代の最大の歌人で歌の聖とされる。約400年後の1118年に六条家の歌人たちによって 人丸影供が催された。


★山邊赤人(生没年不詳) (新古今集 冬675)
☆田子の浦に進み出て、遥か彼方を見渡すと、真っ白い富士の高嶺に今も雪はしきりに降っていることだ。

この歌も万葉集に「田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞふじの高嶺に雪はふりける」(巻三318)と、山部宿禰赤人の長歌 に続いて反歌としてある。

人麿と並び称されているが、聖武天皇(701〜724−749〜756)の世に活躍した。多くの歌を残すが人麿と同じく「赤人集」から撰ばれたものが多く 真偽のほどは分からない。

定家は晩年に至ってこの歌を評価したらしい。200年前に公任が撰んだ三十六人撰の赤人の歌にも、歌だけを撰び直した 俊成もこの歌を撰んでいない。新古今以降名歌となった。
   =上にもどる=
山辺赤人
秀百4

田子の浦に
うちいでて見れば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ


大伴家持
秀5(百6)

鵲の
渡せる橋に
おく霜の
白きを見れば
夜ぞふけにける
★中納言家持 (718?〜785) (新古今集 冬620) 
☆美しく冴えた冬の空に見える天の川をかささぎが橋を架け渡したという七夕伝説を思い起こ させながら澄み切った夜がすっかり更けたこと詠っている。

家持の歌ではないのですが、人麿や赤人と同じく、平安時代にできた「家持集」に入っているので、新古今集に家持の歌として選ばれた。 この歌は、万葉集に入っていない。

公任の三十六人撰には、歌を3首とも万葉集から撰んでいるが、俊成はこの歌を家持の歌として撰んでいる。 この歌の情景と家持という歌人名のそれぞれを定家の思惑として欲しかったのかな。万葉集を編纂したとも言われる家持が本当にこの歌を 作ったかどうかは問題にしてなかったと思う。

それとも俊成が後出の「みかのはら」(秀36)も同様に三十六人撰に兼輔の歌として選んだことと関係するのだろうか。

この5番目の歌から次々と歌がリンクしていきます。百5の猿丸太夫の歌と合わせてみると、空を舞う鵲と大地を踏みしめる鹿、霜の白さと木々の黄葉、澄み切った夜空の無音の 静寂とカサカサと踏み分ける音、それぞれの歌の視覚と聴覚を研ぎ澄ました対照的な歌を並べてます。

既出6首のうち、3首は、「白妙の衣」、「白妙の富士の高嶺」、「白い霜」と「白」が登場し、他の3首は「秋の田」、 「ながながし夜」、「黄葉踏み分ける」と「長い孤独の秋」ですね。定家好みの「白」と「秋」のオンパレードです。

秋の田の大地から天の香久山、富士の頂上、さらに鵲の橋から天上へと視線が昇って行きます。そこから 「源氏物語」に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」(絵合)とある竹取物語が浮かび上がってきました。    =上にもどる=
猿丸太夫
百5(秀8)

奥山に
もみぢ踏み分け
なく鹿の
声聞くときぞ
秋はきにけり


        
 T.1  = 竹取物語 = 

 平安時代の物語。「竹取翁物語」と題した写本もあります。9世紀後半から10世紀前半頃に、和・漢,仏教の知識をもった男性によってつくられたと考えられています。

 内容は構成上、かぐや姫の生い立ち、5人の貴公子と帝(みかど)の求婚、かぐや姫の昇天の三部からなっています

 姫のうわさを聞いて多くの男たちが求婚したが、なかでも中納言石上麻呂(いそのかみのまろ)、右大臣阿部御主人(あべのみうし)、 大納言大伴御行(おおとものみゆき)、石作皇子(いしづくりのみこ)、車持皇子(くらもちのみこ)、 の5人は熱心であった。

 最後に帝が姫を求めて勅使を遣わしますが、姫はそのお召しにも応じず、養い親の翁や嫗の嘆きをあとに、不死の薬と手紙を残して、八月十五夜、天人に迎えられて月の世界へ昇天してしまうのでした。
 
5人の貴公子 かぐや姫の難題     3人の実在の人物と仮託の2人
1 中納言石上麻呂
(いそのかみのまろ)
燕の産んだ子安貝  640年〜717年。672年の壬申の乱では、大友皇子側についていた。後に赦されて、701年に大納言になり、政治の中枢に携わった。 
 しかし、710年に平城京に遷都した時に藤原京の留守役を命じられた。
2 右大臣阿倍御主人
(あべのみうし)
火鼠の裘
ひねずみのかわごろも
(焼いても燃えない布)
 635年?〜703年。壬申の乱では、大海人皇子側についていた。右大臣として太政官の頂点の座にいた。
 持統天皇の代に、高知皇子、大伴御行、多治比嶋と並ぶ地位にあった。
3 大納言大伴御行
(おおとものみゆき)
龍の首の珠  646年〜701年。壬申の乱では、大海人皇子側についていた。
 持統天皇の代に、高知皇子、阿倍御主人、多治比嶋と並ぶ地位にあった。
4 石作皇子
(いしづくりのみこ)
仏の御石の鉢  宣化天皇(第28代)の玄孫に多治比嶋(624年〜701年)がいる。歴史的に登場は遅く、天武天皇の代の682年頃。
 天武天皇(第40代)の高祖母の石姫皇女は、宣化天皇の皇女。太政大臣の高市皇子に次いで高い地位についた。
5 車持皇子
(くらもちのみこ)
蓬莱の玉の枝
ほうらいのたまのえ
(根が銀、茎が金、
実が真珠の木の枝)
 藤原不比等(659年〜720年)は、母が一説に車持与志古の娘。
 701年の大宝律令編纂の中心的人物。阿倍御主人、大伴御行、多治比嶋などが次々と亡くなった後に、藤原氏の最初の黄金時代を築いた。 
=上にもどる=


安倍仲麿
秀6(百7)

天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも
★ 阿倍仲麿 (698・701〜770) (古今集 羇旅406)
☆大空を見上げると、月がのぼっている。これは我が故郷、春日の山に出た月と同じなのだろうか。

仲麿と家持は、天武天皇系の時代の人だが、仲麿は、家持が生まれる前年?(717年)に遣唐使となり、753年11月に一度帰国を試みた。 その時、皆が別れの宴を開いてくれ、その宴席で昇ってきた月を見て、この歌を詠んだとされている。しかし船が難破し、漂流したのち唐に戻り、その後帰国することなく唐で没した。

唐の国では、帰国を夢見た仲麿が東から昇ってきた月を見て詠んでいる時に、日本の宮中では、冬の澄み切った夜空にかかるかささぎの渡せる橋の白さを見上げていると思えば、 雄大な天空で二つの歌は見事に織り合わさっていますね。

この歌は、古今集、羇旅の部立ての巻頭を飾っています。羇旅・別離の部立ての歌を調べてみると全部で5首(5X1)ありました。それぞれの歌人たちは、皆何かしらの悲劇性を持っていますね。
   =上にもどる=
大伴家持
百6(秀5)

鵲の
渡せる橋に
おく霜の
白きを見れば
夜ぞふけにける


   
 T.2  = 羇旅・離別の歌 = 
歌順 初句 出典      歌人名 
1 秀6 あまのはら 古今集 羇旅406   阿倍仲麿。 第44代、元正天皇御時、遣唐使として唐に渡る。帰国を志すが叶わず、唐にて亡くなる。羇旅歌の巻頭歌。 
2 秀7 わたのはらや 古今集 羇旅407   参議篁(小野篁)。 第54代、仁明天皇御時、遣唐副使の任を放棄したことにより嵯峨上皇の怒りをかって2年間隠岐に流罪となる。隠岐島へ船出する時に詠まれた。
3 秀9 たちわかれ 古今集 離別365   中納言行平(在原行平)。 第55代、文徳天皇御時、事ありて、一時期、須磨に籠っていた時期がある。離別歌の巻頭歌。因幡守に赴任する時に詠まれた。
4 秀23 このたびは 古今集 羇旅420   菅家(菅原道真)。 第60代、醍醐天皇御時、藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷となり、配所で亡くなる。

古今集の羇旅歌の掉尾歌は、「いまこんと」(秀22)を詠んだ素性法師の
「手向けにはつづりの袖もきるべきに紅葉に飽ける神や返さむ」(羇旅421)
・手向けには、この私の粗末な衣でも切って幣として捧げる べきですが、紅葉に満ち足りた神様は、受け取っては下さらずにお返しになるでしょうか。

共に朱雀院(宇多上皇)の奈良への旅にて詠まれた。
5 秀98  よのなかは 新勅撰集 羇旅525   鎌倉右大臣(源実朝)。 第84代、順徳天皇御時、甥の公暁に鶴ヶ丘八幡にて襲われ亡くなる。

ちなみに、新勅撰集の羇旅歌は大伴旅人と家持(秀5)の親子で始まります。2首目の家持の歌、
「ふせのうみのおきつしらなみありがよひいやとしのはに見つゝしのばむ」(羇旅495)
・布施の海の沖の白波が寄せては返すように、通い続け、ずっと毎年見ては素晴らしさを感じよう。

「おきつしらなみ」と、後鳥羽院を思い起こさせる言葉が出てきますね。 
阿倍仲麿、小野篁、在原行平の三人は、その後、 それぞれの分野で活躍しましたが、菅原道真と源実朝は非業の最後でした。=上にもどる=


参議篁
秀7(百11)

わたの原
八十島かけて
漕ぎ出でぬと
人には告げよ
海人の釣船
★ 参議篁(小野篁) (802〜852) (古今集 羇旅407)
☆大海原の多くの島々をかけて漕ぎだしたよと、都にいる妻や子供たちに伝えておくれ海人の釣り船よ。

小野篁は832年に遣唐副使を拒否して、嵯峨上皇の怒りをかい隠岐に配流となる。この歌も旧暦12月、現代の暦の年末から2月にかけての時期なので 冬に詠まれた歌である。冬の日本海に漕ぎだすのは暗澹たる心持ちだったと思うが2年後には許されて帰京し、参議、従三位に昇った。  承和の変(842)により道康親王(のちの文徳天皇)が東宮になるとその東宮博士に任じられた。

◎承和の変、淳和上皇の皇子恒貞親王が東宮を排され、仁明天皇の皇子道康親王(文徳天皇)が東宮となった。

遠く離れた流罪地より一日千秋の思いで帰京できる日を待って月を眺めたと思うが、同じ方向を見ながらも、 篁は京の平安京を思ひ、仲麿は奈良の平城京を思っていたでしょうね。
   =上にもどる=
安倍仲麿
百7(秀6)

天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも


猿丸太夫
秀8(百5)

奥山に
もみぢ踏み分け
なく鹿の
声聞くときぞ
秋はきにけり
★ 猿丸大夫 (生没年不詳) (古今集 秋上215 よみ人知らず)
☆山深く黄葉を踏み分けて立ち入ると、妻を求めて鳴く鹿の声が聞こえてきて、秋の悲しさが身に染みることです。

家持の(秀5)「かささぎの」の考証では、奥山を歩くのは鹿でした。視覚、聴覚の対比を楽しみましたが、ここでは孤独な人と解釈してみました。 孤高の老人が世間の噂を跳ね除け、高潔に暮らしながらも世からは逃れられない一抹の不安がにじみ出てくるようです。この世界観は後出の (秀87)「よのなかよ」の俊成の歌に通じるものがありますが、俊成は世に留まりました。

古来、この歌は黄葉を踏み分けるのは人なのか鹿なのか問われてきました。折々に解釈が異なっても良いのではないかと思う。
   =上にもどる=
喜撰法師
百8(秀14)

わが庵は 
都のたつみ
しかぞすむ 
世をうぢ山と
人はいふなり


   
 T.3  = 仮託の歌人たち (猿丸大夫と喜撰法師)・他氏排斥事件 = 

「古今和歌集」の真名序(紀淑望)で、六歌仙の一人、大友黒主について、「大友黒主の歌は、古の猿丸太夫の次なり」と述べています。 しかし、仮名序(紀貫之)では、この一文はありません。真名序と仮名序はどちらが先にできたのか意見の分かれるところです。 淑望が書き足したのか、貫之が省いたか。そこに意味はあるのか。この時代の人たちは、それを承知していたのか。

定家は六歌仙のうち大友黒主だけこの歌集から外してます。(5x1)
           
歌順 初句 出典  六歌仙歌人名
1 秀13 はなのいろは  古今集 春下113  小野小町
2 秀27 ふくからに  古今集 秋下249  文屋康秀 
3 秀10 ちはやぶる  古今集 秋下294  在原業平 
4 秀15 あまつかぜ  古今集 雑上872   僧正遍昭 (良岑宗貞) 
5 秀14 わがいほは  古今集 雑下983  喜撰法師 


T.2において言及した羇旅、離別の歌である(秀7)の参議篁(802〜852)と(秀9)の中納言行平(818〜893) にはさまれた(秀8)の猿丸太夫は、 その時代の人であり、また、このトピックの六歌仙の(秀13)の小野小町と(秀15)の僧正遍昭にはさまれた(秀14)の喜撰法師も、 紀淑望や紀貫之の紀氏の人たちにとって特に公にできない者たちへ鎮魂をこめて仮託したのではないかと思い、 藤原北家による他氏排斥事件などを調べてみました。

事件、変 略伝  
785年
延暦四年
藤原種継暗殺事件 藤原種継は、桓武天皇より長岡京の造宮使に任命されたが、造宮監督中に矢で射られ亡くなった。事件直前に死去していたにも拘らず大伴家持(秀5)は首謀者として官籍から除名された。桓武天皇の皇太弟であった早良親王の廃嫡、配流と憤死にまで発展した。 家持は没後20年以上経過した平城天皇の御時(806年)に恩赦を受けて従三位に復している
810年
大同五年
薬子の変 
(平城太上天皇の変)
桓武天皇が崩御した後、平城天皇が即位(806年)。病弱の原因が叔父の早良親王の祟りなどにあると思い、嵯峨天皇(平城弟)に譲位した。 上皇は、平城京へ遷都しようとしたが失敗し、藤原種継の男(仲成)や女(薬子)が処罰されたり自害したりした。

皇太子だった高岳親王(平城男)は廃され、淳和天皇(嵯峨弟)が立てられた。行平(秀9)、業平(秀10)の父である阿保親王(平城男)も連座して 大宰員外帥へ左遷された。後に許されて824年に京に戻った。

平城法皇は変の後も朝覲を受けるなどの名誉ある待遇と相当の宮廷費を受けた。上皇が挙兵に着手して失敗した例は、こののち346年後の保元の乱(崇徳院(77))までない。
842年
承和九年
承和の変 823年に淳和天皇が即位すると仁明天皇(嵯峨男)が皇太子となった。 833年に、仁明天皇が即位すると恒貞親王(淳和上皇男)が皇太子となった。840年に淳和上皇が崩御し、2年後に嵯峨上皇が崩御すると、仁明天皇と良房妹との皇子(文徳天皇)を即位させたいのではと危惧し、恒貞親王に仕えていた 伴健岑や橘逸勢は阿保親王に相談した。

それが良房を通して仁明天皇の知るところとなり謀反人と断じられた。恒貞親王は廃され、良房の競争相手である同族の藤原氏や大伴氏、橘氏、文室氏など多くの氏が配流となった。

良房は、文徳天皇の外伯父となり、太政大臣(文徳天皇御時)、摂政(清和天皇御時)となった。藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている事件。
866年
貞観八年
応天門の変 清和天皇(文徳天皇男)御時に、応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣・源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言により無罪となった。その後、 密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。伴善男の祖父、大伴継人は、種継暗殺事件の首謀者として処刑されている。伴善男の処罰により、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。

応天門の変で処罰を受けた人の中に、紀夏井と言う人がいる。異母弟の紀豊城が共謀者の一人として逮捕されると、 夏井もこれに連座、肥後守の官職を解かれて土佐国への流罪となった。夏井は文徳天皇から寵遇を受け、また赴任地でも 農民から大変慕われたとのこと。なんの罪もなく、人望のあった夏井の失脚こそが紀氏の中央政権からの没落となった。
901年
昌泰四年
昌泰の変 左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)により醍醐天皇が右大臣菅原道真(秀23)を大宰員外帥として大宰府へ左遷し子供たちも流罪に処した事件。

