正面玄関 ★≪百人秀歌と百ト一首≫ ★≪最勝四天王院≫ ★≪北斗七星信仰≫ ★≪定家略年譜≫ ★≪二つの歌集とは


      
◆ 二つの歌集とは      (2025/3/24)更新中 64紫式部まで

歌人の前の番号は百人秀歌番号です
28紀貫之は延長八年(930年)土佐守として赴任する直前のころ、 醍醐天皇から古今の秀歌を選抜するようとの勅命を36兼輔より伝えられた。 土佐在任中に秀歌集「新撰和歌集」は完成したが承平五年(935年)任終えて帰京すると、すでに天皇は亡く、 36兼輔も承平三年(933年)に亡くなっていたので奉覧とはならなかった。

春・秋120首、夏・冬40首、賀・哀20首、別・旅20首、恋・雑160首。360首を収める。 それぞれの題の歌を1首ずつ交互に並べて、歌人名も詞書も一切ないものです。 ほとんどが「古今集」から撰ばれていますがそうでないものもあります。

100定家もこの二つの集には歌人名も詞書も記していません。両集合わせて105首から共通番号を持つ11首を除いて、 94首でもって90組を左右に配しました。

「部立て」や「詠題」にとらわれることなく、 表記されていない歌人たちの思ひやその時代をおのずと浮かび上がらせながら自分自身の生涯を上乗せしたのですね。 人の一生はあざなえる縄のごとし、人生の禍福は表裏一体となすものであり、いつの時代でも変わることはないのですね。

ちなみに、100定家は「古今集」から24首選び出してますが、<「百人秀歌」と「百ト一首」>のページの末のある「各勅撰集の部立て別105首の歌」参照。 その内9首は、紀貫之も「新撰和歌集」に撰んでいます。 もう1首探しましたら、101為家撰の「続後撰集」にありました。合わせて10首(5X2)ですね。
古今集部立て 歌人名 新撰和歌集通し番号
春上21 18光孝天皇 29
秋下303 32春道列樹 90
秋下277 25凡河内躬恒 100
続後撰集 賀1350 読人しらず 179
離別365 9在原行平 181
羇旅406 6安倍仲麿 182
羇旅407 7小野篁 186
羇旅420 23菅原道真 192
雑上909 31藤原興風 204
雑上872 15僧正遍昭 216
 
 ◆ 目 次
 
5大伴家持=猿丸大夫 6安倍仲麿=大伴家持 7小野篁=安倍仲麿 8猿丸大夫=喜撰法師 9在原行平=小野小町
10在原業平=蝉丸 11藤原敏行=参議篁 12陽成院=僧正遍昭 13小野小町=陽成院 14喜撰法師=源融
15僧正遍昭=光孝天皇 16蝉丸=在原行平 17源融★=在原業平 18光孝天皇=藤原敏行 21源宗干=素性法師
22素性法師=文屋康秀 23菅原道真★=大江千里 24壬生忠岑=菅原道真 25凡河内躬恒=藤原定方 26紀友則=藤原忠平
27文屋康秀=藤原兼輔 28紀貫之=源宗干 29坂上是則=凡河内躬恒 30大江千里=壬生忠岑 31藤原興風=坂上是則
33清原深養父=紀友則 34藤原忠平★=藤原興風 35藤原定方★=紀貫之 36藤原兼輔=清原深養父 37参議等=文屋朝康
38文屋朝康=右近 39右近=参議等 40藤原敦忠=平兼盛 41平兼盛=壬生忠見 42壬生忠見=清原元輔
43藤原伊尹★=藤原敦忠 45清原元輔=藤原伊尹 46源重之=曾禰好忠 47曾禰好忠=恵慶法師 48大中臣能宣=源重之
49藤原義孝=大中臣能宣 50藤原実方=藤原義孝 51藤原道信=藤原実方 52恵慶法師=藤原道信 53一条院皇后宮=道綱母
54三条院=儀同三司母 55儀同三司母=藤原公任 56道綱母=和泉式部 57能因法師=紫式部 58良暹法師=大弐三位
59藤原公任=赤染衛門 60清少納言=小式部内侍 61和泉式部=伊勢大輔 62大弐三位=清少納言 63赤染衛門=藤原道雅
64紫式部=藤原定頼 65伊勢大輔=相模 66小式部内侍=大僧正行尊 67藤原定頼=周防内侍 68藤原道雅=三条院
69周防内侍=能因法師 70源経信=良暹法師 71大僧正行尊=源経信 72大江匡房=祐子内親王紀伊 73源国信=大江匡房
74祐子内親王紀伊=源俊頼 75相模=藤原基俊 76源俊頼=藤原忠通 78待賢門院堀河=源兼昌 79藤原忠通★=藤原顕輔
80藤原顕輔=待賢門院堀河 81源兼昌=藤原実定 82藤原基俊=道因法師 83道因法師=藤原俊成 86藤原実定★=西行法師
87藤原俊成=寂蓮法師 88西行法師=皇嘉門院別当 89皇嘉門院別当=式子内親王 90藤原長方=殷富門院大輔 91殷富門院大輔=藤原良経
92式子内親王=二条院讃岐 93寂蓮法師=源実朝 94二条院讃岐=藤原雅経 95藤原良経★=前大僧正慈円 96前大僧正慈円=藤原公経
97藤原雅経=藤原定家 98源実朝★=藤原家隆 99藤原家隆=後鳥羽院 100藤原定家=順徳院 101藤原公経★=藤原為家
17源融★=河原左大臣  23菅原道真★=菅家  34藤原忠平★=貞心公   35藤原定方★=三条右大臣  43藤原伊尹★=謙徳公
79藤原忠通★=法性寺入道前関白太政大臣  86藤原実定★=後徳大寺左大臣  95藤原良経★=後京極摂政前太政大臣  
98源実朝★=鎌倉右大臣  101藤原公経★=入道前太政大臣
    
 
 ◆ 二つの歌集の歌人たち

大伴家持
秀5(百6)

鵲の
渡せる橋に
おく霜の
白きを見れば
夜ぞふけにける
★中納言家持 (718?〜785) (新古今集 冬620) 
☆美しく冴えた冬の空に見える天の川をかささぎが橋を架け渡したという七夕伝説を思い起こさせながら澄み切った夜がすっかり更けたこと詠っている。

この歌は家持の歌ではないが、3人麿や4赤人と同じく、平安時代にできた「家持集」に入っているので、「新古今集」に家持の歌として選ばれた。 この歌は「万葉集」に入っていない。

1天智天皇から4山辺赤人までどちらの集も同じ歌ですが、この秀5の歌から次々と歌番号がリンクしていきます。<北斗七星信仰>参照。 トピック<T.6=他氏排斥事件=>で言及してますが、 8猿丸大夫が伴健岑だとすると、ここで「藤原種継暗殺事件」と「承和の変」での悲劇の人が合わされています。

空を舞う鵲と大地を踏みしめる鹿、霜の白さと木々の黄葉、澄み切った夜空の無音の 静寂とカサカサと落葉を踏み分ける音、それぞれの歌の視覚と聴覚を研ぎ澄ました対照的な歌を並べてます。     =上にもどる=
猿丸大夫
百5(秀8)

奥山に
もみぢ踏み分け
なく鹿の
声聞くときぞ
秋はきにけり


安倍仲麿
秀6(百7)

天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも
★ 安倍仲麿 (698〜770) (古今集 羇旅406)
☆大空を見上げると、月がのぼっている。これは我が故郷、春日の山に出た月と同じなのだろうか。

仲麿と家持は、天武天皇系の時代の人だが、仲麿は、家持が生まれる前年?(717年)に遣唐使となり、753年11月に一度帰国を試みた。 その時、皆が別れの宴を開いてくれ、その宴席で昇ってきた月を見て、この歌を詠んだとされている。しかし船が難破し漂流したのち唐に戻り、その後帰国することなく唐で没した。

唐の国では、帰国を夢見た仲麿が東から昇ってきた月を見て詠んでいる時に、日本の宮中では、冬の澄み切った夜空にかかるかささぎの渡せる橋の白さを見上げていると思えば、 雄大な天空で二つの歌は見事に織り合わさっていますね。
  =上にもどる=
大伴家持
百6(秀5)

鵲の
渡せる橋に
おく霜の
白きを見れば
夜ぞふけにける


参議篁
秀7(百11)

わたの原
八十島かけて
漕ぎ出でぬと
人には告げよ
海人の釣船
★ 参議篁(小野篁) (802〜852) (古今集 羇旅407)
☆大海原の多くの島々をかけて漕ぎだしたよと、都にいる妻や子供たちに伝えておくれ海人の釣り船よ。

小野篁は832年に遣唐副使を拒否して、嵯峨上皇の怒りをかい隠岐に配流となる。旧暦12月、現代の暦の年末から2月にかけての時期なので冬に詠まれた歌である。 冬の日本海に漕ぎだすのは暗澹たる心持ちだったと思うが、2年後には許されて帰京し参議従三位に昇った。 承和の変(842)により道康親王(のちの文徳天皇)が東宮になるとその東宮博士に任じられた。

◎承和の変、淳和上皇の皇子恒貞親王が東宮を排され、仁明天皇の皇子道康親王(文徳天皇)が東宮となった。 トピック<T.6=他氏排斥事件=>

遠く離れた流罪地より一日千秋の思いで帰京できる日を待って月を眺めたと思うが、同じ方向を見ながらも、 篁は平安京を思ひ、仲麿は平城京を思っていたでしょうね。

この二つの歌は、「古今集・羇旅」の部立ての巻頭歌を安倍仲麿が、2首目を参議篁が飾っています。羇旅・別離の部立ての歌を調べてみると全部で5首(5X1)ありました。 それぞれの歌人たちは、皆何かしらの悲劇性を持っていますね。トピック<T.5=羇旅・別離=>参照。
   =上にもどる=
安倍仲麿
百7(秀6)

天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも


猿丸大夫
秀8(百5)

奥山に
もみぢ踏み分け
なく鹿の
声聞くときぞ
秋はきにけり
★ 猿丸大夫 (生没年不詳) (古今集 秋上215 よみ人知らず)
☆山深く黄葉を踏み分けて立ち入ると、妻を求めて鳴く鹿の声が聞こえてきて、秋の悲しさが身に染みることです。

古来、この歌は黄葉を踏み分けるのは人なのか鹿なのか問われてきました。折々に解釈が異なっても良いのではないかと思います。

5家持と猿丸大夫 の考証では、奥山を歩くのは鹿として視覚、聴覚の対比を楽しみましたが、ここでは孤独な人と解釈してみました。 孤高の老人が世間の噂を跳ね除け、高潔に暮らしながらも世からは逃れられない一抹の不安がにじみ出てくるようです。

トピック<T6=他氏排斥事件=>での「承和の変」の伴健岑と「応天門の変」で述べている喜撰法師こと紀夏井と組み合わせて配流になった悲劇の人が組み合わさっています。
   =上にもどる=
喜撰法師
百8(秀14)

わが庵は 
都のたつみ
しかぞすむ 
世をうぢ山と
人はいふなり


中納言行平
秀9(百16)

立ち別れ 
いなばの山の
 峰に生ふる
 まつとし聞かば 
今帰り来む
★ 在原行平 (818〜893) (古今集 離別365)
☆今、お別れして因幡の国へ旅立ちますが、 その因幡にある稲葉山に生えている松のように私を待っていると聞いたら、すぐにでも帰ってきます。

文徳天皇の時代(850−858)に一時須磨に蟄居している時に詠んだ歌。
「古今集」(雑下962)
わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ 
・もしもまれに私の消息を尋ねる人がいたならば、須磨の浦で塩をとるために海藻にかけた海の水さながらに涙を流しながら嘆いていると答えてください。

行平は、平城天皇の皇子阿保親王の子。父阿保親王は、トピック<T.6=他氏排斥事件=>での「薬子の変」(810年)に連座して大宰権帥として左遷されたが平城天皇崩御の後に嵯峨天皇により 帰京を許された(824年)。行平は、826年に異母弟の10業平と共に在原姓を与えられ臣籍降下した。

881年在原氏の学問所として奨学院を設立し、880年代中ごろに現存最古の「在民部卿家歌合」を主催した。 行平は10業平とは全く違った無骨な生き方をした。

7小野篁(802〜852)は六歌仙の時代より前の時代に活躍し、9行平は、六歌仙と同じ時代であった。7小野篁ともども和漢兼才であり、 悲劇の人のイメージがあるが、官位は順調に昇進し官僚型であったようだ。しかし政治の頂点に立つことはできない人生でした。

「承和の変」、「応天門の変」などによる藤原氏の他氏排斥事件と同様に、文徳天皇の第一子惟喬親王(小野宮)は、 母(静子)が紀氏出のため後ろ盾が弱く、藤原良房に太刀打ちできず春宮になれませんでした。

紀静子(?〜866)は、紀名虎の娘で三条町と呼ばれた。姉の種子は仁明天皇の更衣。妹は11敏行の母。 兄に有常がいる。その有常の娘二人が10業平と11敏行の妻となっている。

松は常緑の木なので、永久とか不変という意味を表し、花の女性に対して男を表している。ずっと眺めている花は、しづ心なく散る桜ではなくて藤の花かな。
=上にもどる=
小野小町
百9(秀13)

花の色は
 うつりにけりな
 いたづらに
 わが身世にふる
 ながめせしまに


在原業平朝臣
秀10(百17)

ちはやぶる 
神代も聞かず 
竜田川 
からくれなゐに
 水くくるとは
★ 在原業平朝臣 (825〜880) 六歌仙 (古今集 秋下294)
☆神代にも聞いたことがない。竜田川を真っ赤な紅葉が川面を敷き詰め、川の水はその下を潜っているとは。

清和天皇の女御となった藤原基経の妹である高子が御息所(陽成院の東宮時代)と呼ばれていた頃に、御屏風に描かれた紅葉の絵を題にして詠んだものである。 業平は、文徳天皇の時代には官位も上がらず不遇であったが12陽成天皇の代には蔵人頭になる。しかしその翌年に亡くなった。9行平と異母兄弟。在五中将、在中将と呼ばれた。

前トピックで述べた文徳天皇第一皇子の惟喬親王(844〜897)に仕えていた。業平は、「伊勢物語」の主人公と言われたりしている。

五句の「みすくくるとは」は、古来「括る」のか「潜る」のか問われてきているが、100定家としては潜るの方らしい。 「みす」も「水」より「御簾」として、逢瀬をかさねた人がもう手の届かない所へ行ってしまったと解釈した方が物語的にドラマチックだ。 伊勢に行ったり、東国に行ったり、物語は色々残るが実像はどのようであったのか

代表歌
「古今集」 (春上 53)
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

「古今集」 (恋五 747) 「伊勢物語」(四段)
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして

「古今集」 (恋三 632) 「伊勢物語」(五段)
人知れぬ 我が通ひ路の 関守は 宵々ごとに うちも寝ななむ
・人に知られないで密かに私が通う路の番人は、夜ごと居眠りでもしててほしいものだ。

これらの代表歌が撰ばれなかった理由は<北斗七星信仰>のページで述べた通りです。
=上にもどる=
蝉丸 
百10(秀16)

これやこの 
行くも帰るも
 別れては 
知るも知らぬも
 逢坂の関 


藤原敏行朝臣
秀11(百18)

すみの江の
 岸による波
 よるさへや
 夢の通ひ路
 人目よくらむ
★ 藤原敏行朝臣 (830?〜901?) (古今集 恋二559)
☆住ノ江の岸に寄る波のように寄る部屋へ通う路を夢の中でさえ人目を避けようとしておられるのですか。

 藤原南家の出であり書家として有名。清和、12陽成、18光孝、宇多、醍醐朝に仕える。小野道風(894〜967)が空海とともに古今最高の能書家として名を挙げた。 しかし現存する書は、神護寺鐘銘だけである。因みに、小野道風は、7参議篁の孫である。

夜によせてくる浪と船出にひいていく浪。どちらも物思ふ浪です。

敏行には次の有名な歌がある。
「古今集」 (秋上169)
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる 
・秋が来たと目にははっきりと見えないけれど、風の音にハッとその到来に気がついたのだった。

敏行は、「宇治拾遺物語」によれば、多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りを書いたが、魚を食するなど、不浄の身のままで書写したので、 地獄に落ちて苦しみを受けたという。また、亡くなった直後に生き返り自らお経を書いて、再び絶命したという伝説もあったりる。

参議篁も夜になると地獄に行って閻魔大王の補佐をしたり、地獄に落ちた者を助けたなどと物語になっているが、どちらも地獄の話が出てくるのはそれだけ個性が強かったのか。

「古今集」 (哀傷833) 紀友則
 藤原敏行朝臣の身まかりにける時に、よみてかの家につかはしける   
寝ても見ゆ 寝でもみえけり おほかたは うつせみの世ぞ 夢にはありける
・寝ていても目覚めていても亡き人の姿が見える。夢と現実との差がないということは、大体のところ、現世の方こそ夢なのでしょう。

「古今集」において、藤原氏の名がつくものは21人いるが、敏行と31興風の二人は19首、17首と断トツに多く、 ほかは4首以下である。紀氏に近い敏行の藤原南家と、31興風の藤原京家は藤原四家の中では滅びていく家でした。
   =上にもどる=
参議篁(小野篁) 
百11(秀7)

わたの原 
八十島かけて 
こぎ出でぬと
 人には告げよ
 あまのつり舟


陽成院御製
秀12(百13)

筑波嶺の
峰より落つる
みなの川
恋ぞつもりて
淵となりける
★ 陽成院御製 (869〜876ー884〜949) (後撰集 恋三776)
☆筑波山の嶺から流れ落ちてくるみなの川の水が積もり積もって淵となるように、あなたへの恋も淵のように深い思いになってしまった。

「釣殿のみこ」に送った歌。「釣殿のみこ」は18光孝天皇の皇女綏子(すいし)内親王のことです。18光孝天皇は最初、子供たちをみな臣籍降下させたが 、同母の兄、源定省が親王宣下を受け、宇多天皇として即位(887年)すると内親王に戻った。陽成院は8歳で即位したが、16歳の時に精神の病によって乱行が多いことで退位させられ、 その後65年間を五代の天皇の代(18光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上)に上皇として過ごした。

「天つ風」の歌と合わせてみると、若かりし頃美しい乙女に一途に恋する男の情感を初々しく感じとれます。 陽成院が恋した綏子内親王は天女のように美しい人だったのでしょうね。

ところで「百人秀歌」には43首の恋の歌があるが各勅撰集にはそれぞれ詞書が添えられています。71番以降の恋の部立の歌は、 すべて歌合でのものや恋の心として詠ったものばかりですが、それ以前の歌には実際の臨場感あふれるものがあります。 多くは恨み、歎き、破綻に関するものですが、唯一成就しているのが、この陽成院と綏子内親王です。
   =上にもどる=
僧正遍昭 
百12(秀15)

天つ風
雲の通い路
吹き閉ぢよ
をとめの姿
しばしとどめむ


小野小町
秀13(百9)

花の色は
うつりにけりな
いたづらに
わが身世にふる
ながめせしまに
★ 小野小町 (9世紀中頃) 六歌仙 (古今集 春下113)
☆美しい藤の花は色あせってしまった。春の長雨が降っている間に。私の容色も衰えてしまった。日々無為に過ごしている間に。

小野小町は、生涯誰とも添い遂げなかったようで、浮き草のような時勢に流されてしまったような人生だったのかもしれません。 美女の代名詞のように言われています。六歌仙の一人ですから、仁明、文徳、清和の代(仁明朝始833年〜清和朝終876年)の歌人であるだろうと言うこと以外何も分かっていません。

文徳天皇更衣の紀静子は後ろ盾の弱さから第一皇子である惟喬親王を天皇にすることができず藤原良房女を母とする第四皇子の清和天皇が践祚しました。 しかしその皇子である陽成天皇は退位させられてしまいます。この部屋は皮肉な組み合わせですね。

「古今集」 (恋五 797)
色見えで うつろふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける 
・花や葉は色に見えて枯れていくのが分かるけれど、はっきりと見えずにうつろふものは世の中の人の心の花だったのですね。

28貫之が、仮名序で小野小町のことを、「しみじみと身にしみるような歌であるが、 強くはない。いわば、美しい女が病を得た風情に似てる。強くないのは、女の歌だからであろう。」と述べています。