醍醐天皇の即位当時(897年)、仁明天皇の嫡流子孫である元良親王(20)(陽成天皇男)らを皇位継承者に擁立する動きに強い警戒感を抱いていた宇多法王は、天皇御時に起こった基経との苦々しい阿衡事件(888年)から 藤原時平が外戚の地位を狙っていることにも反発していた。菅原道真を重用していた宇多法王と時平に信頼を寄せていた醍醐天皇の間に亀裂が生じていた。

宇多法皇が道真の娘婿でもある斉世親王を皇太弟に立てようとしているという風説が流れると、醍醐天皇と藤原時平らが政治の主導権を奪還せんとしたのである。時平の讒言を信じた醍醐天皇の宣命によって道真は大宰員外帥に降格された。

923年、罪を許され、従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈られた。

993年、5月に正一位左大臣を贈られ、10月に太政大臣を贈られた。

猿丸大夫(秀8)は、仁明天皇の時代の人と推定すると、承和の変に関わりがあるのでは?真名序で「大友黒主は古の猿丸大夫の次」と言ってます。「おおとも」という音に導かれて、 黒主より前の人である伴健岑(とものこわみね)を猿丸大夫として仮託したのだろうか。大伴氏は、平安初期に淳和天皇の諱(大伴親王避けて伴氏(ともうじ)に改称しました。

伴健岑は、恒貞親王の春宮坊帯刀舎人でした。春宮坊の長は春宮大夫と呼ばれましたが、伴健岑は大夫の役目もになっていたことはないでしょうか。「去っていった麻呂は、大夫であった。」とか...。

古今集には、「物名」(もののな、ぶつな)という部立てがあります。 勅撰集で「物名」の歌がまとめられているのは、古今集の他に藤原公任撰の拾遺抄を基とした拾遺集、俊成撰の千載集、そして、定家撰の新勅撰集では、第二十巻の雑歌五で 物名の歌をいくつかまとめています。

古今集では、詠み人知らずの歌としているのを、公任は三十六歌人で猿丸大夫の歌として取り上げました。俊成は、その三十六歌人の歌人はそのままにして、歌を選び変えましたが、猿丸大夫の歌は変えてません。そして定家も、 この集に猿丸大夫の歌として選びました。

中央政権から外された歌人たちの間で連綿と受け継がれていったものがあるような気がしてます。そういう考え方で、掛詞として、猿丸大夫を読み解いてみました。

また、喜撰法師は都の辰巳、宇治に住んだ人と伝わりますが、本当のことは何も分かっていません。応天門の変での紀氏の没落を考えると、 紀夏井の配流地の土佐は、宇治と扇形に反対の羊申の方向です。もし貫之が夏井を喜撰法師に仮託したとしたら、人が何と言おうとも彼は配流地でしかと住んだのではないかと思います。

木のまより 見ゆるは谷の ほたるかも いさりにあまの 海へ行かも 喜撰法師 (玉葉集 夏404)
京極為兼(定家の曽孫)は、なぜこの歌を撰んだのでしょう。

応天門の変から30数年後に、古今集の真名序を記した紀淑望や仮名序を記した紀貫之は、没落していった自分たちの紀氏を喜撰法師(秀14)に、大伴氏の名を大友黒主を通して猿丸太夫(秀8)に仮託 したのではないでしょうか。

これは、竹取物語のかぐや姫に求婚する5人の貴公子の内、3人は実在の人で、2人はそれとなく実在の人を感じさせながら、暗に藤原氏を批判しようとした意図を込めたのと同じような組み立てでしょうか。もしそうであるなら、 貫之は、排斥された各氏の鎮魂を仮名序に込めた後に、竹取物語を書いて藤原氏の祖である不比等を風刺したのだろうか。
=上にもどる=


中納言行平
秀9(百16)

立ち別れ 
いなばの山の
 峰に生ふる
 まつとし聞かば 
今帰り来む
★ 在原行平 (818〜893) (古今集 離別365)
☆今、お別れして因幡の国へ旅立ちますが、 その因幡にある稲葉山に生えている松のように私を待っていると聞いたら、すぐにでも帰ってきます。

文徳天皇の時代(850−858)に一時須磨に蟄居している時に詠んだ歌。
わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ (古今集 雑下 962)
・もしもまれに私の消息を尋ねる人がいたならば、須磨の浦で塩をとるために海藻にかけた海の水さながらに涙を流しながら嘆いていると答えてください。

行平は、平城天皇の皇子阿保親王の子。父阿保親王は、T.3「薬子の変」(810)に連座して大宰権帥として左遷されたが平城天皇崩御の後に嵯峨天皇により 帰京を許された(824)。行平は、826年に異母弟の業平と共に在原姓を与えられ臣籍降下した。

881年在原氏の学問所として奨学院を設立し、880年代中ごろに現存最古の在民部卿家歌合を主催した。 行平は業平とは全く違った無骨な生き方をしたが、政治の頂点に立つことはできないままの人生でした。

(秀7)小野篁は六歌仙の時代より前の時代に活躍し、(秀9)行平は、六歌仙と同じ時代であった。小野篁ともども和漢兼才であった。 悲劇の人のイメージがあるが、官位は順調に昇進し官僚型であったようだ。

承和の変、応天門の変などによる藤原氏の他氏排斥事件と同様に、文徳天皇の第一子惟喬親王(小野宮)は、 母(静子)が紀氏出のため後ろ盾が弱く、藤原良房に太刀打ちできず春宮になれませんでした。

紀静子(?〜866)は、紀名虎の娘で三条町と呼ばれた。姉の種子は仁明天皇の更衣。妹は敏行(秀11)の母。 兄に有常がいる。その有常の娘二人が業平と敏行の妻となっている。
=上にもどる=
小野小町
百9(秀13)

花の色は
 うつりにけりな
 いたづらに
 わが身世にふる
 ながめせしまに


 
 T.4  = 仁明・文徳朝の女御、更衣、宮人 =   「源氏物語」(桐壺)桐壺の女御のモデルたちか?
仁明天皇
(810〜833-850)

順子(808-871)藤原冬嗣女
順子の異母兄弟に良門がいる。

「承和の変」の後に即位する道康親王(文徳天皇)の母
藤原総継
(?〜?)
女御・沢子
(?〜839)
 第三皇子、時康親王(秀18)光孝天皇(830〜884-887)
 ・文徳、清和、陽成の後に即位する。

 第四皇子、人康親王(831〜872)
 ・(秀16)の猿丸大夫か?
滋野貞主
(785〜852)
女御・縄子
(?〜?)
 第五皇子、本康親王(?-901) 八条宮と称した
 香の調合に優れ、「源氏物語」(梅枝)において紫の上が「八条の式部卿の御方を伝へて」とある。

孫娘の褒子が京極御息所となり、(20)元良親王が「わびぬれば」の歌を詠む。
紀名虎
(?〜847)
更衣・種子(?〜869) 第七皇子、常康親王(雲林院宮)(?〜869)
雲林院はのちに(秀15)僧正遍昭(816〜890)に譲る
文徳天皇
(827〜850-858)

藤原明子(828-900)藤原良房女
良房は順子と同母兄弟

第四皇子の惟仁親王(清和天皇)が即位する。
滋野貞主
(785〜852)
宮人・奥子
(?〜?)
第三皇子、惟彦親王(850-883)
紀名虎
(?〜847)
更衣・静子(三条町)
(?〜866)
第一皇子惟喬親王(小野宮)(844〜897)
(秀10)業平が仕える
=上にもどる=


在原業平朝臣
秀10(百17)

ちはやぶる 
神代も聞かず 
竜田川 
からくれなゐに
 水くくるとは
★ 在原業平朝臣 (825〜880) 六歌仙 (古今集 秋下294)
☆神代にも聞いたことがない。竜田川を真っ赤な紅葉が川面を敷き詰め、川の水はその下を潜っているとは。

清和天皇の女御となった藤原基経の妹である高子が御息所(陽成院の東宮時代)と呼ばれていた頃に、御屏風に描かれた紅葉の絵を題にして詠んだものである。 業平は、文徳天皇の時代には官位も上がらず不遇であったが陽成天皇の代には蔵人頭になる。しかしその翌年に亡くなった。

行平と異母兄弟。在五中将、在中将と呼ばれた。

前項(秀9)で述べた惟喬親王(844〜897)に仕えていた。業平は、「伊勢物語」の主人公と言われたりしている。

代表歌に、

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし  (古今集 春上 53)

月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして  (古今集 恋五 747)(伊勢物語 四段)

人知れぬ 我が通ひ路の 関守は 宵々ごとに うちも寝ななむ (古今集 恋三 632)(伊勢物語 五段)
・人に知られないで密かに私が通う路の番人は、夜ごと居眠りでもしててほしいものだ。

五句の「みすくくるとは」は、古来「括る」のか「潜る」のか問われてきているが、定家としては潜るの方らしい。 「みす」も「水」より「御簾」として、逢瀬をかさねた人がもう手の届かない所へ行ってしまった、と解釈した方が物語的に ドラマチックだ。伊勢に行ったり、東国に行ったり、物語は色々残るが実像はどのようであったのか。
=上にもどる=
蝉丸 
百10(秀16)

これやこの 
行くも帰るも
 別れては 
知るも知らぬも
 逢坂の関 

         
 T.5  = 伊勢物語 =
業平らしき人を主人公として,歌を中心とする短い物語を元服の段から死に至るまでの一代記風に綴っています。
平安初期に成立した歌物語。作者は分かりません。 書名の文献上の初見は「源氏物語」(絵合の巻)にあり、「在五が物語」(在五は、在原氏の第五子である業平を指す)とも呼ばれてます。定家本によれば全125段からなり、「昔、男ありけり、」と始まることが多いです。
紀氏との関わりの多い人物が多く登場する事でも知られていて、在原業平は紀有常(実名で登場)の娘を妻としているし、その有常の妹が惟喬親王の母です。 何らかの意図で藤原氏との政争に敗れても、優美であったという紀氏の有り様を美しく描いているとも考えられるそうです。作者は紀貫之か?
「伊勢物語」の初段に「みちのくの」の歌が出ています。「古今集」と「百人秀歌」での四句は、「乱れむとおもふ」ですが、「伊勢物語」と「百ト一首」では 「乱れそめにし」となっています。定家は、晩年、「百ト一首」に自分史を載せた時に、14歳で元服した?ことに合わせて、初々しさだけでなく、伊勢物語の業平を意識してたのかな。
敗れてもなお美しい有り様と言えば、この60年後くらいに書かれた清少納言の「枕草子」に通じるものがありますね。  =上にもどる= 
      

藤原敏行朝臣
秀11(百18)

すみの江の
 岸による波
 よるさへや
 夢の通ひ路
 人目よくらむ
★ 藤原敏行朝臣 (830?〜901?) (古今集 恋二559)
☆住ノ江の岸に寄る波のように寄る部屋へ通う路を夢の中でさえ人目を避けようとしておられるのですか。

 藤原南家の出であり書家として有名。清和、陽成、光孝、宇多、醍醐朝に仕える。小野道風(894〜967)が空海とともに古今最高の能書家として名を挙げた。 しかし現存する書は、神護寺鐘銘だけである。因みに、小野道風は参議篁(秀7)の孫である。

敏行には次の有名な歌がある。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる (古今集 秋上169)
・秋が来たと目にははっきりと見えないけれど、風の音にハッとその到来に気がついたのだった。

敏行は、「宇治拾遺物語」によれば、多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りを書いたが、魚を食するなど、不浄の身のままで 書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたという。また、亡くなった直後に生き返り自らお経を書いて、再び絶命したという伝説もあったりる。

参議篁も夜になると地獄に行って閻魔大王の補佐をしたり、地獄に落ちた者を助けたなどと物語になっているが、どちらも地獄の話が出てくるのは それだけ個性が強かったのか。

 藤原敏行朝臣の身まかりにける時に、よみてかの家につかはしける 紀友則(秀26) (古今集 哀傷833) 
寝ても見ゆ 寝でもみえけり おほかたは うつせみの世ぞ 夢にはありける
・寝ていても目覚めていても亡き人の姿が見える。夢と現実との差がないということは、大体のところ、現世の方こそ夢なのでしょう。

古今集において、藤原氏の名がつくものは21人いるが、敏行と興風(秀31)の二人は19首、17首と断トツに多く、 ほかは4首以下である。紀氏に近い敏行の藤原南家と、興風の藤原京家は藤原四家の中では滅びていく家でした。
   =上にもどる=
参議篁(小野篁) 
百11(秀7)

わたの原 
八十島かけて 
こぎ出でぬと
 人には告げよ
 あまのつり舟


陽成院御製
秀12(百13)

筑波嶺の
峰より落つる
みなの川
恋ぞつもりて
淵となりける
★ 陽成院御製 (869〜876ー884〜949) (後撰集 恋三776)
☆筑波山の嶺から流れ落ちてくるみなの川の水が積もり積もって淵となるように、あなたへの恋も淵のように深い思いになってしまった。

「釣殿のみこ」に送った歌。「釣殿のみこ」は光孝天皇の皇女綏子(すいし)内親王のことで、光孝天皇は最初、子供たちをみな臣籍降下させたが 、同母の兄、源定省が親王宣下を受け、宇多天皇として即位(887)すると内親王に戻った。陽成院は8歳で即位したが、16歳の時に精神の病によって乱行が多いことで退位させられ、 その後、五代の天皇の代(光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上)を65年間上皇として過ごした。

「天つ風」の歌と合わせてみると、若かりし頃美しい乙女に一途に恋する男の情感を初々しく感じとれます。 陽成院が恋した綏子内親王は天女のように美しい人だったのでしょうね。

ところで「百人秀歌」には43首の恋の歌があるが各勅撰集にはそれぞれ詞書が添えられています。71番以降の恋の部立の歌は、 すべて歌合でのものや恋の心として詠ったものばかりですが、それ以前の歌には実際の臨場感あふれるものが含まれています。 多くは恨み、歎き、破綻に関するものです。その中で唯一成就しているのが、この陽成院と綏子内親王です。
   =上にもどる=
僧正遍昭 
百12(秀15)

天つ風
雲の通い路
吹き閉ぢよ
をとめの姿
しばしとどめむ


小野小町
秀13(百9)

花の色は
うつりにけりな
いたづらに
わが身世にふる
ながめせしまに
★ 小野小町 (9世紀中頃) 六歌仙 (古今集 春下113)
☆美しい藤の花は色あせってしまった。春の長雨が降っている間に。日々無為に過ごしている間に私の容色も衰えてしまった。

小野小町は、生涯誰とも添い遂げなかったようで、浮き草のような時勢に流されてしまったような人生だったのかもしれません。 美女の代名詞のように言われています。六歌仙の一人ですから、 文徳天皇の御時に何か関わっているのかもしれませんが、仁明、文徳、清和の代の歌人であること以外何も分かっていません。

色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける (古今集恋五797)
・(花や葉は色に見えて枯れていくのが分かるけれど、)はっきりと見えずにうつろふものは世の中の人の心の花だったのですね。

貫之が、仮名序で小野小町のことを、「しみじみと身にしみるような歌であるが、 強くはない。いわば、美しい女が病を得た風情に似てる。強くないのは、女の歌だからであろう。」と述べています。

陽成院の歌は好対照ですね。深い思いが一気に流れ落ちて淵になってます。

「花」と言えば「桜」ですが、この時代もそうだったのでしょうか?(秀26)の「しづ心なく花の散るらむ」や(秀101)の 「花さそふ嵐の庭」のように慌ただしく散っていくのが桜です。

しかし、これは眺めているのです。眺めている間に容色が衰えていく美しい花と言えば藤の花ではないでしょうか。 この歌集が定家によって編まれていることを根底に置くと、源氏物語の逸話となるような歌人や歌がある中で、藤壺の女御に関する ことがあっても良いと思っています。
   =上にもどる=
陽成院
百13(秀12)

筑波嶺の
峰より落つる
みなの川
恋ぞつもりて
淵となりける


 

 T.6  =式子内親王と定家 (恋の部立て)=

「百人秀歌と百ト一首」のサイトにおいて、俊頼(74)の二つの歌が両集をつなげている、と述べました。

「定家略年譜」のサイトで、後堀河院より勅撰集編纂のご下命を賜った71歳「ゆうされば」(71)からの31首はそれまでと また違った意図をもって並べたと思われます、とも言及しました。

この「百人秀歌の歌人たち」を書き始めて<秀13>まできてみると、43首の恋の部立てに入っている歌の詞書が気になり始めました。 そこでまず、「百人秀歌」より43首と「百ト一首」より1首の恋の部立てにある歌を書き出してみます。

  ● 恋の部立の歌、「百人秀歌」より43首、「百ト一首」より1首の詞書 


番号 初句    詞書と註
3 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
長々し夜をひとりかも寝む
拾遺集  巻134 恋三 778 「題しらず 人麿」
秀12 筑波嶺の峰より落つるみなの川 
恋ぞつもりて淵となりぬる
後撰集  巻11 恋三 776 「釣殿のみこに遣はしける 陽成院御製」 釣殿のみことは、綏子(すいし)内親王。  光孝天皇(15)の第三皇女。884年源朝臣姓をあたえられたが,同母兄の宇多天皇即位後,891年内親王となる。陽成妃となる。925年死去。
秀17 陸奥のしのぶもぢずりたれゆゑに 
乱れそめにしわれならなくに(14)
古今集  巻14 恋四 724 「題しらず 河原左大臣」
19 難波潟短き蘆のふしの間も 
逢はでこの世をすぐしてよとや
新古今集  巻11 恋一 1049 「題しらず 伊勢」
20 わびぬれば今はたおなじ難波なる 
みをつくしても逢はむとぞ思ふ
後撰集  巻13 恋五 960 「事いできてのちに京極の御息所につかはしける 元良親王」
京極の御息所とは、 時平の娘褒子(ほうし)。宇多天皇の女御 宇多天皇(867‐887‐897‐931) 910年代?の事件か。この歌は「拾遺集 巻12 恋二 766 題しらず」として重複している
秀21 すみの江の岸による波よるさへや 
夢の通ひ路人目よくらむ
古今集  巻12 恋二 559 「寛平の御時きさいの宮の歌合の歌 藤原敏行朝臣」 (寛平の御時 889〜898年)
秀22 今来むといひしばかりに長月の 
有明の月を待ち出でつるかな
古今集  巻43 恋四 691 「題しらず 素性法師」
秀24 有明のつれなく見えし別れより 
暁ばかり憂きものはなし
古今集  巻13 恋三 625 「題しらず 壬生忠岑」
秀35 名にし負はば逢坂山のさねかづら 
人に知られでくるよしもがな
後撰集  巻11 恋一 700 「女のもとにつかはしける 三条右大臣」
秀36 みかの原わきて流るるいづみ川 
いつ見きとてか恋しかるらむ
新古今集  巻11 恋一 996 「題しらず 中納言兼輔」
秀37 浅茅生の小野の篠原しのぶれど
あまりてなどか人の恋しき
後撰集  巻9 恋一 578 「人につかはしける 源ひとしの朝臣」
秀39 忘らるる身をば思はずちかひてし 
人の命の惜しくもあるかな
拾遺集  巻14 恋四 870 「題しらず 右近」
秀40 逢ひ見てののちの心にくらぶれば 
昔はものも思はざりけり
拾遺集  巻12 恋二 710 「題しらず 権中納言敦忠」
秀41 しのぶれど色に出でにけりわが恋は 
ものや思ふと人の問ふまで
拾遺集  巻11 恋一 662  「天暦の御時の歌合 平兼盛」  天徳4年3月30日内裏歌合960年
秀42 恋すてふわが名はまだき立ちにけり 
人知れずこそ思ひそめしか
拾遺集  巻11 恋一 661 「天暦の御時の歌合 壬生忠見」960年
秀43 あはれともいふべき人は思ほえで 
身のいたづらになりぬべきかな
拾遺集  巻15 恋五 950 「物いひ侍りける女の、後につれなく侍りて更にあはず侍りければ 一条摂政」 物語「一条摂政御集」
44 逢ふこと絶えてしなくはなかなかに 
人をも身をも恨みざらまし
拾遺集  巻11 恋一 678 「天暦の御時歌合に 中納言朝忠」
秀45 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 
末の松山波越さじとは
後拾遺集  巻14 恋四 770 「心変り侍りける女に、人に代りて 清原元輔」
秀46 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ 
くだけてものを思ふころかな
詞花集  巻7 恋上 31  「冷泉院、春宮と申しける時、百首の歌奉りけるによめる源重之」967年以前に成立
秀47 由良のとを渡る舟人かぢを絶え 
行く方も知らぬ恋の道かな
新古今集  巻11 恋一 1071 「題しらず 曾禰好忠」
秀48 みかきもり衛士のたく火の夜は燃え 
昼は消えつつものをこそ思へ
詞花集  巻7 恋上 225 「題しらず 大中臣能宣朝臣」
秀49 君がためおしからざりし命さへ 
長くもがなと思ひけるかな
後拾遺集  巻12 恋二 669 「女のもとより帰りて遣はしける 少将藤原義孝」
秀50 かくとだにえやはいぶきのさしも草 
さしも知らじな燃ゆる思ひを
後拾遺集  巻11 恋一 612 「女にはじめてつかはしける 藤原実方朝臣」
秀51 明けぬれば暮るるものとは知りながら 
なを恨めしき朝ぼらけかな
後拾遺集  巻12 恋二 672 「女の元より雪ふり侍りける日か減りて塚はしける藤原道信朝臣」
秀55 忘れじの行く末まではかたければ 
今日をかぎりの命ともがな
新古今集  巻13 恋三 1194 「中関白かよひそめ侍りけるころ 儀同三司母」中関白(藤原道隆)
秀56 嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は 
いかに久しきものとかは知る
拾遺集  巻14 恋四 912 「入道摂政まかりたるけるに、門を遅くあけければ、立ちわづらひぬといひ入れて 侍りければ 右大将道綱母」入道摂政(藤原兼家)
秀61 あらざらむこの世のほかの思ひ出に 
今ひとたびの逢ふこともがな
後拾遺集  巻13 恋三 763 「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける 和泉式部」
秀62 有馬山猪名の笹原風吹けば 
いでそよ人を忘れやはする
後拾遺集  巻12 恋二 709 「かれがれなる男の、おぼつかなく、などいひたるによめる 大弐三位」
秀63 やすらはで寝なましものをさ夜ふけて 
かたぶくまでの月を見しかな
後拾遺集  巻12 恋二 680  「中の関白、少将に侍りける時、はらからなる人に物いひわたり侍りけり、  たのめて来ざりけるつとめて、 女にかはりてよめる 赤染衛門」 中の関白(藤原道隆)、少将の頃(974年〜977年)
秀68 今はただ思ひ絶えなむとばかりを 
人づてならでいふよしもがな
後拾遺集  巻13 恋三 750 「伊勢の斎宮わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、 おほやけも聞こしめて、守りめなどつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければよみ侍りけり 左京大夫道雅」1017年のこと
秀74 音に聞く高師の浜のあだ波は 
かけじや袖のぬれもこそすれ
金葉集  巻8 恋下 再奏本469 三奏本464 「堀河院御時艶書合によめる」 1102年  この歌は、「人知れぬ思ひありその浦風に波のよるこそいはまほしけれ 中納言俊忠」の返歌 俊忠は定家の祖父
百74 憂かりける人を初瀬の山おろしよ
 激しかれとは祈らぬものを
千載集  巻12 恋二 708 「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時、祈れどもあはざる 恋といへる心をよめる 源俊頼朝臣」
秀75 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 
恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ(百65)
後拾遺集  巻14 恋四 815 「永承6年内裏歌合に 相模」 1051年
77 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の 
われても末にあはむとぞ思ふ
詞花集  巻7 恋上 229  「題しらず 新院」 久安百首
秀78 長からむ心も知らず黒髪の 
乱れて今朝はものをこそ思へ
千載集  巻13 恋三 802 「百首の歌奉りける時、恋の心をよめる 待賢門院堀河」 久安百首
秀83 思ひわびさても命はあるものを 
憂きにたへぬは涙なりけり
千載集  巻13 恋三 818 「題しらず 道因法師」
85 夜もすがらもの思ふころは明けやらで 
閨のひまさへつれなかりけり
千載集  巻12 恋二 766 「恋の歌とてよめる 俊恵法師」
秀88 嘆けとて月やはものを思はする 
かこち顔なるわが涙かな
千載集  巻15 恋五 929 「月前恋といへる心をよめる 円位法師」 円位法師(西行)
秀89 難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ 
みをつくしてや恋ひわたるべき
千載集  巻13 恋三 803 「摂政 右大臣の時の家の歌合に旅宿逢恋といへる心をよめる 皇家門院別当」
秀90 きのくにのゆらのみさきに拾ふてふ
 たまさかにだに逢い見てしかな
新古今集  巻11 恋一 1075 「権中納言長方」
秀91 見せばやな雄島のあまの袖だにも
 ぬれにぞぬれし色はかはらず
千載集  巻14 恋四 886 「歌合し侍りけるとき恋の歌とてよめる 殷富門院太輔」
秀92 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 
忍ぶることの弱りもぞする
新古今集  巻11 恋一 1034 「百首の歌の中に忍恋を 式子内親王」
秀94 わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 
人こそ知らねかわく間もなし
千載集  巻12 恋二 760 「寄石恋といへる心を 二条院讃岐」
秀100 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
 焼くや藻塩の身もこがれつつ
新勅撰集  巻13 恋三 849 「建保六年内裏の歌合、恋の歌 権中納言定家」 1216年
 
   百人秀歌の71番から101番の恋の歌 13首
71 72 73 74 おとにきく
金葉集
 恋
75 うらみわび後拾遺集
 恋
76 77 せをはやみ詞花集
 恋
78 ながからん千載集
 恋
79 80
81
82
83 おもひわび千載集
 恋
84
85 よもすがら千載集
 恋
86
87
88 なげけとて千載集
 恋
89 なにはへの千載集
 恋
90 きのくにの新古今集
 恋
91 みせばやな千載集
92 たまのをよ新古今集
 恋
93
94 わがそでは千載集
 恋
95 96
97
98
99 100こぬひとを新勅撰集
 恋
101
 
   百ト一首の71番から101番の恋の歌 12首     
71
72 おとにきく
金葉集
73 74 うかりける千載集
 恋
75 76
77 せをはやみ詞花集
 恋
78 79 80 ながからん千載集
 恋
81 82 おもひわび千載集
 恋
83 84 85 よもすがら千載集
 恋
86 なげけとて千載集
 恋
87 88 なにはへの千載集
 恋
89 たまのをよ
新古今集
 恋
90 みせばやな千載集
 恋
91 92 わがそでは千載集
 恋
93 94 95 96 97 こぬひとを新勅撰集
 恋
98 99 100
101
 
上の「百ト一首」の71番からの図を見た時、男女別で見てみると、式子内親王と定家が浮かび上がってきました。
≪女流歌人≫
1金葉集「おとにきく」(72) 祐子内親王紀伊
2千載集「ながからん」(80) 待賢門院堀河
3千載集「なにはえの」(88) 皇嘉門院別当
4千載集「みせばやな」(90) 殷富門院大輔
5千載集「わがそでは」(92) 二条院讃岐
★新古今集「たまのをよ」(89) 式子内親王

≪男性歌人≫
1詞花集「せをはやみ」(77) 崇徳院
2千載集「うかりける」(74) 源俊頼朝臣
3千載集「おもいわび」(82) 道因法師
4千載集「よもすがら」(85) 俊恵法師
5千載集「なげけとて」(86) 西行法師
★新勅撰集「こぬひとを」(97) 権中納言定家
 

定家は、この歌集の中で二人を昇華させたのです。業平(17)や元良親王(20)のように斎宮や御息所のもとへ通ったりする ことは無かったでしょう。業平のような生き方に憧れたかもしれませんし、式子内親王を歌人として認めていたので 師弟愛のようなものもあったかもしれません。定家は、色々な思ひを「百ト一首」の中に収めることによって形式の中の永遠の愛にしてしまったのです。

‐‐‐
「おとにきく」(72)以降、予定された催しのために十分な準備で練り上げられたもの、生活の中から奔り出たのではなく芸術的意図で 構成されたものである。前半の歌に比べれば芸術的完成度は高いだろう。しかし一首一首に作者の個性がけざやかに躍動するおもしろさは、もはや消え失せた。 それは王朝の衰退につれて女性の役割が後景に退き、生き方がつつましさと息苦しさを加えていく中世への推移を、ごく自然に反映している。 (百人一首の作者たち 目崎徳衛 角川ソフィア文庫 参照)
   =上にもどる=


喜撰法師
秀14(百8)

わが庵は
 都のたつみ
 しかぞすむ
 世をうぢ山と
 人はいふなり
★ 喜撰法師 (9世紀中頃) 六歌仙 (古今集 雑下983)
☆わたしの庵は都の東南にあり鹿も住んでいますが、このように自分らしく生きてます。でも人は私が憂しとして世を過ごしていると言うんです。

喜撰法師も六歌仙の一人ですが、古今集と玉葉集に一首ずつ残すのみです。先の「T.3 仮託の歌人たち(猿丸大夫と喜撰法師)」で述べましたように、土佐に流された紀夏井を仮託していると しましたが、世の不条理さに心は乱れてしまったが、思うに任せぬ生涯をそれなりに生き切ったのではないでしょうか。    =上にもどる=
河原左大臣
百14(秀17)

陸奥の
 しのぶもぢずり
 たれゆゑに
 乱れそめにし
 われならなくに


僧正遍昭
秀15(百12)

天つ風
 雲の通い路
 吹き閉ぢよ
 をとめの姿
 しばしとどめむ
★ 僧正遍昭 (816〜890) 六歌仙 (古今集 雑上872 良岑宗貞)
☆五節の舞の乙女たちのあでやかさに、舞も終わりに近づいてきて名残惜しくなり、その気持ちを乙女を天女に見立てて空を吹く風よ、 雲間の通路を吹き閉じて、しばし乙女を此処に留めておきたい。

なんて洒脱な歌いっぷりでしょう。五節の舞の起源は、天武天皇が吉野に行幸のおり、天女が天から下って舞を舞ったという伝説に基づいている。 この二つの歌を合わせると、羽衣、風、雲、雪、と白を基調とし、秋の新嘗祭の祝から冬に移り、今また早春へと初々しく情景が変わっている。

この歌は出家する前の良岑宗貞の時代のものです。 桓武天皇の孫であり、父は天皇の皇子良岑安世です。仁明天皇の代が終わる850年に35歳で出家した。

光孝天皇は僧正遍昭の70歳の賀を主催している(885)。この宴が後に後鳥羽院(百99)による藤原俊成(秀87)の90歳賀の基となったのです。

仁和の御時、僧正遍昭に七十の賀たまひける時の御歌
かくしつつ とにもかくにも ながらへて 君が八千代に あふよしもがな  (古今集 賀 347)
・このようにこれからもあなたの賀宴を幾度も催しながら、どうにかこうにか生き長らえて、あなたの八千代の齢に巡り会いたいものだ。 

ところで、「雲の通い路」、と言う路の他に「夢の通い路」(秀11)と言う非現実的な路がありますが、 現実的な路として「いくのの道」(秀66)があります。これらの「百ト一首」での番号は12+18+60=90(5X18)となりますね。
=上にもどる=
光孝天皇
百15(秀18)

君がため
 春の野に出でて
 若菜つむ
 わが衣手に
 雪は降りつつ


蝉丸
秀16(百10)

これやこの
 行くも帰るも
 別れつつ
 知るも知らぬも
 逢坂の関
★ 蝉丸 (生没年不詳) (後撰集 雑一1089)
☆これがまあ、京を出て東国へ行く人も、反対に京へ戻る人も、そしてお互いに知っている人も知らない人も、別れてはまた逢う、 あの有名な逢坂の関なのですね。

蝉丸のことはよく分かっていません。逢坂の関辺りに住んだ隠者らしく、琵琶法師だったらしい。

この歌は、<秀10>で、業平の「ちはやぶる」と組んでおり、ここでは兄の行平と組んでます。弟は東へ行き、 兄は西に行ってますね。業平は「源氏物語」の光源氏のモデルの一人とも言われ、また行平の須磨での蟄居は「源氏物語」須磨の巻の話の元になったと言われてます。