陽成院の歌は深い思いが一気に流れ落ちて淵になっており好対照ですね。

「花」と言えば「桜」ですが、この歌の花もそうだったのでしょうか? 26「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」や101「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」のように慌ただしく散っていくのが桜です。

しかし、これは眺めているのです。眺めている間に容色が衰えていく美しい花と言えば藤の花ではないでしょうか。 この歌集に源氏物語の逸話となるような歌人や歌がある中で、藤壺の女御や紫の上を香らせる紫に関することがあっても良いと思っています。
  =上にもどる=
陽成院
百13(秀12)

筑波嶺の
峰より落つる
みなの川
恋ぞつもりて
淵となりぬる


喜撰法師
秀14(百8)

わが庵は
 都のたつみ
 しかぞすむ
 世をうぢ山と
 人はいふなり
★ 喜撰法師 (9世紀中頃) 六歌仙 (古今集 雑下983)
☆わたしの庵は都の東南にあり鹿も住んでいますが、このように自分らしく生きてます。でも人は私が憂しとして世を過ごしていると言うんです。

喜撰法師も六歌仙の一人ですが、「古今集」と「玉葉集」に一首ずつ残すのみです。トピック<T.6=他氏排斥事件=>で述べたように土佐に流された紀夏井を仮託しているとしたが、 世の不条理さに心は乱れてしまったが思うに任せぬ生涯をそれなりに生き切ったのではないでしょうか。

宇治と言えば宇治平等院。元々は河原左大臣(源融)の別荘があったところです。藤原氏との覇権争いにも負けず左大臣まで登りつめます。 この歌は融の生きざまにも通ずる歌ですね。身分は違えども藤原家に翻弄された思ひは同じです。    =上にもどる=
河原左大臣
百14(秀17)

陸奥の
 しのぶもぢずり
 たれゆゑに
 乱れそめにし
 われならなくに


僧正遍昭
秀15(百12)

天つ風
 雲の通い路
 吹き閉ぢよ
 をとめの姿
 しばしとどめむ
★ 僧正遍昭(良岑宗貞) (816〜890) 六歌仙 (古今集 雑上872)
☆五節の舞の乙女たちのあでやかさに、舞も終わりに近づいてきて名残惜しくなり、その気持ちを乙女を天女に見立てて空を吹く風よ、 雲間の通路を吹き閉じて、しばし乙女を此処に留めておきたい。

なんて洒脱な歌いっぷりでしょう。五節の舞の起源は、天武天皇が吉野に行幸のおり、天女が天から下って舞を舞ったという伝説に基づいている。 この二つの歌を合わせると、羽衣、風、雲、雪、と白を基調とし、秋の新嘗祭の祝から冬に移り、今また早春へと初々しく情景が変わっている。

この歌は出家する前の良岑宗貞の時代のものです。 桓武天皇の孫であり、父は天皇の皇子良岑安世です。安世は仁明天皇の春宮大夫でした。皇后の順子(冬嗣女)と宗貞は祖母を同じくして又従兄の関係でした。 仁明天皇の御代が終わる850年に35歳で出家した。

光孝天皇は僧正遍昭の70歳の賀を主催している(885年)。この宴が後にXX後鳥羽院による87藤原俊成の90歳賀の基となったのです。

「古今集」 (賀 347)
仁和の御時、僧正遍昭に七十の賀たまひける時の御歌
かくしつつ とにもかくにも ながらへて 君が八千代に あふよしもがな  
・このようにこれからもあなたの賀宴を幾度も催しながら、どうにかこうにか生き長らえて、あなたの八千代の齢に巡り会いたいものだ。 
=上にもどる=
光孝天皇
百15(秀18)

君がため
 春の野に出でて
 若菜つむ
 わが衣手に
 雪は降りつつ


蝉丸
秀16(百10)

これやこの
 行くも帰るも
 別れつつ
 知るも知らぬも
 逢坂の関
★ 蝉丸 (生没年不詳) (後撰集 雑一1089)
☆これがまあ、京を出て東国へ行く人も、反対に京へ戻る人も、そしてお互いに知っている人も知らない人も、別れてはまた逢う、 あの有名な逢坂の関なのですね。

蝉丸のことはよく分かっていません。逢坂の関辺りに住んだ隠者らしく、琵琶法師だったらしい。トピック<T4=蝉丸=>

秀10では、10業平の歌と組んでおり、ここでは兄の行平と組んでます。弟は東へ行き、 兄は西に行ってますね。10業平は「源氏物語」の光源氏のモデルの一人とも言われ、また行平の須磨での蟄居は「源氏物語」須磨の巻の話の元になったと言われてます。

「続古今集」 (羈旅 868)
津の国すまといふ所に侍りける時よみ侍りける 中納言行平
旅人は 袂すゞしく なりにけり 関吹き越ゆる 須磨の浦波   
・袂に吹き込んできた風の涼しさにもう秋になってしまったと感じる。関所を吹き越えてゆく須磨の浦の風は自由で良いなあ。 旅人(行平)も京へ戻りたいと思うのでした。
=上にもどる=
中納言行平
百16(秀9)

立ち別れ
 いなばの山の
 峰に生ふる
 まつとし聞かば
 今帰り来む


河原左大臣
秀17(百14)

陸奥の
 しのぶもぢずり
 たれゆゑに
 乱れむとおもふ
 われならなくに
★ 河原左大臣(源融) (822〜895) (古今集 恋四724)
☆あの陸奥で作られるしのぶもじずりの乱れ模様のように私の心が乱れに乱れているは、誰のせいなんでしょう。 誰でもないあなたのために乱れているんですよ。

10業平では、「竜田川は関を潜るように紅葉の下を潜っていました」が、ここでは、「乱れ模様に呼応して括り染め」が良いですね。 8猿丸大夫の「奥山に紅葉を踏み分けるのは人か鹿か?」のように解釈はその時の状況に応じて多様性がある方が幅が広がると思います。

第四句「乱れむとおもふ」−−−−−「古今集」(恋四724)、「百人秀歌」(秀17)
第四句「乱れ初めにし」−−−−−「伊勢物語」(初段)、「百ト一首」(百14)

「百ト一首」に自分史をかさねた時に「伊勢物語」の10業平を意識したのかな。 相手の女性の知るすべもないが悲恋に終わったのは間違いないでしょう。

源融は、陸奥の塩釜を模して、難波から海水を運び込んで塩を焼かせたり、屋敷に幽霊なって出てきたり。 10業平も禁じられた恋に走ったり、9行平も須磨に蟄居したり、この人たちもは、「源氏物語」の中で生き続けています。

源融は、「源氏物語」の六条の屋敷のモデルとなったと言われている鴨川の東六条辺りに河原院という豪邸に住んでいました。宇治にあった別邸は、後に平等院になっています。
=上にもどる=
在原業平朝臣
百17(秀10)

ちはやぶる
 神代も聞かず
 竜田川
 からくれなゐに
 水くくるとは


光孝天皇御製
秀18(百15)

君がため
 春の野に出でて
 若菜つむ
 わが衣手に
 雪は降りつつ
★光孝天皇御製 (830〜884〜887) (古今集 春上21)
☆あなたのために春の野に出でて若菜を摘んでいます。そんな私の袖に雪が降りかかっていますよ。
若菜の新緑や雪の白、春の野の清々しさにたいして夜の闇。

光孝天皇は、仁明天皇の皇子。12陽成天皇の退位後、藤原基経によって55歳で即位した。基経とは母親同士が姉妹(沢子と乙春)なので従兄弟同士。基経が政治を 取り仕切り初の関白となった。宮中行事の再興に努め和歌隆興の祖となる。勅願寺建立を計画したが実現を見ないまま没した。 跡をついだ宇多天皇が仁和寺を創建した。

「すみの江の」の歌は、「寛平の御時きさいの宮の歌合」の時に詠われたものです。つまり光孝天皇の女御の班子女王(833-900)主催の歌合の歌。 寛平御時なので、宇多天皇の母とすべきか。実際は宇多天皇が企画したもの(889年頃?)。9行平の現存最古の「在民部卿家歌合」(880年頃?)の次に古い歌合とされている。

参加したのは、11藤原敏行、19伊勢、21源宗于、22素性法師、24壬生忠岑、25凡河内躬恒、26紀友則,28紀貫之、29坂上是則、30大江千里、 31藤原興風、38文屋朝康、在原棟梁(10業平男)、在原元方(棟梁男)など。次代の醍醐天皇の勅命による「古今集」(905年)の撰者が揃ってますね。
=上にもどる=
藤原敏行朝臣
百18(秀11)

すみの江の
 岸による波
 よるさへや
 夢の通ひ路
 人目よくらむ


  
源宗干朝臣
秀21(百28)

山里は
 冬ぞ寂しさ
 まさりける
 人目も草も
 かれぬと思へば
★源宗干朝臣 (880?〜939?)  (古今集 冬315)
☆山里では都と違って、冬は殊更に寂しさがまさるように感じます。人が尋ねることもなく草も枯れてしまうと思うと。

宗干は、18光孝天皇第一皇子の是忠親王男。源氏に臣籍降下した。「寛平后宮歌合」や「是貞親王家歌合」などの歌合に参加。19伊勢 や 28紀貫之と親交があったようだ。「古今集」での源氏の歌人は7人いるが、宗之が最多の6首選ばれている。

二つの歌を合わせると、すぐに行くよと言ってからずっと待ち続けて、やがて草木も枯れて人の往来も途絶え、冬こそ寂しさは増すばかりですということになり、 この場では、22素性法師の歌は月来説(つきごろせつ)となります。

「大和物語」 (39段)に宗干の歌として、(伝本により初句、二句が異なる)
おく露の ほどをも待たぬ 朝顔は 見ずぞなかなか あるべかりける

「新勅撰集」 (恋三 820)
しらつゆの をくをまつまの 朝顔は 見ずぞなかなか あるべかりける
・ほんの僅かなはかない逢瀬なら、むしろあなたに逢わなければよかった、なまじ逢ったばかりに苦しい思いをすることだ。