津の国すまといふ所に侍りける時よみ侍りける 中納言行平
旅人は 袂すゞしく なりにけり 関吹き越ゆる 須磨の浦波 (続古今集 羈旅 868)  
・袂に吹き込んできた風の涼しさにもう秋になってしまったと感じる。関所を吹き越えてゆく須磨の浦の風は自由で良いなあ。 旅人(行平)も京へ戻りたいと思うのでした。 

「関」の歌が3首、逢坂の関2首と須磨の関1首があります。「これやこの」(秀16)、「よをこめて」(秀60)、 「あはじしま」(秀81))です。これらの「百ト一首」の歌番号を合わせると10+62+78=150 (5X30)となりますが...。 =上にもどる=
中納言行平
百16(秀9)

立ち別れ
 いなばの山の
 峰に生ふる
 まつとし聞かば
 今帰り来む


         
 T.7  = 蝉丸 =
秀16の蝉丸は、秀15の僧正遍昭(816〜890)と秀17の河原左大臣(源融)(822〜895)のあいだにいる。 猿丸大夫と喜撰法師の時の例で考えると、蝉丸もこの時代の人ではないかと思うのですが喜撰法師や猿丸大夫のような仮託の人ではなかったと思います。 盲目の琵琶の名手として、仁明天皇の第四皇子である人康(さねやす)親王がいます。光孝天皇(830〜887)は、同母兄です。

世の中は とてもかくても 同じこと 宮も藁屋も はてしなければ (新古今集 雑下掉尾歌1851 蝉丸 )
・世の中はどの様に過ごしても所詮同じことです。素晴らしい宮殿であっても、みすぼらしい藁屋であっても、どのように住んでいても際限がないのですから。
人康(さねやす)親王(831〜872)。 仁明天皇の第四皇子。

859年に出家。 法名は法性。山科に住む。 隠棲理由の病気は両目を患ったためか?
当道において、親王は琵琶の名手。

当道座とは、中世から近世にかけて日本に存在した男性盲人の自治的互助組織。
のちの世には、琵琶法師の祖とされて、毎年,琵琶法師の最高位の人たちが集まって霊を慰めた。
946年?に創建された蝉丸神社の主祭神の蝉丸大神は、音曲芸道の祖神と仰がれた。

諸芸能の生業者に崇敬され、興業には当神社発行の免許が必要とされた。
逢坂の関の辺りに住む盲目の琵琶法師としての蝉丸のイメージが作られていったのか。「今昔物語」での敦実親王(宇多天皇皇子)の琵琶の名人であった雑色が、逢坂山に住んでおり、管絃の名人であった源博雅(918-980)が通い詰めた話や 醍醐天皇の皇子であるとか、「平家物語」、「能」、「人形浄瑠璃」などに取りあげられている。

話は変わるが、人康親王の娘は、藤原基経との間に、時平、仲平、忠平を儲けている。また娘の穏子は醍醐天皇中宮となり、朱雀天皇、村上天皇の生母となった。 =上にもどる=
   


河原左大臣
秀17(百14)

陸奥の
 しのぶもぢずり
 たれゆゑに
 乱れむとおもふ
 われならなくに
★ 河原左大臣(源融) (822〜895) (古今集 恋四724)
☆あの陸奥で作られるしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心は乱れに乱れているが、誰のせいなんでしょう。 誰でもないあなたのために乱れているんですよ。

(秀10)では、竜田川は関を潜るように紅葉の下を潜っていましたが、ここでは、乱れ模様に呼応して括り染めの方が良いですね。 (秀8)の奥山に紅葉を踏み分けるのは人か鹿か...?のように、解釈はその時の状況に応じて多様性がある方が幅が広がって良いと思います。

この歌と業平が組み合わさると「伊勢物語」初段ですね。昔男の「初冠」を終えた後の話ですが、物語では「乱れそめにし」となっています。 「百ト一首」と同じです。「百人秀歌」は、古今集から撰んだということでしょうか。

源融は、陸奥の塩釜を模して、難波から海水を運び込んで塩を焼かせたり、屋敷に幽霊なって出てきたり。 業平も禁じられた恋に走ったり、(秀9)の行平も須磨に蟄居したり、この三人は、「源氏物語」の中で生き続けています。 そして小野小町は、源氏物語の最初の「桐壺」の藤壺宮と最後を飾る「夢の浮橋」の浮舟のモデルのように感じたり。

源融は、「源氏物語」の六条の屋敷のモデルとなったと言われている鴨川の東六条辺りに河原院という豪邸に住んでいました。宇治にあった別邸は、後に平等院になっています。 嵯峨天皇の皇子で臣籍降下してます。

陽成院が廃位(884)され、藤原基経が、次の天皇を決める座において、自分も天皇筋に近いと申し立てるも、 一度臣籍降下したものが復位した前例はないと却下されました。 御簾は潜れなかったのです。乱れ模様に括られました。新天皇は、次の<秀18>の光孝天皇でした。
=上にもどる=
在原業平朝臣
百17(秀10)

ちはやぶる
 神代も聞かず
 竜田川
 からくれなゐに
 水くくるとは


光孝天皇御製
秀18(百15)

君がため
 春の野に出でて
 若菜つむ
 わが衣手に
 雪は降りつつ
★光孝天皇御製 (830〜884〜887) (古今集 春上21)
☆あなたのために春の野に出でて若菜を摘んでいます。そんな私の袖に雪が降りかかっていますよ。

 若菜摘みの歌は女性の歌が多いので、この歌は女性の立場から詠んだものかも。 あなたは夢の中でも人目を避けようとするのですか。どちらの歌も女性の立場で詠んだ歌ですよね。

 光孝天皇は、仁明天皇の皇子。陽成天皇の退位後、藤原基経によって55歳で即位した。基経とは母親同士が姉妹(沢子と乙春)なので従兄弟同士。基経が政治を 取り仕切り初の関白となった。宮中行事の再興に努め、和歌隆興の祖となる。勅願寺建立を計画したが実現を見ないまま没した。跡をついだ宇多天皇が 仁和寺を創建した。

 「すみの江の」の歌は、「寛平の御時きさいの宮の歌合」の時に詠われたものです。つまり光孝天皇の女御の班子女王(833-900)主催の歌合の歌。 寛平御時なので、宇多天皇の母とすべきか。実際は宇多天皇が企画したもの(889年頃?)。行平の現存最古の「在民部卿家歌合」(880年頃?)の次に古い歌合とされている。

 参加したのは、藤原敏行(秀11)、伊勢(19)、源宗于(秀21)、素性法師(秀22)、壬生忠岑(秀24)、凡河内躬恒(秀25)、紀友則(秀26),紀貫之(秀28)、坂上是則(秀29)、大江千里(秀30)、 藤原興風(秀31)、文屋朝康(秀38)、在原棟梁(業平男)、在原元方(棟梁男)など。次代の醍醐天皇の勅命による「古今和歌集」(905年)の撰者が揃ってますね。
=上にもどる=
藤原敏行朝臣
百18(秀11)

すみの江の
 岸による波
 よるさへや
 夢の通ひ路
 人目よくらむ


   
        

 T.8   = 是貞親王家歌合・寛平御時后宮歌合・新撰万葉集 =

是貞親王(光孝天皇第二皇子、母は班子女王)は、「新撰万葉集」の編纂に先立って宇多天皇(光孝天皇第三皇子、母は班子女王)より託されて、その元となる「是貞親王家歌合」の撰定を行っている。現存してるのは、秋歌71首。

「寛平御時后宮歌合」は(889年〜893年)、春、夏、秋、冬、恋の5題を各20番、あわせて100番200首という大規模なものであるが、歌合行事はなく、撰歌合(せんかあわせ)であったといわれる。そうでないと、「おくやまに」を詠んだ歌人が其処にいたことになります。 現存しているのは、193首。 「是貞親王家歌合」とともに、「新撰万葉集」に多数入集して、「古今和歌集」の成立の前提となったものである。

「新撰万葉集」は、菅原道真撰と言われている、和歌の漢詩訳集である。上・下2巻。序によれば,成立は,上巻893年(寛平5)。「菅家万葉集(かんけまんようしゆう)」とも言われる。現存しているのは、上巻が237首。

これらの歌合、新撰万葉集、古今集の詞書などと、この「百人秀歌」の入首歌を照らし合わせると関係するものが5首(5X1)ありました。

初句 歌人名   出典   歌合、新撰万葉集、古今集の詞書と、この101首の歌集の関係
1 秀11 すみの江の 藤原敏行  古今集 恋二559   詞書どおり「寛平御時后宮歌合」の(186)に初句が、「すみよしの」としてあります。 
2 秀30 つきみれば 大江千里 古今集 秋上193   詞書どおり「是貞親王家歌合」にあります。大江家は菅原家と同じく漢学者の家系です。
3 秀8 おくやまに よみ人しらず  古今集 秋上215  「是貞親王家歌合」にある筈なんですが有りません。「寛平御時后宮歌合」(82)と「新撰万葉集」(113)にはあります。
4 秀27 ふくからに 文屋康秀 古今集 秋下249   「是貞親王家歌合」にある筈なんですが有りません。「寛平御時后宮歌合」と「新撰万葉集」にもありません。
5 秀38 しらつゆに 文屋朝康 後撰集 秋中308   詞書では「延喜御時歌めしければ」となってますが、「寛平御時后宮歌合」(90)と「新撰万葉集」(87)にあります。
 

5首の内、2首は詞書通りとなっており、3首は詞書と違っています。

定省親王(宇多天皇)は、班子女王を同母とする第一皇子の是忠親王(源宗干(秀21)の父)や第二皇子の是貞親王がいるにもかかわらず第三皇子でありながら即位しました。これは藤原基経の異母妹の尚侍藤原淑子が、 班子女王と非常に親密な関係にあり、また定省親王を猶子にしていたことがあります。基経が望んでいたわけではなかったようですが。

六歌仙時代の文屋秀康の歌を、「是貞親王家歌合」にて、と言うのは、間違えたのではなく、 藤原家の排斥に巻き込まれた人たちの鎮魂歌として、自分たちを草木に例え、摂関家の人たちの陰謀を風に例えたのです。そしてその歌を「是貞親王家歌合」にて、ということにして 悲劇の親王たちの名も浮かび上がらせたのです。

貫之男の紀時文は、後撰集の編纂の折に、朝康の歌を延喜御時として、暗に道真の左遷を匂わせているのではないでしょうか。定家は、これらの事を承知していて、この「百人秀歌」と「百ト一首」を 合わせて読み解くと、摂関家から排斥された歌人たちの思ひを浮かび上がらせられる様にしたのではないでしょうか。「ふくからに」の歌も「よみ人知らず」だったのを康秀の歌にしたのかもしれません。 古今集の詞書が間違っているのではなく、そこに選者たちの思惑があったように思います。

全105首の歌はすべて勅撰和歌集にあるということですが、勅撰集歌人としては、猿丸大夫の名はどこにもありません。 (秀8)「おくやまに」の歌は、古今集によみ人しらずとなっています。 拾遺集の時代の藤原公任(秀59)の三十六人撰に始まり、俊成、定家と受け継がれてきたのです。

猿丸大夫、喜撰法師、蝉丸は、特定の名を挙げましたが、結論として、名を特定するのではなく、猿丸大夫は、古来から無実の罪や政権争いに負けて排斥された人々の象徴であり、 喜撰法師は、特に紀氏に属する悲劇の人々のためのものです。蝉丸は、世を捨て、管楽の世界の中で生を繋いでいった人たちの為のものだったのでしょう。

これらの「百ト一首」の歌番号を合わせると18+23+5+22+37=105 (5X21)となりますが...。 =上にもどる=



  
伊勢
秀百19

難波潟
 短き蘆の
 ふしの間も
 逢はでこの世を
 すぐしてよとや
★伊勢 (875?〜940?) (新古今集 恋一1049)
☆難波潟に生えている蘆の節と節との間のような短い間でさえあなたと逢わないでこの世を過ごせと言うのですか。

実際の蘆は、背丈は3mにもなるらしいです。節の間は当然長いでしょう。それを分かった上で、短きと、 ほんの少しの希望さえ抱かせることは出来ないのかと嘆いているのでしょうね。

伊勢守藤原継蔭女。中宮温子に仕え、宇多天皇との間に親王を生み、伊勢の御息所と呼ばれたが、親王は夭折した。 のちに宇多上皇の第四皇子の敦慶親王との間に娘をもうけた。親王が中務卿だったので、娘は中務と呼ばれた。

伊勢、中務ともども公任撰の「三十六人撰」に選ばれている。

大和物語は、宇多天皇の退位と伊勢のやり取りから始まってます。古今時代から活躍してましたが、 9世紀の他氏排斥の時代より、10世紀の後撰集の時代の人のように感じます。

何故ここに次の元良親王の歌とともに不動の2首が...。
    =上にもどる=
伊勢
秀百19

難波潟
 短き蘆の
 ふしの間も
 逢はでこの世を
 すぐしてよとや


  
元良親王
秀百20

わびぬれば
 今はたおなじ
 難波なる
 みをつくしても
 逢はむとぞ思ふ
★元良親王(890〜943)  (後撰集 恋五960)
☆噂もたってこのように思い悩んでいるのですから、今はもう身を滅ぼしたのも同じです。 難波の澪標のように身を滅ぼしてもあなたにお逢いしたいものです。

(秀12)陽成天皇の第一皇子。出家後に生まれたので、天皇への道はなかった。宇多天皇の京極御息所である、藤原時平女の 褒子への密会が露呈したのちに送った歌。 敦慶親王ともども同じ時代を生き、「源氏物語」の数多くあるモデルの中に生きています。残っている和歌も多くは恋の贈答歌です。

「大和物語」では、敦慶親王は、故式部卿の宮。元良親王は、故兵衛卿の宮。褒子は京極の御息所。
   =上にもどる=
元良親王
秀百20

わびぬれば
 今はたおなじ
 難波なる
 みをつくしても
 逢はむとぞ思ふ


  
源宗干朝臣
秀21(百28)

山里は
 冬ぞ寂しさ
 まさりける
 人目も草も
 かれぬと思へば
★源宗干朝臣 (880?〜939?)  (古今集 冬315)
☆山里では都と違って、冬は殊更に寂しさがまさるように感じます。人が尋ねることもなく草も枯れてしまうと思うと。

宗干は、光孝天皇皇子、是忠親王男。源氏に臣籍降下した。寛平后宮歌合(第14話)や是貞親王家歌合などの歌合に参加。伊勢(19) や 貫之(秀28)と親交があったようだ。古今集での源氏の歌人は7人いるが、宗之が最多の6首選ばれている。

宇多天皇が紀伊の国から石のついた海松という海草を奉ったことを題として、人々が歌を詠んだとき、官位が上がらないことを伝えようとして詠んだ歌。

沖つ風 ふけゐの浦に 立つ浪の なごりにさへや われはしづまぬ (大和物語30段)
・沖つ風の吹く吹飯の浦に波が立つように、皆官位を頂いて引いていくのに、私はその波の残ったなごりのような官位さえいただけないのでしょうか。
しかし、天皇に「さて、なんのことやら。」ととぼけられてしまい、詠んだかいがなかったですね。見るだけで終わってしまいました。

すぐに行くよと言ってから、待ち続けて、今や冬になって草木も枯れて、人も来なくなり、冬の方が寂しさは増すばかりですね。
   =上にもどる=
素性法師
百21(秀22)

今来むと
 いひしばかりに
 長月の
 有明の月を
 待ち出でつるかな


  
素性法師
秀22(百21)

今来むと
 いひしばかりに
 長月の
 有明の月を
 待ち出でつるかな
★素性法師 (845?〜909?)  (古今集 恋四691)
☆すぐに行こう、とあなたが言うから待っていたのに、待ち明かして暁を迎えてしまい、有明の月を見ることになってしまった。

僧正遍昭(秀15)男。父が出家した時に兄と共に一緒に出家した。父僧正遍昭は850年35歳の時に出家したので、 素性法師が5,6歳の時のはず。<T.4紀名虎の家系>のように、素性は父遍昭と共に常康親王(仁明天皇父と紀種子母)が出家して住んでいた雲林院を受け継ぐ。 紀種子は、紀名虎の娘なので、業平が仕えた惟喬親王(文徳天皇父)の母である紀静子と姉妹である。 素性は後に一人大和国(奈良県)の石上にある良因院に移り住んだ。