待ち続ける苦しさもあれば、なまじ逢ったばかりの苦しさもあり、離れてしまう苦しさも。逢わなければこういう苦しさを味わうこともなかったでしょうに。

「枕草子」三十三 小白河といふ所は 
この段の最後に藤原義懐(43伊尹五男)が花山天皇退位・出家後に出家したという記述に「おくを待つ間の」とだに言ふべくもあらぬ...とある。 100定家は、「枕草子」の記述により「新勅撰集」に「しらつゆの」の歌を選んだのでしょうか。 すると「山里は」の歌に義懐の出家後の姿が重なってきたりして時代が交錯していきます。
=上にもどる=
素性法師
百21(秀22)

今来むと
 いひしばかりに
 長月の
 有明の月を
 待ち出でつるかな


  
素性法師
秀22(百21)

今来むと
 いひしばかりに
 長月の
 有明の月を
 待ち出でつるかな
★素性法師 (845?〜909?)  (古今集 恋四691)
☆すぐに行こうと、あなたが言うから待っていたのに、待ち明かして暁を迎えてしまい、有明の月を見ることになってしまった。

15僧正遍昭男。父が出家した時に兄と共に一緒に出家した。15僧正遍昭は850年35歳の時に出家したので、 素性法師が5,6歳の時のはず。素性は父と共に常康親王(父仁明天皇と母紀種子)が出家して住んでいた雲林院を受け継ぐ。 紀名虎の娘である種子は、10業平が仕えた惟喬親王(父文徳天皇)の母である紀静子と姉妹である。 素性は後に一人大和国(奈良県)の石上にある良因院に移り住んだ。

昌泰元年(898年)、宇多上皇が奈良に御幸したさいに召され、共に旅して各所で歌を奉った。この時、23菅原道真もおり、大宰府左遷の3年前のことでした。

仁明天皇から寵愛を受けた常康親王は「古今集」に1首残しています。
「古今集」 (恋781) 雲林院親王 
吹きまよふ 野風を寒み 秋萩の うつりもゆくか 人の心の  
・吹き荒れる野風が寒いので秋萩が色移ってゆく。その様に人の心も移ろうのか。

秀21と異なり、ここでは、9月のある日の夜の出来事と捉えて一夜説です。今日の約束を破られた人の心は嵐です。 常康親王の歌のあとでは、康秀の歌も恋の歌のように思えてきます。
   =上にもどる=
文屋康秀
百22(秀27)

吹くからに
 秋の草木の
 しをるれば
 むべ山風を
 あらしといふらむ


  
菅家
秀23(百24)

このたびは
 幣もとりあへず
 手向山
 紅葉の錦
 神のまにまに
★菅家(菅原道真) (845〜903) (古今集 羈旅420)
☆急な旅立ちだったので、幣を用意する暇がなかった。神様、この手向山の美しい錦のような紅葉を幣として心のままにお受けください。

昌泰元年(898)、宇多上皇が奈良へ御幸した時に菅原道真も供をして、その時に詠んだ歌。

二人とも漢学者ですね、そして歌人でもあり歌を残しています。 千里の歌は「白氏文集」にある漢詩を翻案して詠まれたもの。

道真は左大臣藤原時平(871-909)の他氏排斥策「昌泰の変」(901年)で大宰府に送られ失意のうちに亡くなくなったが、 死後、正一位太政大臣を送られ、神として北野神社に祭られた。

「拾遺集」 (雑春 1006) 贈太政大臣
流され侍ける時、家の梅の花を見侍て
東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな 
・もし東風が吹いたならば、私の所まで風を託して匂いを送ってください。家の主がいなくても花の咲く春をわすれないで。

「更級日記」の作者と言われている菅原孝標女は道真の五世にあたる孝標の娘で、74祐子内親王家紀伊などと同じく祐子内親王(後朱雀天皇皇女1038-1105)に仕えた。
=上にもどる=
大江千里
百23(秀30)

月見れば
 ちぢにものこそ
 悲しけれ
 わが身ひとつの
 秋にはあらねど


  
壬生忠岑
秀24(百30)

有明の
 つれなく見えし
 別れより
 暁ばかり
 憂きものはなし
★壬生忠岑 (870?〜930?)  (古今集 恋三625)
☆後朝の別れの朝、有明の月は無情に感じられて、それ以降、暁ほど辛く悲しいものはありません。

冷静で平気な顔をしているのが月で、後朝の愛おしい別れの気持ちと対比させているのが100定家の解釈。 古今集では「来れど逢わず」の歌の中にあるので、会おうともしない女性をつれないと言っている。

自然界のそこに存在するだけの無情なものに、わが身を照らしたり、置き換えたり、 身勝手な自分の感情や状況をその無情のものに託することで救いを求めているのでしょうか。

藤原定国の随身を務めたことがある。卑官を歴任。「古今集」の選者の一人。 XX後鳥羽院が、99家隆と100定家に「古今集」の秀歌を問うたところ、 二人ともこの歌を推した。「古今著聞集」では、陰明門院(土御門天皇中宮)が問うたことになっている。 どちらにしても99家隆、100定家はこの歌を高く評価していた。

「大和物語」125段
右大将藤原定国の随身として供していた時に、急に左大臣時平(871-909)を訪ねた。その時に忠岑が詠んだ歌、
かささぎの わたせる橋の 霜の上を 夜半に踏みわけ ことさらにこそ 
・御殿の階段に置いた霜の上を、この夜中に踏み分け、わざわざやってきました。よそに行ったついでに来たわけではありません。

この歌によって、「5・かささぎのわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける」の歌が宮殿の御橋に例えられるようになったわけですが、やはり天空でないと天の原と対比できないですよね。 壬生忠岑は、歌を気に入られて時平よりご褒美を賜ったそうな。その主人の定国(866-906 35定方兄)は時平(871-909)と同じく道真左遷に関わった一人です。
=上にもどる=
菅家
百24(秀23)

このたびは
 幣もとりあへず
 手向山
 紅葉の錦
 神のまにまに


  
凡河内躬恒
秀25(百29)

心あてに
 折らばや折らむ
 初霜の
 置きまどはせる
 白菊の花
★凡河内躬恒 (870?〜930?) (古今集 秋下277)
☆心して注意深く折ることができるなら折ってみましょうか。初霜が降りて霜か菊か見分けがつかなくなっている中で、白菊の花を。

菊は中国からの輸入品です。万葉集には一例もありません。平安初期に漢詩文に導入された後に和歌にも詠まれるようになったみたいです。卑官で あったが歌にすぐれ,「古今集」の選者の一人です。28紀貫之と親しく、ともに35三条右大臣邸に出入りした。

早朝の初霜と菊の花の白さ。心して選ぶ慎重さ。もう一方の歌は、夜の闇。さねかづらの赤い実。手繰り寄りたい一念。好対照の歌です。

「大和物語」(5段) 大輔
わびぬれば 今はたものを 思へども 心に似ぬは 涙なりけり
・私は、これまでずっと悲しみぬいたので、(このめでたい日に)もう泣くまいと思ったけど、(それでも)心のままにならないのは、あふれ出る涙でした。

「新勅撰集」(恋四 884) 凡河内躬恒
わびぬれば 今はとものを 思へども 心しらぬは 涙なりけり
・思い煩いどうしようもなくなったので、もはやこれまでとあなたのことを忘れようと思うのだけど、 忘れようとしている私の心を知らなくて涙がこぼれる。

100定家は、この歌は躬恒が歌合で詠んだものなので、大輔より先に詠んでいると判断して「新勅撰集」に躬恒の歌として入れたようだ。

※「こころあてに」157頁→ 
百人一首―編纂がひらく小宇宙 田淵句美子 岩波新書 2024年1月19日 第1刷発行
=上にもどる=
三条右大臣
百25(秀35)

名にし負はば
 逢坂山の
 さねかづら
 人に知られで
 くるよしもがな


  
紀友則
秀26(百33)

ひさかたの
 光のどけき
 春の日に
 しづ心なく
 花の散るらむ
★紀友則 (850?〜905) (古今集 春下84)
☆陽がのどかに射してる春の日に、どうしてそんなに落ち着きもなく慌ただしく桜の花は散るのでしょう。

紀友則は28貫之といとこ同士ですが、かなり歳上です。「古今集」の選者に選ばれたが古今集完成前に没した。28貫之と24壬生忠岑が哀傷歌を残しています。

「古今集」 (哀傷歌 838) 貫之
紀友則が身まかりにける時よめる
明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそかなしかりけれ 
・明日の命も分からない儚い我が身と思うものの、日の暮れない間の今日は、あの人のことが悲しく思われるのです。

「古今集」 (哀傷歌 839) 忠岑
時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを 
・時もあろうに、よりによって秋に人と死に別れるということがあってよいものか。生きていて会うことができる場合にさえ、秋という季節は、会って別れると恋しい気持ちになるのに。

春の桜と秋の紅葉と対照的に組み合わせで、どちらも慌ただしく散っていくものですが、紀氏の桜は慌ただしく散っていき、 藤原家の紅葉は、今ひとたびの御幸のために留まらせようとしています。
=上にもどる=
貞信公
百26(秀34)

おぐら山
 峰のもみぢ葉 
心あらば
 今ひとたびの
 みゆき待たなむ


  
文屋康秀
秀27(百22)

吹くからに
 秋の草木の
 しをるれば
 むべ山風を
 あらしといふらむ
★文屋康秀 (840?〜893?) 六歌仙 (古今集 秋下249)
☆吹くやいなやすぐに秋の草木がしおれるので、だから山から吹く強い風を嵐というのですね。

古来、この歌は息子の38朝康が詠んだと言われてます。六歌仙の歌人は10番代に並んでいますが、 康秀だけがずっと後の27番にあるのは何か理由があるのでしょうか。 対になっている兼輔の歌が、元々は詠み人知らずの歌だったと言われていますし、 100定家は、どちらの歌も作者は違う人なんだよと言いたかったのでしょうか。
           
歌順 初句 出典  六歌仙歌人名
1 秀10 ちはやぶる  古今集 秋下294  在原業平 
2 秀13 はなのいろは  古今集 春下113  小野小町 
3 秀14 わがいほは  古今集 雑下983  喜撰法師  
4 秀15 あまつかぜ  古今集 雑上872   僧正遍昭 (良岑宗貞) 
5 秀27 ふくからに  古今集 秋下249  文屋康秀 