昌泰元年(898)、宇多上皇が奈良に御幸したさいに召され、共に旅して各所で歌を奉った。この時、菅原道真もおり、 「このたびは」(秀23)を詠んだ。大宰府左遷の3年前のことでした。

仁明天皇から寵愛を受けた常康親王は古今集に1首残しています。

吹きまよふ 野風を寒み 秋萩の うつりもゆくか 人の心の 雲林院親王 (古今集 恋781) 
・吹き荒れる野風が寒いので秋萩が色移ってゆく。その様に人の心も移ろうのか。

<秀21>と異なり、ここでは、9月のある日の夜の出来事と捉えて一夜説です。今日の約束を破られた人の心も嵐です。
   =上にもどる=
文屋康秀
百22(秀27)

吹くからに
 秋の草木の
 しをるれば
 むべ山風を
 あらしといふらむ


  
菅家
秀23(百24)

このたびは
 幣もとりあへず
 手向山
 紅葉の錦
 神のまにまに
★菅家(菅原道真) (845〜903) (古今集 羈旅420)
☆急な旅立ちだったので、幣を用意する暇がなかった。神様、この手向山の美しい錦のような紅葉を幣として心のままにお受けください。

昌泰元年(898)、宇多上皇が奈良へ御幸した時に菅原道真も供をして、その時に詠んだ歌。

二人とも漢学者ですね、そして歌人でもあり歌を残しています。菅原家と大江家はもと同族らしいです。「紅葉の錦」という言葉は、漢詩にはあるが、 古今集から始まった新しい技巧らしいです。千里の歌も「白氏文集」にある漢詩を翻案して詠まれたもの。

道真は左大臣藤原時平の他氏排斥策(昌泰の変、901年)で大宰府に送られ失意のうちに亡くなくなったが<T.3= 仮託の歌人たち(猿丸大夫と喜撰法師)・他氏排斥事件>、 死後、正一位太政大臣を送られ、神として北野神社に祭られた。

流され侍ける時、家の梅の花を見侍て

東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな (拾遺集 雑春1006 贈太政大臣)
・もし東風が吹いたならば、私の所まで風を託して匂いを送ってください。家の主がいなくても花の咲く春をわすれないで。

菅原孝標女(「更級日記」の作者)は道真の六世の孫に当たり、祐子内親王家紀伊(秀74)などと同じく祐子内親王に仕えた。
=上にもどる=
大江千里
百23(秀30)

月見れば
 ちぢにものこそ
 悲しけれ
 わが身ひとつの
 秋にはあらねど


  
壬生忠岑
秀24(百30)

有明の
 つれなく見えし
 別れより
 暁ばかり
 憂きものはなし
★壬生忠岑 (870?〜930?)  (古今集 恋三625)
☆後朝の別れの朝、有明の月は無情に感じられて、それ以降、暁ほど辛く悲しいものはありません。

冷静で平気な顔をしているのが月で、後朝の愛おしい別れの気持ちと対比させているのが定家の解釈。 古今集では「来れど逢わず」の歌の中にあるので、つれないのは女性である。

自然界のものは、そこに存在するだけの無情なものなのに、わが身を照らしたり、置き換えたり、 身勝手な自分の感情や状況をその無情のものに託することで救いを求めているのでしょうか。

藤原定国(藤原高藤男、醍醐天皇外叔父)の随身を務めたことがある(大和物語)。卑官を歴任。古今集選者の一人。 後鳥羽院が定家と家隆に、「古今集」の秀歌を問うたところ、 二人ともこの歌を推した。「古今著聞集」では、陰明門院(土御門天皇中宮)が問うたことになっている。 どちらにしても定家、家隆はこの歌を高く評価していた。

右大将藤原定国の随身として供していた時に、急に左大臣時平を訪ねた。その時に忠岑が詠んだ歌、

かささぎのわたせる橋の霜の上を夜半に踏みわけことさらにこそ
・御殿の階段に置いた霜の上を、この夜中に踏み分け、わざわざやってきました。よそに行ったついでに来たわけではありません。

この歌によって、(秀5)のかささぎの歌が宮殿の御橋に例えられるようになった。やはり天空でないと天の原と対比できないですよね。 壬生忠岑は、歌を気に入られて時平よりご褒美を賜ったそうな。(大和物語125段)
=上にもどる=
菅家
百24(秀23)

このたびは
 幣もとりあへず
 手向山
 紅葉の錦
 神のまにまに


  
凡河内躬恒
秀25(百29)

心あてに
 折らばや折らむ
 初霜の
 置きまどはせる
 白菊の花
★凡河内躬恒 (870?〜930?) (古今集 秋下277)
☆だいたいの見当をつけて折ることができるなら折ってみましょうか。初霜が降りて霜か菊か見分けがつかなくなっている中で、白菊の花を。

菊は中国からの輸入品です。万葉集には一例もありません。平安初期に漢詩文に導入された後に和歌にも詠まれるようになったみたいです。卑官で あったが歌にすぐれ,古今集選者の一人です。紀貫之(秀28)と親しく、ともに三条右大臣邸に出入りした。

=上にもどる=
三条右大臣
百25(秀35)

名にし負はば
 逢坂山の
 さねかづら
 人に知られで
 くるよしもがな


  
紀友則
秀26(百33)

ひさかたの
 光のどけき
 春の日に
 しづ心なく
 花の散るらむ
★紀友則 (850?〜905) (古今集 春下84)
☆陽がのどかに射してる春の日に、どうしてそんなに落ち着きもなく慌ただしく桜の花は散るのでしょう。

紀友則は貫之といとこ同士ですが、かなり歳上です。古今集選者に選ばれたが古今集完成前に没しました。貫之と壬生忠岑が哀傷歌を残しています。

紀友則が身まかりにける時よめる
明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそかなしかりけれ (古今集 哀傷歌838 貫之)
・明日の命も分からない儚い我が身と思うものの、日の暮れない間の今日は、あの人のことが悲しく思われるのです。
時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを (古今集 哀傷歌839 忠岑)
・時もあろうに、よりによって秋に人と死に別れるということがあってよいものか。生きていて会うことができる場合にさえ、秋という季節は、会って 別れると恋しい気持ちになるのに。

春の桜と秋の紅葉と対照的に組み合わせで、どちらも慌ただしく散っていくものですが、紀氏の桜は慌ただしく散っていき、 藤原家の紅葉は、今ひとたびの御幸のために留まらせようとしています。
=上にもどる=
貞信公
百26(秀34)

おぐら山
 峰のもみぢ葉 
心あらば
 今ひとたびの
 みゆき待たなむ


  
文屋康秀
秀27(百22)

吹くからに
 秋の草木の
 しをるれば
 むべ山風を
 あらしといふらむ
★文屋康秀 (840?〜893?) 六歌仙 (古今集 秋下249)
☆吹くやいなやすぐに秋の草木がしおれるので、だから山から吹く強い風を嵐というのですね。

六歌仙の歌人は秀10番代に並んでいます。康秀だけが飛びぬけて秀27番にあり、他の六歌仙と一緒にできないないのは、 本当に康秀が詠んだものか分からないからでしょうか。この兼輔の歌と同様に、元々は、詠み人知らずの歌だったのかもしれないですね。 一般的には、息子の朝康が詠んだと言われてます。

           
歌順 初句 出典  六歌仙歌人名
1 秀13 はなのいろは  古今集 春下113  小野小町
2 秀27 ふくからに  古今集 秋下249  文屋康秀 
3 秀10 ちはやぶる  古今集 秋下294  在原業平 
4 秀15 あまつかぜ  古今集 雑上872   僧正遍昭 (良岑宗貞) 
5 秀14 わがいほは  古今集 雑下983  喜撰法師 


(秀37)朝康の歌も遅くなっています。どちらも風が吹きしき、萎れ、露が散っていきます。 排斥されていく家々のために配したのでしょうか。

天武天皇の皇子、長皇子(万葉集に歌を五首残している歌人)の子の一人が臣籍降下して文屋(文室)姓を賜っている。康秀はその五代後になる。

征夷大将軍の坂上田村麻呂と共にいた文室綿麻呂や恒貞親王(淳和天皇皇子)が皇太子を廃された承和の変の時に春宮大夫であったがために連座して 左遷させられた文室秋津などがいる。天武系の名門の名を残したかったというのも入集させた理由の一つなのかなと思ったりもしてます。
=上にもどる=
中納言兼輔
百27(秀36)

みかの原
 わきて流るる
 いづみ川
 いつ見きとてか
 恋しかるらむ


  
紀貫之
秀28(百35)

人はいさ
 心も知らず
 ふるさとは
 花ぞ昔の
 香ににほひける
★紀貫之 (872?〜945?) (古今集 春上42)
☆さあ、あなたのお気持ちは分かりませが、古里の奈良に咲く梅の花は昔からと同じように香っています。

古今集時代の代表的歌人であり、仮名文学の先駆者。「古今集の仮名序」を書いた。「新撰和歌集」の撰者。 「土佐日記」の作者。「竹取物語」、「伊勢物語」も貫之かなと思ったりしてます。

醍醐の代に、身分は低く、60歳過ぎて土佐の守になった。 貫之が土佐の守となって京を離れている数年の間に、醍醐上皇、翌年から、宇多法皇、定方(三条右大臣)、 兼輔、母と次々と亡くなった。そして土佐では最愛の娘も...。 (秀36)兼輔男の、雅正(紫式部の祖父)と親しくしていたようですが、「山里の」の歌は、貫之の晩年そのもののような歌です。

息子の紀時文(きのときぶみ)は、梨壺の五人の一人となり、「後撰集」編纂に関わった。
=上にもどる=
源宗干朝臣
百28(秀21)

山里は
 冬ぞ寂しさ
 まさりける
 人目も草も
 かれぬと思へば


  
坂上是則
秀29(百31)

朝ぼらけ
 有明の月と
 見るまでに
 吉野の里に
 降れる白雪
★坂上是則 (880?〜930?) (古今集 冬332)
☆夜がほのぼのと明ける頃、有明の月がまだ差しているかと思うほど、吉野の里に降り敷いた雪の白さよ。

蝦夷征伐に功のあった坂上田村麻呂の子孫。蹴鞠の名手。息子の坂上望城(さかのうえのもちき)は、梨壺の五人の一人となり後撰集編纂に関わった。

春の訪れが近くなっている頃の月の明かりと間違えるほどの思わぬ降り敷いた一面の雪。冬も近づき始め、 初霜が降りて白菊と紛らわしくなっている早朝の白さ。空気がピシッと張り詰め、静寂の中に桜も紅葉もない純白の世界が 広がっているだけです。

是則の代表歌、
み吉野の山の白雪つもるらしふるさと寒くなりまさるなり (古今集 冬325)
・吉野の山に日に日に雪が積もっているらしい。この奈良では寒さが一段とつのっています。
=上にもどる=
凡河内躬恒
百29(秀25)

心あてに
 折らばや折らむ
 初霜の
 置きまどはせる
 白菊の花


  
大江千里
秀30(百23)

 月見れば
 ちぢにものこそ
 悲しけれ
 わが身ひとつの
 秋にはあらねど
★大江千里 (860?〜922?) (古今集 秋上193)
☆秋の月を見ると、いろいろな思ひがこみ上げて悲しくなります。 なにも私一人のための秋ではないと分かっているのですが

漢学者大江音人の男。「句題和歌」(大江千里集)を宇多天皇に詠進。官位は低く、六位兵部大丞。

弟に千古がおり、醍醐天皇の侍読を務めた。大江氏は、千古より孫が赤染衛門(秀63)の夫、大江匡衡であり、さらにひ孫の大江匡房(秀72)と続く。

どちらの歌も月は無情に輝いています。誰のものでもないと分かっているのに月を見ながら思ひは色々馳せてますね。 この月同士の組み合わせは、「ほととぎす」(秀86)と「なげけとて」(百86)があります。
=上にもどる=
壬生忠岑
百30(秀24)

有明の
 つれなく見えし
 別れより
 暁ばかり
 憂きものはなし


  
藤原興風
秀31(百34)

たれをかも
 知る人にせむ
 高砂の
 松も昔の
 友ならなくに
★藤原興風 (870?〜920?) (古今集 雑上909)
☆一体誰を昔からの友としましょうか。年老いた今、同じような高砂の老い松がいるが、 その松だって昔からの友ではないのですから。

最古の歌学書「歌経標式」の作者、藤原浜成のひ孫。官位は低かったが、寛平御時后宮歌合など歌界で活躍した。古今集では 17首入選と、藤原敏行(秀11)の19首と同じように藤原家では断トツに多いです。興風は、藤原京家。敏行は、藤原南家。 どちらの家も藤原北家の勢力に追い落とされていきます。

月と雪、雪と花、露と涙、紅葉を錦に見立てたりしますが、二つの物を重ね合わせて、 一つの情景が浮かんで来たり、自分自身の思ひを反映させたりします。興風の歌には高砂の松と比べる長寿さが、めでたいことなのに、無情の松と語り合うわけでもなく 孤独の波に押し寄せられている深い歎きが込められています。
=上にもどる=
坂上是則
百31(秀29)

朝ぼらけ
 有明の月と
 見るまでに
 吉野の里に
 降れる白雪
 


  
春道列樹
秀百32

山川に
 風のかけたる
 しがらみは
 流れもあへぬ
 紅葉なりけり
★春道列樹(880?〜920?) (古今集 秋下303)
☆山の中の川に風が自然にかけた柵は、流れようとして流れない紅葉だった。

他に、
きのふとひいけふと暮らしてあすか川流れてはやき月日なりけり (古今集 冬341)
・昨日、今日と一日一日暮らして、明日新年を迎える。飛鳥川の流れが速いように月日が流れるのもなんと早いことでしょう。

理屈っぽい歌も残されているが、何故、秀百32の不動の歌がこれなんでしょうか。春道列樹って何者。32番が不動なのは、 <定家略年譜>で言及したように、定家32歳の時に母の美福門院加賀が亡くなったからでした。 しかし別にこの歌人でなくてもよかったと思うし。

後に出てくる<秀35>の三条右大臣定方は、高藤男で母は宮道列子です。姉の胤子は宇多天皇の女御になり醍醐天皇の母となります。この二人の出会いは、「今昔物語集」に 詳しく語られています。(田辺聖子の今昔物語 雨宿りで会った少女 角川文庫 平成二十年)。紫式部は「明石」の巻にこの自分の先祖に関わることを取り入れたと言われてます。

春道列樹と宮道列子って似てません?高藤と列子の夢のようなお話を、「源氏一品経書写供養」を主催したりしていた亡き母に捧げたのでしょうか。<定家略年譜>
=上にもどる=
春道列樹
秀百32

山川に
 風のかけたる
 しがらみは
 流れもあへぬ
 紅葉なりけり 


  
清原深養父
秀33(百36)

夏の夜は
 まだ宵ながら
 明けぬるを
 雲のいづこに
 月宿るらむ
★清原深養父 (880?〜930?) (古今集 夏166)
☆夏の夜は短いので、まだ宵のうちと思っている間に、夜が明けてしまった。月は間に合わなくて雲のどのあたりに宿っているのかな。

深養父は、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るった舎人親王の子孫、清原氏です。天武系ですね。元輔(秀45)の祖父、 清少納言(秀60)の曽祖父です。官位は低く、貫之を通じて兼輔や定方の世話になっていたらしいです。

夏の夜は、短くてすぐに夜が明けてしまうので、その速さに月はついていけなくて、今頃どこに宿っているのか。 はたまた春の日の光がのどかに射して時間は過ぎていくのに、桜は慌ただしく散っていきます。どちらも時の流れの対比がおもしろいですね。

定家は、古今集から24首を選びましたが、この「なつのよは」が24首目の歌です。夏の夜の雲のいずこかにいる月を、古今集編纂中に没した 友則に例えているようです。無念な思いをしただろう友則は、公任(秀59)の「三十六人撰」に選ばれていますが、深養父は選ばれませんでした。
=上にもどる=
紀友則
百33(秀26)

ひさかたの
 光のどけき
 春の日に
 しづ心なく
 花の散るらむ 


  
貞信公
秀34(百26)

おぐら山
 峰のもみぢ葉
 心あらば
 今ひとたびの
 みゆき待たなむ
★貞信公 (880〜949) (拾遺集 雑秋1128)
☆小倉山の紅葉よ、もし心があるのなら、次は天皇の行幸があるのでそれまで散らないで待っていてください。

貞信公(藤原忠平)は、陽成院を退位させ、宇多天皇ともめた基経の四男、菅原道真を大宰府に左遷した時平の弟。時平の没後、政権をとり、 延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇の代に摂政、次いで関白に任じられ、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。朱雀の代には、平将門、藤原純友の 乱が起きた(承平天慶の乱)。忠平と紀貫之はほぼ同時代の人です。最後は従一位関白太政大臣まで昇りつめましたが、村上天皇の代になって3年後に没しました。

平将門(?〜940)は地方より15、16歳のころ京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を私君とした時期がありました。

小倉山の紅葉や高砂の松を擬人化しようとしてますね。それらが応えようもないことを分かり切った上ですが、 ハレとケの違いのように藤原北家と藤原京家の違いですね。
=上にもどる=
藤原興風
百34(秀31)

たれをかも
 知る人にせむ
 高砂の
 松も昔の
 友ならなくに 


  
三条右大臣
秀35(百25)

名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
★三条右大臣(藤原定方) (873〜932) (後撰集 恋三700)
☆逢坂山の「さねかづら」が負っている「逢って寝る」というその名の通りなら人に知られないで繰るように行きたいものです。

三条右大臣、定方は、内大臣、高藤の男、朝忠(共通44)の父 管絃にすぐれ、歌人として有名。兼輔とともに専門歌人の貫之らを庇護した。

なんとしても女性の所へ行く方法はないものかと実かずらの名の持つ意味に願いを込めているが、「ひとはいさ」の方は、 女性とご無沙汰していたことを皮肉られたので返した歌です。つる性常緑低木のさねかづらと落葉高木の梅と植物同士でも対比させたのでしょうか。
=上にもどる=
紀貫之
百35(秀28)

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける 


  
中納言兼輔
秀36(百27)

みかの原
 わきて流るる
 いづみ川
 いつ見きとてか
 恋しかるらむ
★中納言兼輔 (877〜933) (新古今集 恋一996)
☆みかの原を分けて湧きでて流れるいづみ川、その「いつみ」ではないけど、いつ見たと言って恋しいのでしょうか。

鴨川の堤に邸があったので、堤中納言と称された。貫之、躬恒などと歌人グループを形成していた。清原深養父は、琴の名手であり、『後撰集』には琴を弾くのを 聴きながら、藤原兼輔と紀貫之が詠んだという歌が収められている。

夏夜、深養父が琴ひくを聞きて
短か夜の ふけゆくまゝに 高砂の 峰の松風 吹くかとぞ聞く (後撰集 夏167 藤原兼輔朝臣)
・短い夏の夜が更けゆくにつれて、中国の詩に言うように、峰の松風が吹いているのではないかと、この琴の音を聞いてしまいますよ。
おなじ心を
葦引きの 山の下水は ゆきかよひ 琴の音にさへ ながるべら也 (後撰集 夏168 つらゆき)
・山下水のように目立たない私ですが、あなたの琴の音と通じ合って自然に泣かれることですよ。

俊成(秀87)撰の「三十六人撰」、後鳥羽院(百99)撰の「時代不同歌合」には兼輔の代表歌の一つになっていますが、最初に「三十六人撰」を選んだ公任(秀59)は、 次の歌を代表歌の一つにしています。
人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬる哉 (後撰集 雑一1102 兼輔朝臣))
・親の心は、闇というわけではないのに、他のことは何も見えなくなって、子を思う道にただ迷ってしまいます。

深養父は清少納言(秀60)の曽祖父であり,三条右大臣や兼輔の庇護の元にありました。兼輔は紫式部(秀64)の曽祖父であり、三条右大臣と 従弟同士です。紫式部には出自において清少納言より自負心があったことでしょうね。
=上にもどる=
清原深養父
百36(秀33)

夏の夜は
 まだ宵ながら
 明けぬるを
 雲のいづこに
 月宿るらむ 


 
 T.9  = 紀貫之の時代 =
‐‐‐‐‐
兼輔は、人の世の表裏に通じた柔軟な人間味からこぼれる自然のユーモアを持っていた。そこでこういう兼輔に臣従し、兼輔を通じて定方の知遇をも得た貫之らは 、拘束と気苦労の多い貴族社会の中でまことに例外的な「身分階級を離れた人間性自体の親密さによって結ばれ】、一つの別天地を形成することができたのである。 藤岡忠美氏がこれを一つの「小世界」と呼んだのは極めて適切な規定である。(「古今から後撰へ」「国語国文研究八」)。

 時平・定国の死後、「つねに笑みておはせし」寛仁の醍醐天皇と温雅な太政大臣忠平の下で、よい意味でも悪い意味でも政治的緊張の全く無い世が続き、 公的生活の外に展開する貴族の私生活が前代に比べて一段と華やかになって行った時勢を反映するのである。(紀貫之 目崎徳衛 吉川弘文館)

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 T.9  = 紀貫之の時代 =
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兼輔は、人の世の表裏に通じた柔軟な人間味からこぼれる自然のユーモアを持っていた。そこでこういう兼輔に臣従し、兼輔を通じて定方の知遇をも得た貫之らは 、拘束と気苦労の多い貴族社会の中でまことに例外的な「身分階級を離れた人間性自体の親密さによって結ばれ】、一つの別天地を形成することができたのである。 藤岡忠美氏がこれを一つの「小世界」と呼んだのは極めて適切な規定である。(「古今から後撰へ」「国語国文研究八」)。

 時平・定国の死後、「つねに笑みておはせし」寛仁の醍醐天皇と温雅な太政大臣忠平の下で、よい意味でも悪い意味でも政治的緊張の全く無い世が続き、 公的生活の外に展開する貴族の私生活が前代に比べて一段と華やかになって行った時勢を反映するのである。(紀貫之 目崎徳衛 吉川弘文館)

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 <秀21>から<秀36>までの氏名を並べてみました
百人秀歌初句 歌人名 詳細
1 秀21 山里は冬ぞ寂しさまさりける 
人目も草もかれぬと思へば
源宗干朝臣 光孝源氏
2 秀22 今来むといひしばかりに長月の 
有明の月を待ち出でつるかな
素性法師 良岑氏
3 秀23 このたびは幣もとりあへず手向山 
紅葉の錦神のまにまに
菅家 菅原氏  贈正一位太政大臣
4 秀24 有明のつれなく見えし別れより
 暁ばかり憂きものはなし
壬生忠岑 壬生氏  古今集選者
5 秀25 心あてに折らばや折らむ初霜の 
置きまどはせる白菊の花
凡河内躬恒 凡河内氏  古今集選者
6 秀26 ひさかたの光のどけき春の日に 
しづ心なく花の散るらむ
紀友則 紀氏  古今集選者
7 秀27 吹くからに秋の草木のしをるれば 
むべ山風をあらしといふらむ
文屋康秀 文屋氏  六歌仙
8 秀28 人はいさ心も知らずふるさとは 
花ぞ昔の香ににほひける
紀貫之 紀氏  古今集選者 仮名序
9 秀29 朝ぼらけ有明の月と見るまでに 
吉野の里に降れる白雪
坂上是則 坂上氏
10 秀30 月見ればちぢにものこそ悲しけれ 
わが身ひとつの秋にはあらねど
大江千里 大江氏
11 秀31 たれをかも知る人にせむ高砂の 
松も昔の友ならなくに
藤原興風 藤原京家
12 秀33 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 
雲のいづくに月宿るらむ
清原深養父 清原氏
13 秀34 をぐら山峰のもみぢ葉心あらば 
今ひとたびのみゆき待たなむ
貞信公 (藤原忠平) 藤原良房流  贈正一位関白太政大臣
14 秀35 名にし負はば逢坂山のさねかづら 
人に知られでくるよしもがな
三条右大臣 (藤原定方) 藤原良門流  従二位右大臣
15 秀36 みかの原わきて流るるいづみ川 
いつ見きとてか恋しかるらむ
中納言兼輔 (藤原兼輔) 藤原良門流  中納言兼右衛門督従三位



古今集から選ばれた歌24首は、秀33番の深養父の歌までです。六歌仙の時代以降、紀貫之と彼を取り巻く、 醍醐朝(885〜897-930)に活躍した古今集時代の代表的歌人がずらりと並んでいます。(5X3=15人) その時代のパトロン的存在であった3人の名前が秀34、35、36と続いています。 この3人の歌は、古今集になく(貞心公は後撰集が初出)、後撰集、拾遺集、新古今集から取られています。

これらの歌を詠み続けていると、季節の歌や恋の歌など色々ありますが、菅原道真を筆頭に各氏に捧げる鎮魂歌のように感じてきます。 部立てに限定されるより、日常の営みの中から起こる感情の普遍的な「思ひ」として解釈されるべきなのかなと思ったりしてます。

そして文屋康秀の「吹くからに秋の草木のしほるればむべ山風を嵐といふらむ」(秀27)が、道真の大宰府左遷の 事の大きさを表そうとしたのかもしれません。十番代にあってもおかしくない 六歌仙の歌人をここに置いている不思議さを解決してくれるでしょうか。摂関家となる忠平(貞心公)の良房流は、これから 兄弟で争うことになっていきます。

ところで<百人秀歌と百ト一首>には「嵐」の歌が3首あります。(秀27)「ふくからに」、(秀57)「嵐吹く」、(秀101)「花さそふ」。 これらの百人秀歌の歌番号を合わせると27+57+101=185 (5X37)となりますが...。

このあと秀37番以降、後撰集の世界になり、藤原氏を取り巻く「大和物語」を代表とする恋の歌が続きますが、 解釈の範囲をもっと大きくしていくとまた違った側面が見えてくるかもしれません。 =上にもどる=


  
参議等
秀37(百39)

浅茅生の
小野の篠原
しのぶれど
あまりてなどか
人の恋しき
★参議等 (880〜951) (後撰集 恋一577)
☆浅茅が生えてる小野の篠原、その「しの」ではないけれど、もうこれ以上忍びきれません。どうしてこんなに恋しいのでしょう。

嵯峨源氏。中納言希の男。村上天皇が践祚し、翌年の天暦元年(947年)、68歳で参議に任じられ公卿に列する。 後撰集のみにに4首残しているが、「源ひとし朝臣」と記されている。

次に続く秀38、秀39と合わせて、三首の歌がリンクしてます。 秀37(百39)「あさぢふの」−秀39(百38)「わすらるる」−秀38(百37)「しらつゆに」−秀37(百39)「あさぢふの」−秀39(百38)「わすらるる」

忍び切れない恋の始まりから、やがて神に誓ったことに対する裏切りの為に命の心配をされるようになり、 その命も草の上の露のごとくあっさりと飛び散ってしまいます。永遠のリンクです。そこに右近と敦忠(秀40)らしい人との 逸話(大和物語84段)が、敦忠の(父の時平の菅原道真排斥事件)短命と織り合わされて深みを増していくのです。
=上にもどる=
文屋朝康
百37(秀38)

白露に
風の吹きしく
秋の野は
つらぬきとめぬ
玉ぞ散りける

  
文屋朝康
秀38(百37)

白露に
風の吹きしく
秋の野は
つらぬきとめぬ
玉ぞ散りける
★文屋朝康 (870?〜910?) (後撰集 秋中308)
☆草の上に置く白露に風が吹く秋の野は、その露が散って、糸で貫いていない玉が散りこぼれるようです。

露は命に例えられたりしますが、風は何を例えているのでしょうか。吹きつける風の強さは誓いも何もかも 散らせてしまうのでしょうか。

朝康は康秀(秀27)の息子です。古今集に1首、後撰集に2首残すだけですが、宇多天皇の代の「是定親王家歌合」「寛平御時后宮歌合」(889)などで歌を詠んでいる ので、官位は低かったが、歌人として認められていたようです。
=上にもどる=
右近
百38(秀39)

忘らるる
身をば思はず
ちかひてし
人の命の
惜しくもあるかな


  
右近
秀39(百38)

忘らるる
身をば思はず
ちかひてし
人の命の
惜しくもあるかな
★右近 (910?〜966?) (拾遺集 恋四870)
☆忘れられる私のことはさておいて、神に誓ったあなたの命がなくなるのではと惜しまれてなりません。

右近衛少将藤原季縄(?〜919)の娘。醍醐天皇中宮隠子(885-954)に仕えた。村上朝の応和二年(962)、康保三年(966)などの歌合に出詠。 定家は、「大和物語」にある173段の300首近くある歌の中からこの「わすらるる」の歌1首だけを取り上げています。

「浅茅生の」の歌は「恋一」にある初々しい恋の始まりの歌です。忍びきれない男の思ひにあふれた歌ですが、 やがて恋も終末期の「恋四」になると裏切った人の命を祈られるまでになってしまうのですね。
=上にもどる=
参議等
百39(秀37)

浅茅生の
小野の篠原
しのぶれど
あまりてなどか
人の恋しき

         

                               
 T.10  = 百ト一首での位、参議と中納言 =
初出勅撰集名 勅撰集での名 <百人秀歌と百ト一首>での名  特記
1 拾遺集 大伴家持 (秀5)中納言家持(6) 新古今集より中納言の表記
2 古今集 在原行平朝臣 (秀9)中納言行平(16) 新古今集より中納言の表記
3 古今集 藤原兼輔朝臣 (秀36)中納言兼輔(27) 後撰集より中納言と表記
4 後撰集 藤原敦忠朝臣 (秀40)権中納言敦忠(43) 拾遺集より権中納言、百人秀歌のみ中納言敦忠と表記
5 後撰集 藤原朝忠朝臣 (44)中納言朝忠(44) 拾遺集より中納言と表記
6 後拾遺集 中納言定頼 (秀67)権中納言定頼(64) 新古今集より権中納言と表記
7 後拾遺集 大江匡房朝臣 1 (秀72)権中納言匡房(73) 百ト一首のみ権中納言匡房と表記
8 金葉集 中納言国信 (秀73)権中納言国信(--) 新古今集より権中納言と表記
9 千載集 権中納言長方 (秀90)権中納言長方(--)
10 千載集 藤原定家 2 (秀100)権中納言定家(97) 71歳(1232)にて権中納言、新勅撰集のみ権中納言と表記
11 古今集 小野篁朝臣 3 (秀7)参議篁(11) 新古今集より参議の表記
12 後撰集 源ひとしの朝臣 4 (秀37)参議等(39) 後撰集にのみ数首残している
13 新古今集 藤原雅経 5 (秀97)参議雅経(94) 亡くなる1年前(1220年)に参議となる
 

官位昇進への執着が強かった定家にとっては、他の歌人の官位にも留意したのではないかと思い、最終官位が参議と中納言を持つ歌人を抜き出してみました。

1:匡房は、初出の後拾遺集での朝臣から金葉集・詞花集では大蔵卿になり、千載集・新古今集・新勅撰集では前中納言になっています。 「百人秀歌」も前中納言ですが「百ト一首」では権中納言です。ところが為家撰の続後撰集や為兼選の玉葉集でも前中納言となっているので、 どうも「百ト一首」だけ権中納言となっているようです。

2:定家自身も千載集では「藤原定家」、新古今集では「定家朝臣」と表記され、続後撰集以後は「前中納言定家」と記されています。

3:(秀7)参議篁(小野篁)(802-852)が参議になったのは承和14年(847年)、没する5年前です。古今集に6首残しているが、 「小野篁朝臣」と記されている。

4:後撰集に4首のみ残こしている「源ひとしの朝臣」は、この集に入首しなければ、参議になった人として知られることは無かったでしょう。 定家撰の「八代集秀逸」は、道助法親王の仰せで(実は後鳥羽院命らしいのですが)、天福二年(1234)9月に進献したもの。 古今集から撰んだからでしょうが源等朝臣と記しています。

5:(秀97)参議雅経(藤原雅経)(1170-1221)が参議になったのは、承久2年(1220年)、没する1年前です。新古今集初出で「藤原雅経」となっている。

同時期に編まれたはずの二つの集には「参議」としているのは、定家の「参議」と「中納言」への思い入れの証しでは。 勿論「八代集秀逸」に撰んでいるくらいですから歌の評価は言うまでもないのですが。