天武天皇の皇子の一人である「万葉集」に歌を五首残している長皇子が臣籍降下して文屋(文室)姓を賜っている。康秀はその五代後になる。

征夷大将軍の坂上田村麻呂と共にいた文室綿麻呂や恒貞親王(淳和天皇皇子)が皇太子を廃された「承和の変」の時に春宮大夫であったがために連座して左遷させられた文室秋津などがいる。 100定家は天武系の名門の名を残したかったのでしょうか。 11首後にある息子の朝康の38「白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける」の歌とともに排斥されていく家を象徴しているようです。
=上にもどる=
中納言兼輔
百27(秀36)

みかの原
 わきて流るる
 いづみ川
 いつ見きとてか
 恋しかるらむ


  
紀貫之
秀28(百35)

人はいさ
 心も知らず
 ふるさとは
 花ぞ昔の
 香ににほひける
★紀貫之 (872?〜945?) (古今集 春上42)
☆さあ、あなたのお気持ちは分かりませんが、古里の奈良に咲く梅の花は昔からと同じように香っています。

古今集時代の代表的歌人であり、仮名文学の先駆者。「古今集」の仮名序を書いた。「新撰和歌集」の撰者。 「土佐日記」の作者。「竹取物語」も紀貫之かなと思ったりしてます。

醍醐の御代に、身分は低く、60歳前後で土佐の守になった。 紀貫之が土佐の守となって京を離れていた数年の間(930〜935)に、醍醐天皇、宇多法皇、35三条右大臣(定方)、 36藤原兼輔、母と次々と亡くなった。そして土佐では最愛の娘も...。 36兼輔男の、雅正(紫式部の祖父)と親しくしていたようですが、あいたいする「山里の」の歌は、紀貫之の晩年そのもののような歌です。

息子の紀時文(きのときぶみ)は、梨壺の五人の一人となり、「後撰集」編纂に関わった。

娘の紀内侍は、「鶯宿梅(おうしゅくばい)」の故事で名が挙がり「紅梅の内侍」とも例えられます。

「大鏡」第六巻 昔話七 
村上天皇に庭の紅梅を求められて、
勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかゞ答へむ
・勅命であるならこの紅梅を献上することを断るのは畏れ多いことですが、 毎年この梅の枝に宿る鴬が、我が宿は如何したかと問うたならば、さてどう答えたらよいのでしょうか。

この歌を示した逸話で三才女(紀内侍・65伊勢大輔・66小式部内侍)の一人とされる。
ただし、拾遺集(巻九 雑下531)に名は記されてない。
=上にもどる=
源宗干朝臣
百28(秀21)

山里は
 冬ぞ寂しさ
 まさりける
 人目も草も
 かれぬと思へば


  
坂上是則
秀29(百31)

朝ぼらけ
 有明の月と
 見るまでに
 吉野の里に
 降れる白雪
★坂上是則 (880?〜930?) (古今集 冬332)
☆夜がほのぼのと明ける頃、有明の月がまだ差しているかと思うほど吉野の里に降り敷いた雪の白さよ。

蝦夷征伐に功のあった坂上田村麻呂の子孫。蹴鞠の名手。

28貫之の息子と同様に息子の坂上望城(さかのうえのもちき)は、「梨壺の五人」の一人となり「後撰集」編纂に関わった。

月の明かりかと思って外を見ると早朝の白雪であるという空気の張り詰めた静寂さと、 早朝の初霜の清々しさの中の白菊の清楚さと相重なって桜も紅葉も何も無い世界です。

是則の代表歌、
「古今集」 (冬 325)
み吉野の 山の白雪 つもるらし ふるさと寒く なりまさるなり 
・吉野の山に日に日に雪が積もっているらしい。この奈良では寒さが一段とつのっています。
=上にもどる=
凡河内躬恒
百29(秀25)

心あてに
 折らばや折らむ
 初霜の
 置きまどはせる
 白菊の花


  
大江千里
秀30(百23)

 月見れば
 ちぢにものこそ
 悲しけれ
 わが身ひとつの
 秋にはあらねど
★大江千里 (860?〜922?) (古今集 秋上193)
☆秋の月を見ると、いろいろな思ひがこみ上げて悲しくなります。 なにも私一人のための秋ではないと分かっているのですが

漢学者大江音人の男。「句題和歌」(大江千里集)を宇多天皇に詠進。官位は低く、六位兵部大丞。

醍醐天皇の侍読を務めた弟の千古がおり、千古のひ孫が63赤染衛門の夫、大江匡衡であり、 さらに匡衡のひ孫が72大江匡房です。 千里自身は大江家から少し外れて自由に生きたのかな。

どちらの歌も月は無情に輝いています。誰のものでもないと分かっているのに月を見ながら思ひは色々馳せますね。 この月同士の組み合わせは、秀86に「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる」と「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」があります。
=上にもどる=
壬生忠岑
百30(秀24)

有明の
 つれなく見えし
 別れより
 暁ばかり
 憂きものはなし


  
藤原興風
秀31(百34)

たれをかも
 知る人にせむ
 高砂の
 松も昔の
 友ならなくに
★藤原興風 (870?〜920?) (古今集 雑上909)
☆一体誰を昔からの友としましょうか。年老いた今、同じような高砂の老い松がいるが、 その松だって昔からの友ではないのですから。

最古の歌学書「歌経標式」の作者、藤原浜成(京家)の永谷系のひ孫。官位は低かったが、寛平御時后宮歌合など歌界で活躍した。「古今集」では 17首入選と、11藤原敏行(南家)の19首と同じように藤原家では飛びぬけて多い。

興風の歌には高砂の松と比べる長寿さが本来ならめでたいことなのに、 無情の松と語り合うわけでもなく孤独の波に押し寄せられて深い歎きが込められています。 月であるなら自分の身を反映させて語ることも出来るでしょうが窓の外の無言の白い雪では無情でしかない。どちらも語り合えません。

浜成男、大継女の河子は桓武天皇の宮人となって仲野親王(792-867)の母となり、その親王女、班子女王(833-900)は18光孝天皇の皇后となって宇多天皇の母となった。
=上にもどる=
坂上是則
百31(秀29)

朝ぼらけ
 有明の月と
 見るまでに
 吉野の里に
 降れる白雪
 


  
清原深養父
秀33(百36)

夏の夜は
 まだ宵ながら
 明けぬるを
 雲のいづくに
 月宿るらむ
★清原深養父 (880?〜930?) (古今集 夏166)
☆夏の夜は短いので、まだ宵のうちと思っている間に夜が明けてしまった。月は間に合わなくて雲のどのあたりに宿っているのかな。

深養父は、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るった舎人親王の子孫、清原氏です。天武系ですね。 45元輔の祖父、60清少納言の曽祖父です。官位は低く28貫之を通じて35定方や36兼輔の庇護を受けていたようです。

夏の夜は、月はついていけないのではと感じるくらい短く、春の日差しはのどかなのに桜は慌ただしく散っていきます。 どちらの歌も心穏やかでなく落ち着かなさがあります。

定家は、「古今集」から24首を選びましたが、この「なつのよは」が24首目の歌です。 「古今集」編纂中に没した友則も深養父と同様に59藤原公任の「三十六人撰」に選ばれませんでした。
=上にもどる=
紀友則
百33(秀26)

ひさかたの
 光のどけき
 春の日に
 しづ心なく
 花の散るらむ 


  
貞信公
秀34(百26)

おぐら山
 峰のもみぢ葉
 心あらば
 今ひとたびの
 みゆき待たなむ
★貞信公 (880〜949) (拾遺集 雑秋1128)
☆小倉山の紅葉よ、もし心があるのなら、次は天皇の行幸があるのでそれまで散らないで待っていてください。

散っていく紅葉に、長寿の松のように散らないでいてくれと祈る藤原北家は太政大臣忠平の子孫が栄華を極めていきます。

貞信公(藤原忠平)は、12陽成院を退位させ宇多天皇ともめた基経の四男であり、23菅原道真を大宰府に左遷した時平の弟。時平の没後、政権をとり、 「延喜の治」と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇(923〜930-946〜952)の代に摂政、次いで関白に任じられ、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。朱雀の代には、 平将門、藤原純友による乱「承平天慶の乱」が起きた。 忠平と28紀貫之はほぼ同時代の人です。最後は従一位関白太政大臣まで昇りつめましたが、村上天皇の代になって3年後に没しました。

平将門(?〜940)は地方より15、16歳のころ京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を私君とした時期がありました。
=上にもどる=
藤原興風
百34(秀31)

たれをかも
 知る人にせむ
 高砂の
 松も昔の
 友ならなくに 


  
三条右大臣
秀35(百25)

名にし負はば
 逢坂山の
 さねかづら
 人に知られで
 くるよしもがな
★三条右大臣(藤原定方) (873〜932) (後撰集 恋三700)
☆逢坂山の「さねかづら」が負っている「逢って寝る」というその名の通りなら人に知られないで繰るように行きたいものです。

三条右大臣(定方)は、醍醐天皇の外叔父、44朝忠の父 管絃にすぐれ、歌人として有名。36兼輔とともに専門歌人の25凡河内躬恒、28貫之、33深養父らを庇護した。

なんとしても女性の所へ行く方法はないものかと実かずらの名の持つ意味に願いを込めているが、「ひとはいさ」の方は、 女性とご無沙汰していたことを皮肉られたので返した歌。つる性常緑低木のさねかづらと落葉高木の梅と植物同士でも対比させたのでしょうか。

藤原北家良門流もしぶとく時代を生き抜いていきますが主流から外れていきます。

「新勅撰集」 (秋上 243) 「大和物語」(29段) 三条右大臣
式部卿敦慶親王のみこの家に人々もうできて、あそびなどし侍けるに、をみなへしをかざしてよみ侍りける
をみなへし おるてにかゝる しらつゆは むかしのけふに あらぬなみだか 
・女郎花よ、それを折る手にかかる白露は 今日が昔の今日でないことを嘆く涙であろうか。

・式部卿敦慶親王(887〜930)は宇多天皇の皇子、醍醐天皇の弟。母は高藤女の胤子。定方の甥にあたる。光玉宮と呼ばれた。 「好色無双の美人」と評され、「源氏物語」の光源氏のモデルの一人。「後撰集」にのみ3首残している。 19伊勢とのあいだに中務という娘を残している。「三十六人撰」に十首入選している女流歌人。
=上にもどる=
紀貫之
百35(秀28)

人はいさ
 心も知らず
 ふるさとは
 花ぞ昔の
 香ににほひける 


  
中納言兼輔
秀36(百27)