定家は、自分自身と同様に歌人たちを現役のままで残したかったのです。それは、 定家自身も53歳で参議になったので、この歌集には、最晩年に参議になった源等のことを思い、「参議等」としたのでしょうか。 「百ト一首」に込めた定家の生涯と共にということですね。

<最勝四天王院>のサイトでも言及したように、伊勢路がありません。そこには出家した西行がいたからです。 伊勢路を封印して、恋の歌を西行と共に詠みたかったのでは。

しかし定家は色紙和歌には歌人名を記していません。自分史を和歌600年の上に載せたので歌人名を書けなかったと思ってます。 「百人一首」を世に出した息子の為家が、歌人名など若干手を加えたと思ってますが、明らかに官職名に配慮しています。

定家が自分史の為だけでなく、歌人たちの歴史と自分が認めた秀歌を残したかったということだと思います。。それが「百人秀歌」の方かなと思ってます。 しかしその配列は、隣り合わせた2首ずつの歌合形式ではなく、歌人たちの歴史を鑑みながら「百ト一首」と組み合わせ、和歌を繰っては束ねて、錦のように織りなして いったと思います。

この二つの歌集は、決して平安時代の貴族たちの輪廻でも棺でもなく、 夜空の星に身を置いて、未来永劫生き続ける為のものだったと思いたいです。 そして、定家没後777年の現在(2018年)においてあらゆる形で共に生き続けていますよね。
 =上にもどる=
  

  
中納言敦忠
秀40(百43)

逢ひ見ての
のちの心に
くらぶれば
昔はものも
思はざりけり
★中納言敦忠 (906〜943) (拾遺集 恋二710)
☆一度は逢ったものの、それが途絶えて後の苦しみや悲しみに比べると、それまでの事は物思いをしなかったも同然ですよ。

左大臣時平の三男。母は、在原棟簗の女とも言われているので、正しければ業平(秀10)のひ孫になる。時平の子として、菅原道真(秀23)の祟りによって、 短命を予期していたが、実際38歳で亡くなった。

誰にも分からないように忍んでいた恋も、とうとう人がたずねるくらい顔に現れるようになってしまった。でも一度逢ったあとで 逢わなくなってしまった苦しみや悲しみは、忍んでいただけの苦しみなどどうってことも無いくらい大きいものでした。
=上にもどる=
平兼盛
百40(秀41)

しのぶれど
色に出でにけり
わが恋は
ものや思ふと
人の問ふまで


  
平兼盛
秀41(百40)

しのぶれど
色に出でにけり
わが恋は
ものや思ふと
人の問ふまで
★平兼盛 (910?〜990?) (拾遺集 恋一622)
☆心の内に忍んでいた恋も、「どうかしたんですか」と人がたずねるほどに顔色にでてしまったようです。

兼盛は光孝天皇の玄孫。篤行王の男。天暦四年(950)に臣籍降下して、兼盛王から平氏になった。

まだ思い始めたばかりなのに既に噂になってます。

誰にも言ってないのにどうして?

自分では秘していたつもりなのに、人に問われるくらい顔色に出てしまっていたからです。

これが後世に色々な伝説を残した天暦御時の内裏歌合での兼盛と忠見の2首です。
=上にもどる=
壬生忠見
百41(秀42)

恋すてふ
わが名はまだき
立ちにけり
人知れずこそ
思ひそめしか


 

 T.11  = 天徳内裏歌合(てんとく だいり うたあわせ) =

村上天皇の治世(天暦御時)の天徳四年三月三十日(960/4/28)、十二題二十番で競われた。判者は左大臣藤原実頼、その補佐に大納言源高明。 後世の範と仰がれた晴儀の内裏歌合が披講された。

その時に(秀41)「しのぶれど」と(秀42)「こひしてふ」が20番目に番えられ、後の世に語り草となる名勝負となった。 勝負が決しがたく、判者の実頼は、天皇の御気色を伺ったところ、ひそかに兼盛の歌「しの...」を口ずさまれたので勝ちとした。 兼盛は、この歌が勝ったことを聞いて、喜び勇んで他の自分の勝負には執着せず退出してしまったらしい。

忠見は、この歌で負けた後に、食事ものどを通らず没したというが、その後も歌を残している。それくらいの名勝負だったということですね。

実際の歌合では、「こいしてふ」が先に詠まれたが、定家は<百人秀歌と百ト一首>ともに「しのぶれど」を先にしている。勝負に勝った方を先にしたということかな。 12人の歌人が出詠したがその内5人(5X1)がこの集に入っている。歌は、3首が入首している。

 
歌人名 出典 和歌
1 平兼盛(秀41) 拾遺集  しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
2 壬生忠見(秀42) 拾遺集  恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
3 藤原朝忠(44) 拾遺集  逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
4 清原元輔(秀45)
5 大中臣能宣(秀48)
 

 =上にもどる=

  
壬生忠見
秀42(百41)

恋すてふ
わが名はまだき
立ちにけり
人知れずこそ
思ひそめしか
★壬生忠見 (910?〜980?) (拾遺集 恋一621)
☆恋をしているという私のことがもう既に噂になっています。まだ思ひ始めたばかりというのに。

壬生忠岑男。官位は低かったが、歌人としては有名であった。

(秀百39)の「わすらるる」と「あさじふの」では、初々しさを経て、誓った男の裏切りに神罰が当たるかもしれないと、 その命を惜しんでいるが、ここでは、初々しさを経て、誓った女の裏切りを歎いています。
=上にもどる=
清原元輔
百42(秀45)

契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山
波越さじとは


  
謙徳公
秀43(百45)

あはれとも
いふべき人は
思ほえで
身のいたづらに
なりぬべきかな 
★謙徳公(藤原伊尹これただ、これまさ) (924〜972) (拾遺集 恋五950)
☆かわいそうにと、同情してくれそうな人も思い浮かばず、我が身はこのまま虚しく死んでしまうのでしょう。

(秀34)貞心公の孫。九条右大臣師輔男。摂政太政大臣正二位。和歌所の別当として梨壺の5人を監督する立場になり、 後撰集の編集に関与する。謙徳公の歌は、後撰集に2首、拾遺集に6首入首した後、4集(後拾遺集、金葉集、詞花集、千載集)に無く、 新古今集に10首、新勅撰集に9首撰ばれており定家好みなのかもしれません。

この歌は、身分の低い架空の役人に仮託し、女性との恋愛贈答を歌物語的に構成した「一条摂政御集」にある歌です。 どちらの歌も恋の歌とするより人生を述懐したものと捉える方が定家の意図に合ってるのかもしれません。
=上にもどる=
権中納言敦忠
百43(秀40)

逢ひ見ての
のちの心に
くらぶれば
昔はものを
思はざりけり


  
中納言朝忠
秀百44

逢ふことの
絶えてしなくは
なかなかに
人をも身をも
恨みざらまし
★中納言朝忠(910〜966) (拾遺集恋一678) 
☆もし逢うことがなかったら、相手の冷たさや自分の辛さを嘆いたりしなかったでしょうに。

(秀35)三条右大臣定方男。歌人として有名であり、天徳内裏歌合など歌合に列席している。 元々、この歌は「未逢恋」として詠んだものなのですが、定家は、「逢未逢恋」という解釈にしているようです。

<定家略年譜>で言及したように、定家44歳、新古今集撰集終功の竟宴に欠席したこと、つまり後鳥羽院と不協和音を奏で始めたので、 秀百不動番号にしたと思い込んでいました。
=上にもどる=
中納言朝忠
秀百44

逢ふことの
絶えてしなくは
なかなかに
人をも身をも
恨みざらまし


 

 T.12  = 源氏物語のモデル =

「いづれの御時にか」より始まる「源氏物語」のあまたさぶらう女御や更衣の一人、 桐壺の更衣って誰。繰り返される歴史の中で、モデルになるべき候補者は様々で、思い描く人それぞれに 思い描く人はいることでしょう。

(秀32)春道列樹の名前が宮道列子に似ていることを言及してから、 <北斗七星信仰>のサイトで不動番号の11首をオリオン座の三ツ星に例えた時に、 「万葉集」、「源氏物語」、「袋草紙」の三つに注目することが定家の意図なんだと思い至りました。

宮道列子が良門流の高藤のシンデレラとなって、生まれたお姫様、胤子は臣籍降下していた源定省に嫁ぎました。

臣籍降下した者は帝位につけないはずなのに、源定省は親王宣下をして皇太子となり、宇多天皇になったのです。 実は少し前に(秀12)陽成天皇が廃位し次の天皇を決める時、 (秀17)源融がそれを理由に帝位につけなかったのです。

お姫様の胤子が生んだ第一子が醍醐天皇です。しかし「延喜の治」と呼ばれた賢帝は ここでは登場しません。その親王である「天暦の治」と呼ばれた村上天皇も然りです。しかし、 朱雀天皇、冷泉天皇は実名で登場してます。

不動番号の19、20、32、の歌人、伊勢、元良親王、春道列樹がモデルになっていると 定家は思い巡らしていたんだろうなと思いながら、私なりに思い巡らしてみたのが下の図です。

(44)朝忠は、宇多天皇関係者(源氏物語の登場人物たち)と紫式部の良門流の家系を繋ぐ要でした。

 
文徳天皇の代に身分の低い紀名虎の娘である静子(更衣)がいました。天皇の寵妃であり、
第一皇子の惟喬親王((秀10)在原業平がついており、「伊勢物語」に登場する)を特に愛しておりました。
しかし、後ろ盾がなく、次の天皇に望むも諦めざるを得ませんでした。

更衣の静子は三条町(さんじょうのまち)と呼ばれ古今集に1首残してます。
★思ひせく 心のうちの 滝なれや 落つとは見れど 音のきこえぬ (古今集 雑上930)
・(この屏風絵は、)思いを堰き止めている心の中の滝なのでしょうか、落ちてはいるのですが音が聞こえないのは。
絵を題に詠まれた歌としては、もっとも古いもの。
仁明天皇と滋野縄子の第五皇子・
本康親王
本康親王の女・
廉子女王
======
|
時平 母・仁明天皇と沢子の第四皇子・人康親王女
父・基経
秀百20
元良親王
==== 京極御息所
(褒子)
=======



======= 温子 母・操子女王(嵯峨天皇孫)
父・基経
良門

  ___
  |
__|__
___
__
   |
(秀百32)
(春道列樹)
宮道列子
========
|
高藤 利基
 ||====
秀百19 伊勢 =========      __
    |
__|__
__
   |
|
 ||__
 ||
――中務
=============
|
胤子 秀35
定方
秀36
兼輔
 ||     ___
    |
____
    |
____
      |
____
      |
  __
|
____
|
__
   |
|
|
 ||==== 敦慶親王 敦実親王 | | | |
| 秀百44
朝忠
朝頼 定方女 =======
|
雅正
| | |   ――
  |
――
   |
源雅信
(母・時平女)

=========
|
朝忠女
穆子
為輔 為頼 為時
| | |
明子
(父・源高明)

=========
|
藤原道長
=============
|
倫子 宜孝
=========
|
====== (秀64)
紫式部
長家
(御子左家)
====
   ||
一条天皇中宮
彰子
(秀62)
大弐三位
|    ||
忠家   懿子よしこ(源高雅女) 源高雅は父・源守清、母・清正女 清正は(秀36)兼輔の次兄
 
光源氏のモデルとなった人は、非常に好色であった元良親王、 琴、弓に秀でた好色無双の美人と称された敦慶親王、音曲に優れた敦実親王など余多いると思うが、 源氏であり天皇であった宇多天皇その人が、桐壺帝であり、今上帝であり、光源氏だと思う。 先帝は、仁明天皇、文徳天皇。今上帝には、宇治十帖につながる花山天皇もモデルになっているかもしれない。

藤壺の女御は伊勢(天皇と、その親王と結ばれた)、明石の君は宮道列子、明石の姫君は胤子。彼女たちは、 受領の娘であった紫式部たちのあこがれのヒロインだったと思います。


 =上にもどる=

  
清原元輔
秀45(百42)

契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山
波越さじとは
★清原元輔 (908〜990) (後拾遺集 恋四770)
☆約束したでしょ。何度も袖を濡らしながら、あの末の松山が波を越さないように、私たちの仲も末長く変わるまいと思っていたのに。

元輔は、専門歌人として、高官の家に出入りし、多くの歌を詠じている。(秀43)で述べたように謙徳公は和歌所の別当。 元輔たち梨壺の五人は、後撰集(村上天皇御時、951年)の編纂と共に万葉集に訓点をつけた。

この歌は、その詞書「心かはりて侍りける女に人にかはりて」より、代作したと分かる。謙徳公の歌は、「一条摂政御集」にあり、 実際は全然違うと思うが、女から捨てられた男の孤独な弱い心を詠んでいるので、一応どちらも男の失恋の歌。
=上にもどる=
謙徳公
百45(秀43)

あはれとも
いふべき人は
思ほえで
身のいたづらに
なりぬべきかな

                   
梨壺の五人   親子関係 
1 源順☆
2 紀時文 1  紀貫之(秀28)の男 
3 坂上望城 2  坂上是則(秀29)の男 
4 清原元輔(秀45) 3  清原深養父(秀33)の孫
4  清少納言(秀60)の父
5 大中臣能宣(秀48) 5  伊勢大輔(秀65)の祖父
 
☆源順(911-983)は、漢詩や和歌に優れ、 梨壺の五人の一人として「万葉集」の訓点作業と「後撰集」の撰集作業に参加した。 天徳四年(960)の内裏歌合い(T.11=天徳内裏歌合=)の参加メンバーの一人。

源高明のサロンに出入りしていた関係か安和二年(969)の安和の変(T.14=一条朝前後=)以後は散位生活を送る。 特に斎宮女御・徽子女王とその娘・規子内親王のサロンには親しく出入りし、 977年の斎宮・規子内親王の伊勢国下向の際も群行に随行している。
 
  
源重之
秀46(百48)

風をいたみ
岩うつ波の
おのれのみ
くだけてものを
思ふころかな
★源重之 (908〜990) (詞花集 恋上211)
☆風が激しいので、岩を打つ波が、岩は平気で、波のような自分だけが心も千々に砕けて物思いするこの頃です。

清和源氏。冷泉天皇の東宮時代の帯刀先生(東宮警護の士の長)。東宮時代(950-967)(天暦、天徳、応和、康保)年間に百首を奉った中の1首。 この百首の歌は百首歌では最古のものと言われている。曾禰好忠(秀47)らと親交があり、実方(秀50)の陸奥赴任には随った。実方の没後も留まり、そこで没した。

岩が相手の冷淡さ、頑なに閉ざされた心を喩えていて、自分の身の拙さを思い知らされていますし、 漂うばかりの行方が分からない恋の道と、どちらも暗澹とした思いに包まれています。
=上にもどる=
曽祢好忠
百46(秀47)

由良のとを
渡る舟人
かぢを絶え
行く方も知らぬ
恋の道かな


  
曽祢好忠
秀47(百46)

由良のとを
渡る舟人
かぢを絶え
行く方も知らぬ
恋の道かな
★曽祢好忠 (923?〜1003?) (新古今集 恋一1071)
☆由良の瀬戸を漕いでゆく船頭が、かいを失って行方も分からず漂うように、どこへ向かうのか、どのようになるかも分からない私の恋の道ですよ。

花山天皇の代の歌人。頑なな性格だったようで、寛和元年(985年)、円融院の子の日の御幸(平兼盛・大中臣能宣・清原元輔・源重之・紀時文らが参加)に呼ばれてもいないのに参上して追い出されたりした話が残っている。

「好忠百首」は、重之の百首歌と同様に初期の百首歌の一つです。「曾丹集」が残っており、先ほどの「好忠百首」や 1日1首の割で360首を配列した「毎月集」などがあります。詞花集や新古今集に多く入首しているので歌風は後に認められたようです。

誰もやって来ず、明日の自分の行方も分からない状態でも、不変的に訪れるものの中で身の小ささを感じ取るばかりです。
=上にもどる=
恵慶法師
百47(秀52)

八重葎
茂れる宿の
寂しきに
人こそ見えね
秋は来にけり


  
大中臣能宣朝臣
秀48(百49)