みかの原
 わきて流るる
 いづみ川
 いつ見きとてか
 恋しかるらむ
★中納言兼輔 (877〜933) (新古今集 恋一996)
☆みかの原を分けて湧きでて流れるいづみ川、その「いつみ」ではないけど、いつ見たと言って恋しいのでしょうか。

この歌は、87俊成撰の「三十六人撰」、XX後鳥羽院撰の「時代不同歌合」には兼輔の代表歌の一つになっていますが、 どうもよみ人知らずの歌なのに間違えて兼輔の詠んだ歌としてしまったようなんです。

鴨川の堤に邸があったので、堤中納言と称された。25凡河内躬恒、28紀貫之などと歌人グループを形成していた。清原深養父は、琴の名手であり、「後撰集」には琴を弾くのを 聴きながら、藤原兼輔と28紀貫之が詠んだという歌が収められている。

「後撰集」 (夏 167) 藤原兼輔朝臣
夏夜、深養父が琴ひくを聞きて
短か夜の ふけゆくまゝに 高砂の 峰の松風 吹くかとぞ聞く 
・短い夏の夜が更けゆくにつれて、中国の詩に言うように、峰の松風が吹いているのではないかと、この琴の音を聞いてしまいますよ。

100定家は、「後撰集」のこの歌からこの夜の宴に思いをはせて深養父の歌を選んだのでしょうか。享楽はあっという間に過ぎていきます。

最初に「三十六人撰」を選んだ59藤原公任は、次の歌を代表歌の一つにしています。
「後撰集」 (雑一 1102) 兼輔朝臣
人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬる哉 
・親の心は、闇というわけではないのに、他のことは何も見えなくなって、子を思う道にただ迷ってしまいます。

「新勅撰集」 (雑三 1225) 「大和物語」(71段)
式部卿敦慶のみこ、かくれ侍にけるはるよみ侍ける 中納言兼輔
さきにほひ かぜまつほどの やまざくら 人の世よりは ひさしかりけり
・咲き匂い風を待つ間の山桜よ、人の一生よりは長いのであったよ。
=上にもどる=
清原深養父
百36(秀33)

夏の夜は
 まだ宵ながら
 明けぬるを
 雲のいづこに
 月宿るらむ 


  
参議等
秀37(百39)

浅茅生の
小野の篠原
しのぶれど
あまりてなどか
人の恋しき
★参議等 (880〜951) (後撰集 恋一577)
☆浅茅が生えてる小野の篠原、その「しの」ではないけれど、もうこれ以上忍びきれません。どうしてこんなに恋しいのでしょう。

「古今集」 (恋一 505) よみ人しらず
浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや 言ふ人なしに 
・浅茅が生えてる小野の篠原、耐え忍ぶにしても、あの人は知っているのだろうか、否 知らないでしょう。誰も告げる人はいないのだから。

嵯峨源氏。中納言希の男。村上天皇が践祚し、翌年の天暦元年(947年)、68歳で参議に任じられ公卿に列する。 後撰集のみに4首残しているが、「源ひとし朝臣」と記されている。

次に続く秀38番、秀39番と合わせて、三首の歌がリンクしてます。
       
秀番号 百番号
38 白露に風の吹きしく秋の野は 
つらぬきとめぬ玉ぞ散りける
37
39 忘らるる身をば思はずちかひてし 
人の命の惜しくもあるかな
38
37 浅茅生の小野の篠原しのぶれど
あまりてなどか人の恋しき
39

忍び切れない恋の始まりから、やがて神に誓ったことに対する裏切りの為に命の心配をされるようになり、 その命も草の上の露のごとくあっさりと飛び散ってしまいます。永遠のリンクです。
=上にもどる=
文屋朝康
百37(秀38)

白露に
風の吹きしく
秋の野は
つらぬきとめぬ
玉ぞ散りける

  
文屋朝康
秀38(百37)

白露に
風の吹きしく
秋の野は
つらぬきとめぬ
玉ぞ散りける
★文屋朝康 (870?〜910?) (後撰集 秋中308)
☆草の上に置く白露に風が吹く秋の野は、その露が散って、糸で貫いていない玉が散りこぼれるようです。

露は命に例えられたりしますが、風は何を例えているのでしょうか。吹きつける風の強さは誓いも何もかも 散らせてしまうのでしょうか。

朝康は27康秀の息子です。古今集に1首、後撰集に2首残すだけですが、宇多天皇の代の「是定親王家歌合」「寛平御時后宮歌合」(889)などで歌を詠んでいるので、 官位は低かったが歌人として認められていたようです。
=上にもどる=
右近
百38(秀39)

忘らるる
身をば思はず
ちかひてし
人の命の
惜しくもあるかな


  
右近
秀39(百38)

忘らるる
身をば思はず
ちかひてし
人の命の
惜しくもあるかな
★右近 (910?〜966?) (拾遺集 恋四870)
☆忘れられる私のことはさておいて、神に誓ったあなたの命がなくなるのではと惜しまれてなりません。

右近衛少将藤原季縄(?〜919)の娘。醍醐天皇中宮隠子(885-954)に仕えた。村上朝の応和二年(962)、康保三年(966)などの歌合に出詠。 100定家は、「大和物語」にある300首近くの歌の中からこの歌1首だけを取り上げています。

39右近と40敦忠らしい人との逸話(84段)が、父・時平の菅原道真排斥事件による敦忠の短命と織り合わされていきますが、 実際は誰に対しての歌なのか分かっていません。

秀37の歌は「後撰集」(恋一)にある初々しい恋の始まりの歌です。忍びきれない男の思ひにあふれた歌ですが、 やがて恋も終末期の「拾遺集」(恋四)になると裏切った人の命を祈られるまでになってしまうのですね。

ちなみに次の40敦忠の室は37参議等の女(助信母)です。
=上にもどる=
参議等
百39(秀37)

浅茅生の
小野の篠原
しのぶれど
あまりてなどか
人の恋しき
  
中納言敦忠
秀40(百43)

逢ひ見ての
のちの心に
くらぶれば
昔はものも
思はざりけり
★中納言敦忠 (906〜943) (拾遺集 恋二710)
☆一度は逢ったものの、それが途絶えて後の苦しみや悲しみに比べると、それまでの事は物思いをしなかったも同然ですよ。

左大臣時平の三男。母は、在原棟簗の女とも言われているので、それが正しければ10業平のひ孫になる。時平の子として、 23菅原道真の祟りによって短命を予期していたように実際38歳で亡くなった。

二つの歌を合わせると誰にも分からないように忍んでいた恋も、とうとう人がたずねるくらい顔に現れるようになってしまったが、 出逢ったあとの逢わなくなってしまった悲しみや苦しみは、忍んでいただけの辛さなどどうってことも無いくらい大きいものだったということでしょうか。
=上にもどる=
平兼盛
百40(秀41)

しのぶれど
色に出でにけり
わが恋は
ものや思ふと
人の問ふまで


  
平兼盛
秀41(百40)

しのぶれど
色に出でにけり
わが恋は
ものや思ふと
人の問ふまで
★平兼盛 (910?〜990?) (拾遺集 恋一622)
☆心の内に忍んでいた恋も、「どうかしたんですか」と人がたずねるほどに顔色にでてしまったようです。

兼盛は18光孝天皇の玄孫。篤行王の男。天暦四年(950)に臣籍降下して、兼盛王から平氏になった。

まだ思い始めたばかりなのに既に噂になってます。誰にも言ってないのにどうして? 自分では秘していたつもりでも人に問われるくらい顔色に出てしまっていたからです。顔は口ほどにものをいうということですね。

これが後世に色々な伝説を残した天暦御時(村上天皇)の内裏歌合での兼盛と忠見の2首です。 トピック<T.10=天徳内裏歌合=>
=上にもどる=
壬生忠見
百41(秀42)

恋すてふ
わが名はまだき
立ちにけり
人知れずこそ
思ひそめしか


  
壬生忠見
秀42(百41)

恋すてふ
わが名はまだき
立ちにけり
人知れずこそ
思ひそめしか
★壬生忠見 (910?〜980?) (拾遺集 恋一621)
☆恋をしているという私のことがもう既に噂になっています。誰にも知られず思ひ始めたばかりというのに。

24壬生忠岑男。官位は低かったが歌人としては有名であった。三十六歌仙の一人。

恋の始まり(恋一)と究極の悲しき終焉(恋四)の歌が合わさっています。

=上にもどる=
清原元輔
百42(秀45)

契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山
波越さじとは


  
謙徳公
秀43(百45)

あはれとも
いふべき人は
思ほえで
身のいたづらに
なりぬべきかな 
★謙徳公(藤原伊尹これただ、これまさ) (924〜972) (拾遺集 恋五950)
☆かわいそうにと、同情してくれそうな人も思い浮かばず、我が身はこのまま虚しく死んでしまうのでしょう。

34貞心公の孫。九条右大臣師輔男。摂政太政大臣正二位。和歌所の別当として梨壺の5人を監督する立場になり、 「後撰集」の編集に関与する。謙徳公の歌は、「後撰集」に2首、「拾遺集」に6首入首した後、続く「後拾遺集」、「金葉集」、「詞花集」、「千載集」に無く、 「新古今集」に10首、「新勅撰集」に9首撰ばれており定家好みなのかもしれません。

この歌は、身分の低い架空の役人に仮託し、女性との恋愛贈答を歌物語的に構成した「一条摂政御集」にある歌です。

伊尹も敦忠も思いのほかの早逝であったので、両家ともその後は中央政権から離れていった。 伊尹男の49義孝も21歳で亡くなり、義孝男の行成(972-1027)は幼児の時に祖父、父を亡くしたが、 後に一条朝四納言の一人となり、三蹟の一人という能書家になった。
=上にもどる=
権中納言敦忠
百43(秀40)

逢ひ見ての
のちの心に
くらぶれば
昔はものを
思はざりけり


  
清原元輔
秀45(百42)

契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山
波越さじとは
★清原元輔 (908〜990) (後拾遺集 恋四770)
☆約束しただろう。何度も袖を濡らしながら、あの末の松山が波を越さないように、私たちの仲も末長く変わるまいと思っていたのに。

元輔は、専門歌人として、高官の家に出入りし、多くの歌を詠じている。秀43で述べたように謙徳公は和歌所の別当。 元輔たち梨壺の五人は、「後撰集」(村上天皇御時、951年)の編纂と共に万葉集に訓点をつけた。

陽気な人柄で晩年に至るまで歌壇で活躍し,口にまかせて詠む機知に富んだ速詠を得意とした。 そうしたところが好まれたのか藤原実頼,藤原頼忠,藤原師輔,源高明などの貴顕の邸宅に出入りしている。 詠歌は個人的なものよりも屏風歌合といった召し歌(貴顕の注文に応じて創作する和歌)が多い。

986年正月に79歳の高齢で肥後守に任ぜられ、990年に現地で病により没した。

この歌は、その詞書「心かはりて侍りける女に人にかはりて」にて代作したと分かる。謙徳公の歌は、「一条摂政御集」にあり、 物語の中ではあるが、女から捨てられた男の孤独な弱い心を詠んでいるので一応どちらも男の失恋の歌。

これから円融、花山天皇時代の藤原家の権力争いに皆が揺れ動いていきます。
=上にもどる=
謙徳公
百45(秀43)

あはれとも
いふべき人は
思ほえで
身のいたづらに
なりぬべきかな

 
  
源重之
秀46(百48)

風をいたみ
岩うつ波の
おのれのみ
くだけてものを
思ふころかな
★源重之 (908〜990) (詞花集 恋上211)
☆風が激しいので、岩を打つ波が、岩は平気で、波のような自分だけが心も千々に砕けて物思いするこの頃です。

清和源氏。冷泉天皇の東宮時代の帯刀先生(東宮警護の士の長)。東宮時代(950-967)(天暦、天徳、応和、康保)年間に百首を奉った中の1首。 この百首の歌は百首歌では最古のものと言われている。曾禰好忠らと親交があり、50実方の陸奥赴任には随った。50実方の没後も留まり、そこで没した。

父源兼信は陸奥国に住みついたので叔父の兼忠の養子になった。その兼忠の娘が兼家の妻となり一女をもうける。その子が後に56道綱母の養女となり、 「蜻蛉日記」にある兼家と娘の対面の場となる。

64紫式部は、このことを明石の君が娘を紫の上に養女に出し、その後、逆の立場で、実の母と娘の対面の場となる話に取り入れたのだろうか。

岩が相手の冷淡さ、頑なに閉ざされた心を喩えていて、自分の身の拙さを思い知らされていますし、 漂うばかりの行方が分からない恋の道と、どちらも波に翻弄される暗澹とした思いに包まれています。
=上にもどる=
曽祢好忠
百46(秀47)

由良のとを
渡る舟人
かぢを絶え
行く方も知らぬ
恋の道かな


  
曽祢好忠
秀47(百46)

由良のとを
渡る舟人
かぢを絶え
行く方も知らぬ
恋の道かな
★曽祢好忠 (923?〜1003?) (新古今集 恋一1071)
☆由良の瀬戸を漕いでゆく船頭が、かいを失って行方も分からず漂うように、どこへ向かうのか、どのようになるかも分からない私の恋の道ですよ。

花山天皇の代の歌人。頑なな性格だったようで、寛和元年(985年)、円融院の子の日の御幸にて45清原元輔・46源重之・48大中臣能宣・50平兼盛・紀時文たちが呼ばれていたが、好忠は呼ばれていないのに参上して追い出された話が残っている。

「好忠百首」は、重之の百首歌と同様に初期の百首歌の一つです。「曾丹集」が残っており、先ほどの「好忠百首」や 1日1首の割で360首を配列した「毎月集」などがあります。「詞花集」や「新古今集」に多く入首しているので歌風は後に認められたようです。

自分の明日の行方も分からない状態でも、滅びゆく環境の中にあっても、季節は迷うことなく確実にめぐってきます。
=上にもどる=
恵慶法師
百47(秀52)

八重葎
茂れる宿の
寂しきに
人こそ見えね
秋は来にけり


  
大中臣能宣朝臣
秀48(百49)

みかきもり
衛士のたく火の
夜は燃え
昼は消えつつ
ものをこそ思へ
★大中臣能宣朝臣 (921〜991) (詞花集 恋上225)
☆恋に悩む私は、御垣守の衛士がたく火が夜は燃えて、昼は消えているのと同じように、昼間は消え入るように毎日物思いに沈んでいます

「古今六帖」 よみ人しらず
・みかきもり衛士のたく火の昼はきえ夜は燃えつつ物をこそ思へ
という歌があり、「能宣集」にはないことから、間違っているのではと言われている。100定家は分かっている上でこの歌を必要としたのか、六条藤家をディスったのか。

大中臣氏は代々祭祀を司る家系です。父の頼基と同じく「三十六人撰」の一人で、輔親・65伊勢大輔・康資王母・安芸君へと連なる六代相伝の歌人です。

この百余首ある歌集も半分近くになり「後撰集」の編纂に関与した歌人たちや専門歌人たちの終焉を迎えようとしています。
=上にもどる=
源重之
百48(秀46)

風をいたみ
岩うつ波の
おのれのみ
くだけてものを
思ふころかな

  
藤原義孝
秀49(百50)

君がため
惜しからざりし
命さへ
長くもがなと
思ひぬるかな
★藤原義孝 (954〜974) (後拾遺集 恋二669)
☆あなたと逢うことが出来れば死んでも惜しくないと思った私ですが、あなたと逢った後、今では末永く逢いたい思うようになりました。

義孝は、43謙徳公・伊尹男。謙徳公が蔵人頭をめぐって中納言朝成(44朝忠弟)と争い、敗北した朝成は、「この族永く絶たなむ。...」と言い残して悪霊になった。 その為義孝は長生きしないだろうと思っていたらしい。実際は二人とも蔵人頭になっているし、朝成は謙徳公より長生きした。

謙徳公自身は、摂政太政大臣正二位、円融天皇の叔父、花山天皇の祖父として最高の地位にいたが48歳と意外な短命だった。

義孝男に三蹟の一人と言われた行成がいる。世尊寺家として書道を世業として続いていく。

義孝には一つ年上の兄に挙賢(たかかた)がおり、挙賢を前少将、義孝を後少将と呼ばれた。974年、疱瘡の流行りにより、兄の挙賢が朝に亡くなり、夕方に義孝が亡くなった。21歳の若さでした。

短命であったがゆえに余計にこの後朝の歌の余剰さを深めています。御垣守の衛士のような力強い生命の炎を燃やしていてたらなあと感じさせる薄命の貴公子でした。

この49番目と次の50番目の中で、義孝は御垣守の衛士の炊く火の勢いと、伊吹山のさしも草のような胸に余りある燃ゆる思ひの歌に合わされています。 義孝は、大変信心深い人で、亡くなる時にまだ法華経を読み終えていないから火葬にしないでと頼んだ。しかし、不注意で火葬してしまったので、母の夢に現れて、
「後拾遺集」 (哀傷 598)
しかばかり 契りしものを わたり川 帰るほどには 忘るべしやは 
・あれほど固くすぐには納棺しないでほしいと約束したのに、私が三途の川から引き返すそれほどの間にもう忘れてしまってよいのでしょうか。
=上にもどる=
大中臣能宣朝臣
百49(秀48)

みかきもり
衛士のたく火の
夜は燃え
昼は消えつつ
ものをこそ思へ


  
藤原実方朝臣
秀50(百51)

かくとだに
えやはいぶきの
さしも草
さしも知らじな
燃ゆる思ひを
★藤原実方朝臣 (958?〜998)  (後拾遺集 恋一612)
☆このようにあなたに恋していると言えませんから、伊吹山のさしも草のように燃える私の思ひも知らないでしょう。

円融天皇御時、花山天皇御時に活躍したが、49藤原義孝男・行成と殿上で争って、一条天皇から「歌枕をみてまいれ」と言われて左遷されたと言う説話があるが、 行成の日記「権紀」によると盛大な見送りをされたと記してある。40歳位で任地国の陸奥で没した。

母は源雅信女。父は定時ですが早世したので叔父の済時(941-995)の養子になります。祖父母は藤原師尹(920-969)と35定方の女です。

済時女のせい(女偏に城)子(せいし)(972〜1025)は、三条天皇の東宮時代に入内し、敦明親王(小一条院)や当子内親王ら四男二女をもうけた寵妃でした。

しかし、1012年、道長は娘の妍子を送り込み中宮としました。

済時亡き後は後ろ盾も弱くなり、兄弟の為任や通任が道長と争うも太刀打ちできず、三条院の崩御後(1017年)、 敦明親王(小一条院)は東宮を辞退した。

せい子は皇后でありながらも、敦道親王妃であった妹を61和泉式部が邸に召し抱えられた後に引き取ったり、 娘の当子内親王に先立たれる悲劇もあり恵まれた生涯ではありませんでした。
=上にもどる=
藤原義孝
百50(秀49)

君がため
惜しからざりし
命さへ
長くもがなと
思ひけるかな


  
藤原道信朝臣
秀51(百52)

明けぬれば
暮るるものとは
知りながら
なを恨めしき
朝ぼらけかな
★藤原道信朝臣 (972〜994) (後拾遺集 恋二672)
☆夜が明ければ、また夜が来て逢えると分かっていてもそれでも恨めしい別れの夜明け方です。

道信は、師輔男の太政大臣為光の男。母は43謙徳公女。50実方や59公任と特に交流があり、「いみじく和歌の上手」と言われたが、当時の流行り病によって 23歳の若さで亡くなった。

異母兄の一人に、枕草子に度々出てくる一条朝の四納言と称された斉信(たたのぶ)がいる。 斉信は公任、行成、源俊賢と共に藤原道長の腹心の一人として一条天皇の治世を支えた。

花山天皇の女御に婉子女王がおり、父は為平親王(村上天皇皇子)、母は源高明(醍醐天皇皇子)女です。花山天皇が出家したので、16歳で宮中を退出しました。一条天皇の蔵人頭であり、 参議となった15歳ほど年上の実資と恋争いをしたが所詮勝ち目はありませんでした。

「詞花集」 (恋上222)
嬉しきは 如何ばかりかは 思ふらん 憂きは身にしむ ものにぞありける  
・恋を得た人はどんなにか嬉しいかと思います。それに引き換えて私の辛さは身に沁みることです。