みかきもり
衛士のたく火の
夜は燃え
昼は消えつつ
ものをこそ思へ
★大中臣能宣朝臣 (921〜991) (詞花集 恋上225)
☆恋に悩む私は、御垣守の衛士がたく火が夜は燃えて、昼は消えているのと同じように、昼間は消え入るように毎日物思いに沈んでいます

大中臣氏は代々祭祀を司る家系です。父の頼基と同じく三十六歌仙の一人で、輔親・伊勢大輔(秀65)・康資王母・安芸君へと連なる六代相伝の歌人です。

古今集、後撰集の編纂に関わった人たちや専門歌人たちの終焉を迎えようとしています。
=上にもどる=
源重之
百48(秀46)

風をいたみ
岩うつ波の
おのれのみ
くだけてものを
思ふころかな

 
   
 T.12  = 大和物語 =
大和物語は10世紀中頃に成立し、通常173段の章段からなる歌物語です。前編と後編から成り、前編は、

宮廷歌物語、後編は、伝説や口碑による悲話などが語られています。

宇多天皇の出家間近の伊勢(19)の悲しみの歌に始り、遍昭(秀15)の出家と放浪に終わります。

作者は分かっていませんが宇多天皇サロンの中心人物から考えると(19)伊勢と娘の中務ではないかと思います。

(大和物語の人々 雨海博洋、ヤマザキ正伸、鈴木佳與子 笠間選書 116 昭和54年発行)

 古今集‐‐‐‐‐‐‐‐伊勢物語 (惟喬親王、在原氏、紀氏)

 後撰集‐‐‐‐‐‐‐‐大和物語前編 (宇多上皇、醍醐天皇、親王、藤原氏)

ところで、源重之(秀46)は10世紀末に没した人ですが、重之がこの物語の関係人物の中で没年順では

一番遅い人になります。大和物語の中の歌のみならず語りの箇所だけの登場や姻戚関係など関係する歌

人は、100人余りいますが、そのうち20人(5X4)が、「百人秀歌と百ト一首」に入っています。

しかし、歌は一首しか撰ばれていません。

(大和物語 全訳注 雨海博洋・岡山美樹 講談社学術文庫 2006年発行)参考
           
忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな  右近(秀39)
1 人麻呂(3) 2 在原業平(秀10) 3 陽成院(秀12) 4 小野小町(秀13) 5 僧正遍昭(秀15)
6 伊勢(19) 7 元良親王(20) 8 源宗之朝臣(秀21) 9 壬生忠岑(秀24) 10 凡河内躬恒(秀25)
11 紀友則(秀26) 12 紀貫之(秀28) 13 貞信公(秀34) 14 三条右大臣(秀35) 15 権中納言兼輔(秀36)
16 右近(秀39) 17 中納言敦忠(秀40) 18 平兼盛(秀41) 19 中納言朝忠(44) 20 源重之(秀46)
 
定家が二つの歌集を編んだ時に同じく編纂した「新勅撰集」においては「五」に関するものがあるかどうか調

べてみました。大和物語173段より15段(5X3)、16首の歌を撰んでいます。それらの歌を詠んだ13人の歌人

のうち5人(5X1)がこの歌集に入ってます。     =上にもどる=
                      
大和物語の段数 歌番号 新勅撰集     歌人名
106段 161  14巻 恋四・875 1   元良親王 (20) 
39段 52  13巻 恋三・820 2   源宗干朝臣 (秀21) 
5段 8  14巻 恋四・884 3   凡河内躬恒 (秀25) 
29段 41   4巻 秋上・243 4   三条右大臣 (秀35) 
71段 103  18巻 雑三・1225 5   権中納言兼輔 (秀36) 
35段 48  19巻 雑四・1265   権中納言兼輔
36段 49   7巻 賀・453   権中納言兼輔


  
藤原義孝
秀49(百50)

君がため
惜しからざりし
命さへ
長くもがなと
思ひぬるかな
★藤原義孝 (954〜974) (後拾遺集 恋二669)
☆あなたと逢うことが出来れば死んでも惜しくないと思った私ですが、あなたと逢った後、今では末永く逢いたい思うようになりました。

義孝は、謙徳公伊尹(秀43)男。父、謙徳公が蔵人頭をめぐって中納言朝成((44)朝忠弟)と争い、敗北した朝成は、「この族永く絶たなむ。...」と言い残して悪霊になった。その為 義孝は長生きしないだろうと思っていたらしい。実際は、二人とも蔵人頭になっているし、朝成は謙徳公より長生きした。

謙徳公自身は、摂政太政大臣正二位、円融天皇の叔父、花山天皇の祖父として最高の地位にいたが48歳と意外な短命だった。

義孝男(謙徳公孫)に三蹟の一人と言われた行成がいる。以後、世尊寺家として書道を世業として続いていく。

義孝には一つ年上の兄に挙賢(たかかた)がおり、挙賢を前少将、義孝を後少将と呼ばれた。974年、疱瘡の流行りにより、兄の挙賢が朝に亡くなり、夕方に義孝が亡くなった。21歳の若さでした。

短命であったがゆえに余計にこの後朝の歌の余剰さを深めています。御垣守の衛士のような力強さを感じさせる生命の炎を燃やしていてたらなあと感じさせる薄命の貴公子でした。

この(秀49)と次の(秀50)の中で御垣守の衛士の炊く火の勢いと、次の伊吹山のさしも草のような胸に余りある思ひの歌に合わされています。 義孝は、大変信心深い人で、亡くなる時にまだ法華経を読み終えていないから火葬にしないでと頼んだ。しかし、不注意で火葬してしまったので、母の夢に現れて、

しかばかり契りしものをわたり川帰るほどには忘るべしやは (後拾遺集 哀傷598)と詠んだ。 
・あれほど固くすぐには納棺しないでほしいと約束したのに、私が三途の川から引き返すそれほどの間に、 もう忘れてしまってよいのでしょうか。
=上にもどる=
大中臣能宣朝臣
百49(秀48)

みかきもり
衛士のたく火の
夜は燃え
昼は消えつつ
ものをこそ思へ


  
藤原実方朝臣
秀50(百51)

かくとだに
えやはいぶきの
さしも草
さしも知らじな
燃ゆる思ひを
★藤原実方朝臣 (958?〜998)  (後拾遺集 恋一612)
☆このようにあなたに恋していると言えませんから、伊吹山のさしも草のように燃える私の思ひも知らないでしょう。

円融天皇御時、花山天皇御時に活躍したが、藤原行成(藤原義孝(秀49)男)と殿上で争って、一条天皇から「歌枕をみてまいれ」と言われて左遷されたと言う説話があるが、 行成の日記「権紀」によると盛大な見送りをされたと記してある。40歳位で任地国の陸奥で没した。
=上にもどる=
藤原義孝
秀49(百50)

君がため
惜しからざりし
命さへ
長くもがなと
思ひぬるかな


  
藤原道信朝臣
秀51(百52)

明けぬれば
暮るるものとは
知りながら
なを恨めしき
朝ぼらけかな
★藤原道信朝臣 (972〜994) (後拾遺集 恋二672)
☆夜が明ければ、また夜が来て逢えると分かっていてもそれでも恨めしい別れの夜明け方です。

道信は、師輔男の太政大臣為光の男。貞信公(秀34)のひ孫になる。母は、謙徳公(秀43)女。実方(秀50)や公任(秀59)と特に交流があり、「いみじく和歌の上手」と言われたが、当時の流行り病によって 23歳の若さで亡くなった。

異母兄の一人に一条朝の四納言と称された、枕草子に度々出てくる斉信(たたのぶ)がいます。 公任(秀59)、行成(義孝(秀49)男)、源俊賢と共に藤原道長の腹心の一人として一条天皇の治世を支えました。

花山天皇の女御に婉子女王がおり、父は為平親王(村上天皇皇子)、母は源高明(醍醐天皇皇子)女です。花山天皇が出家したので、16歳で宮中を退出しました。一条天皇の蔵人頭であり、参議となった 15歳ほど年上の実資と恋争いをしたが所詮勝ち目はありませんでした。

嬉しきは如何ばかりかは思ふらん憂きは身にしむものにぞありける (詞華集 恋上) 
・恋を得た人はどんなにか嬉しいかと思います。それに引き換えて私の辛さは身に沁みることですよ。

道信が亡くなって4年後に婉子女王も27歳で夭折しました。

秀39よりここまで13首がすべて「恋」の歌です。
=上にもどる=
藤原実方朝臣
百51(秀50)

かくとだに
えやはいぶきの
さしも草
さしも知らじな
燃ゆる思ひを

 
   
 T.13   = 思ひ =
 この集には、似通った語句が多く散りばめられていることでも知られています。 ここで「思」という言葉が含まれている歌を取り出してみました。秀20から秀88まで69首の中に20首(5X4)あります。そして「百ト一首」だけに後鳥羽院の歌があります。

                                                                                                                            
1 秀20 わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思ふ (百20)  元良親王
2 秀21 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば (百28)  源宗之朝臣
3 秀39 忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな (百38)  右近
4 秀40 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり (百43)  中納言敦忠
5 秀41 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで (百40)  平兼盛
6 秀42 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか (百41)  壬生忠見
7 秀43 あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな (百45)  謙徳公
8 秀46 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな (百48)  源重之
9 秀48 みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ (百49)  大中臣能宣朝臣
10 秀49 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひぬるかな (百50)  藤原義孝
11 秀50 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを (百51)  藤原実方朝臣
12 秀61 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな (百56)  和泉式部
13 秀68 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな (百63)  左京大夫道雅
14 秀71 もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし (百66)  前大僧正行尊
15 秀77 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われて末にも あはむとぞ思ふ (百77)  崇徳院御製
16 秀78 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ (百80)  待賢門院堀河
17 秀83 思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり (百82)  道因法師
18 秀85 夜もすがら もの思ふころは 明けやらぬ 閨のひまさへ つれなかりけり (百85)  俊恵法師
19 秀87 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる (百83)  皇太后宮大夫俊成
20 秀88 嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな (百86)  西行法師

 
21 人も愛し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は (百99)  後鳥羽院

☆人が愛おしくも思われ、人が恨めしくも思われます。思うようにならないこの世を思うことから色々と物思いにふける私です。
この歌は、建暦二年(1212)に詠まれた述懐の歌の一首。為家撰「続後撰集 雑中1202 だいしらず 後鳥羽院御製」としてあります。


          =上にもどる=
            
  
恵慶法師
秀52(百47)

八重むぐら
茂れる宿の
寂しきに
人こそ見えね
秋は来にけり
★恵慶法師 (950?〜1000?)  (拾遺集 秋140)
☆むぐらが幾重にも生い茂るさびしいこの家に人は誰も訪ねてきませんが秋だけはやはりやって来ました。

恵慶法師は、花山天皇の頃の人です。兼盛(秀41)、重之(秀46)や後撰集編纂時に関わった人たちと親交があり、この歌は河原左大臣(源融(秀17))邸宅が100年後くらいに 荒れ果てているに秋来たるという心を詠んだものです。源融の子孫にあたる安法法師が住んでおり、10世紀末の中下流歌人たちと風流に交わっていたとのことです。河原院は、のちに「源氏物語」の 六条院の舞台となりました。

道信は21歳の時に父為光を亡くし、1年喪に服して、喪服をぬぐときに詠んだ歌。 
限りあればけふぬぎすてつ藤衣はてなきものは涙なりけり (拾遺集 哀傷1293)
・喪の期間には期限があるので今日脱ぎ捨てました。でも限りがないのは、亡き父を悲しむ涙でした。
=上にもどる=
藤原道信朝臣
百52(秀51)

明けぬれば
暮るるものとは
知りながら
なを恨めしき
朝ぼらけかな


   
 T.14  = 一条朝前後 = 

貞観八年(866)の「応天門の変」、昌泰四年(901)の「昌泰の変」などの<T.3他氏排斥>の後、藤原家は藤原四家同士や 臣籍降下をした源氏の排斥、兄弟同士と、天皇の外戚となるための争いを続けていきます。
事件、変 略伝  
969年
安和二年
安和の変 藤原氏による他氏排斥事件。謀反の密告により醍醐天皇の第十皇子である左大臣源高明が失脚させられた。

村上天皇の崩御後に冷泉天皇が即位した。まだ幼く子供がいないので、皇太子弟として、高明娘を妻とする弟の為平親王と、 藤原兼家女を妻とするさらに若い弟の守平親王をめぐっての両家の争い。数年後に守平親王が円融天皇となる。

妻の師輔3女との間に源俊賢(一条朝四納言の一人)。師輔5女の愛宮との間に源経房と明子。経房は、 枕草子に左中将として登場し、枕草子を世に広めた人として伝わる。また、娘の明子は道長室となる。その子、長家が御子左家の祖。

愛宮は変後に離別し、出家して桃園に住んだことが「蜻蛉日記」より分かる。娘の明子は、叔父の盛明親王の養女となり、 東三条院(円融天皇女御、一条天皇母)の庇護を受けた。
986年
寛和二年
寛和の変   花山天皇の退位と出家に伴う政変。 円融天皇の子供である東宮懐仁親王(後の一条天皇)を即位させ、 外祖父になりたい藤原兼家が企てたこと。

兼家の叔父である実頼の息子、円融、花山両天皇の関白だった藤原頼忠は、天皇の外戚になることも出来なかったので失脚した。 これにより息子の公任(秀59)の昇進は滞るようになった。

また、この事件の為に、花山天皇の親王時代に学問を教え、 当時式部丞になっていた紫式部(秀64)の父、藤原為時は失職し、以後10年余り散位となった。為時兄の為頼も花山朝に順調に昇進したが 変後は停滞した。長徳2年(996)、太皇太后宮大進に任ぜられ、太皇太后・昌子内親王に仕えた。

昌子内親王(950-1000)は、朱雀天皇第一皇女で冷泉天皇中宮。摂関家出身の女御に遠慮して里邸で過ごした。和泉式部(秀61)の母が傍に仕え、 夫の橘道貞邸にて崩御。
996年
長徳二年
長徳の変 中関白家の内大臣、藤原伊周と弟の隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件。

伊周の誤解により、 花山法王を矢で射ってしまった。これにかこつけて、道長は、伊周、家隆を流罪にして失脚させ、 母の儀同三司母(秀55)、妹の一条院宮定子(秀53)は、不遇の中で亡くなった。お傍に清少納言(秀60)がいた。
1011年
寛弘八年
敦康親王 敦康親王は一条天皇の第一皇子でありながら母の定子(秀53)、叔父の伊周の死後、後ろ盾がなかった。 天皇は、譲位後に敦康親王の東宮を望んだが、藤原行成は文徳天皇の惟喬親王の例を挙げて止めさせた。

三条天皇(秀54)即位と共に東宮は、 道長女の彰子出生の敦成親王(後一条天皇)となった。行成は、敦康親王(999-1019)が亡くなるまで家司として仕えた。 行成は謙徳公(秀43)の孫、義孝(秀49)の男。

親王には、具平親王の次女との間にゲン子女王がおり、女王は後朱雀天皇中宮となる。その長女の祐子内親王には、長家が別当として、祐子内親王紀伊(秀74)、 菅原孝標女(更級日記)、相模(秀75)などがお傍にいた。
1016年
長和五年
 
小一条院 三条天皇(976-1011〜1016-1017)(秀54三条院)は即位後数年たって眼病を患い(1014)、内裏が二度にわたって消失した。 道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。 病状の悪化もあり、三条天皇は第一皇子の敦明親王(小一条院)の東宮を条件に、 敦成親王(後一条天皇)に譲位した。翌年、42歳で崩御した。

後一条天皇の即位に伴い、敦明親王(小一条院)が東宮になったが、数か月後に東宮を辞退した。

紫式部父の為時は、1014年に任期を1年残して越後守を辞退し帰京。1016年に出家した。

源高明失脚後、兼家は従兄、兄弟と争い、四男の道長は、兄弟の思わぬ病死の後、最後に勝ち残りました。
(秀34)貞心公(忠平880-949)以降、師輔、兼家、道長、頼通、師実、師通、忠実と紆余曲折は有りながらも直系の摂関家は続きますが、 (秀79)法性寺入道前関白太政大臣(忠通1097-1164)までの200年間の摂関家からの歌が一首もありません。
定家は、忠平や忠通を敗者とみなしていたのでしょうか。
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