その時の心情は実方の歌そのものでしたでしょう。道信が亡くなって4年後に婉子女王も27歳で夭折しました。
=上にもどる=
藤原実方朝臣
百51(秀50)

かくとだに
えやはいぶきの
さしも草
さしも知らじな
燃ゆる思ひを


  
恵慶法師
秀52(百47)

八重むぐら
茂れる宿の
寂しきに
人こそ見えね
秋は来にけり
★恵慶法師 (950?〜1000?)  (拾遺集 秋140)
☆むぐらが幾重にも生い茂るさびしいこの家に人は誰も訪ねてきませんが秋だけはやはりやって来ました。
秀39から40,41,42,43,45,46,47,48,49,50,51恋の歌が続きます。この歌も飽きられて離れ枯れになってしまった女性の歌とも解釈できますね。 「源氏物語・末摘花」を思い起こさせます。

恵慶法師は、花山天皇の頃の人です。41兼盛、46重之や「後撰集」編纂時に関わった人たちと親交があり、この歌は17河原左大臣・源融邸宅が100年後くらいに、荒れ果てているやどに秋来たるという心を詠んだものです。 源融の子孫にあたる安法法師が住んでおり、10世紀末の中下流歌人たちと風流に交わっていたとのことです。河原院は、のちに「源氏物語」の六条院の舞台となりました。

道信は21歳の時に父為光を亡くし、1年喪に服して、喪服をぬぐときに詠んだ歌。
「拾遺集」 (哀傷 1293) 
限りあれば けふぬぎすてつ 藤衣 はてなきものは 涙なりけり 
・喪の期間には期限があるので今日脱ぎ捨てました。でも限りがないのは、亡き父を悲しむ涙でした。
=上にもどる=
藤原道信朝臣
百52(秀51)

明けぬれば
暮るるものとは
知りながら
なを恨めしき
朝ぼらけかな


一条院皇后宮
秀53(百xx)

よもすがら
ちぎりしことを
忘れずは
恋ひむ涙の
色ぞゆかしき
★一条院皇后宮 (977〜1000)  (後拾遺集 哀傷536)
☆夜通し言い交したことをお忘れでないなら、恋しく思ってお流しになる涙は、どの様な色になっているのか知りたいものです。

一条天皇の皇后定子。第一皇子・敦康親王の生母。母は55儀同三司母(高階成忠女・高内侍)。父は藤原道長兄・道隆。 トピック<T.13=一条朝前後=・長徳の変>の伊周と隆家は同母兄弟。

この歌は「百人秀歌」の方にだけある4首の内の最初の歌です。
定子の母は高階家出身であり藤原氏に囲まれた中で異端の存在でした。 父、関白道隆の威光を持ってしても当時藤原家は兄弟同士で覇権争いの真っ最中です。 定子は藤原家に囲まれて内裏の中で閉塞感を感じていたのではないでしょうか。

そんな定子が救いを求めて、世間で評判になっている漢文の素養のある清少納言を身分違いにも拘らず近くに呼び寄せたのです。 二人とも母は藤原家の出ではないので親近感もあったでしょう。 清少納言は期待に応えて「枕草子」を書きあげました。 そこには嘆きつつ一人ぬる夜の定子のさみしさは書かれてません。

この歌は定子亡き後に見つけられたもので他に2首あります。
(後拾遺集 哀傷537)
知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くとも 急ぎたつかな
 ・だれも知る人のない死出の旅路に、今はもうこれまでと心細い気持ちのまま急ぎ旅立つことです。

(後拾遺集 異本歌)
煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ
 ・今となっては私は火葬に付されるような高貴な身分の者ではないと思ってるので、 煙にも雲にもなることなく草木に埋もれてしまうけれども、草の上におりた露を私だと思って見てくださいね。 =上にもどる=
右大将道綱母
百53(秀56)

嘆きつつ
ひとり寝る夜の
明くる間は
いかに久しき
ものとかは知る

  
三条院
秀54(百68)

心にも
あらで憂き世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな
★三条院 (976〜1011-1016〜1017) (後拾遺集 雑一860)
☆心ならずもこの世に生きながらえているなら、その時、恋しく思い出されると思う今夜の月です。

冷泉天皇皇子。母は藤原兼家女・超子。冷泉天皇は18歳で即位し2年後退位。冷泉弟の円融天皇(11歳)が即位し、 15年後に三条院異母兄の花山天皇(16歳 母45謙徳公女懐子)が即位したが、2年後にトピック<T.13=一条朝前後=・寛和の変>により出家して退位した。

円融天皇皇子の7歳の一条天皇(980〜986-1011)が即位する。 一条天皇(25年在位)崩御により即位するが、すでに36歳であった。 在位期間の5年間に二度にわたり内裏が火災にあい、また眼病を患い失明した。道長の軋轢に屈して、 第一皇子の敦明親王を東宮にすることを頼みにして譲位し翌年崩御。 トピック<T.13=一条朝前後=・小一条院> 

三条院は道長と約束を交わしたが、その心境は、この儀同三司母の歌そのものだったでしょうね。
=上にもどる=
儀同三司母
百54(秀55)

忘れじの
行く末までは
かたければ
今日をかぎりの
命ともがな


  
儀同三司母
秀55(百54)

忘れじの
行く末までは
かたければ
今日をかぎりの
命ともがな
★儀同三司母 (955?〜996) (新古今集 恋三1149)
☆私のことは何時までも忘れないよというお言葉も、形だけのものであって何時までも守られるものではないと分かっているので、 あなたがそう言われる今日が最後の命であって欲しいものです。

高階成忠女・高階貴子。中関白藤原道隆妻。通称は高内侍(こうのないし)。「新古今集」とこの集のみ儀同三司母と表記されている。 定家のなせる所以か?

995年道隆が病死すると、翌年のトピック<T.13=一条朝前後=・長徳の変>により、中関白家は没落し、その半年後に失意のうちに亡くなる。 秀53,54,55と道長の覇権争いの犠牲となり、失意のうちに亡くなった3人が続いています。 60清少納言の「枕草子」は陽の部分を、そして100定家は「百人秀歌」に、53定子、55儀同三司母、68道雅、54三条院と陰の部分を残しました。
=上にもどる=
大納言公任
百55(秀59)

滝の音は
絶えて久しく
なりぬれど
名こそ流れて
なほ聞こえけれ


  
右大将道綱母
秀56(百53)

嘆きつつ
ひとり寝る夜の
明くる間は
いかに久しき
ものとかは知る
★右大将道綱母 (937?〜995?) (拾遺集 恋四912)
☆嘆きながらひとり寝する夜の長さが、どんなに長いか分かっていただけますでしょうか。門を開けるのが遅いと言ってますが...。

「蜻蛉日記」の作者。父倫寧は長良流高経の孫です。兼家の妻となり、夫が通ってこない嘆きをつぶやいています。晩年はこの和泉式部の歌そのものの気持ちだったでしょうね。

異母妹は菅原孝標室となり、「更級日記」の作者である孝標女を生んでいます。

「紫式部日記」の作者である64紫式部の母方の祖父為信の兄弟である為雅の室は道綱母の異母姉です。 為信と為雅の父、文範は長良流清経の孫です。トピック<T.9=菅原家と藤原長良・良門流=>

異母弟に長能がおり。花山天皇に仕えて「拾遺集」編纂に関わったとされている。57能因法師が長能の門弟になり子弟制度ができた。

「新勅撰集」 (雑一 1061) 右大将道綱母
かくれぬに おひそめにける あやめ草 ふかきしたねは しる人もなし
・陰沼に生い始めた菖蒲草よ、(その)深い下根は知る人もございません。
「新勅撰集」 (雑一 1062) 東三条院
あやめぐさ ねにあらはるゝ けふこそは いつかとまちし かひもありけれ
・菖蒲草よ、根に顕れる今日こそは、五日−何時かかと待った効もあったのでした。

道綱母は老後の心配から養女を迎えます。源兼忠(清和源氏)の孫女であり兼家女です。兼家女と兼家対面の場は「蜻蛉日記」に詳しいですね。 「新勅撰集」では、一条天皇母の東三条院(詮子)に養女を頼むと言うような話に読み取れるが、実際は詮子の母である時姫とのやり取りです。 この歌の贈答時は、詮子11歳でまだ入内しておらす、養女も12,3歳でした。

※「新勅撰和歌集」全釈六 神作光一、長谷川哲夫 風間書房 2006年3月31日 発行
※ 新版「蜻蛉日記U」(下巻)現代語訳付き 右大将道綱母 川村裕子訳注 角川ソフィア文庫 令和5年6月15日10版発行
※「蜻蛉日記の養女迎え」倉田実 新典社 2006年9月15日初刷発行 
=上にもどる=
和泉式部
百56(秀61)

あらざらむ
この世のほかの
思ひ出に
今ひとたびの
逢ふこともがな


  
能因法師
秀57(百69)

嵐吹く
三室の山の
もみぢ葉は
竜田の川の
錦なりけり
★能因法師 (988〜1051?) (後拾遺集 秋下366)
☆嵐が吹き散らす三室の山のもみじ葉は、竜田川に流れ入り、そのまま川の錦のようになっています。

俗名は橘永ト。歌を藤原長能に師事した。長能は56道綱母の異母弟です。

この歌は、永承四年(1049年)、「内裏歌合」後冷泉天皇(1025〜1045-1068)主催にて詠まれたものです。
これに対する歌は、藤原佑家(長家三男・御子左家)が詠みました。
 散りまがふ 嵐の山の もみぢ葉は ふもとの里の 秋にざりける

能因法師の勝ちです。近年ではあまり評判のよくない歌ですが、当時は大変評価されたそうです。 佑家は当時13,14歳くらいなので、長家の代作かもと言われたりしてます。 100定家がこの歌を撰んだのは御子左家祖の長家と関係するゆえだからでしょうか。御子左家は次男の忠家から俊忠、87俊成、100定家、101為家と続きます

また能因本という清少納言の「枕草子」が伝わっています。 ここで紫式部の「源氏物語」と共に、能因法師、「能因本枕草紙」、御子左家と合わさっています。

※「明月記研究提要」 明月記研究会編 八木書店 2006 初版
※「百人一首を楽しくよむ」 井上宗雄 笠間書院 2005 第3刷

=上にもどる=
紫式部
百57(秀64)

めぐり逢ひて
見しやそれとも
わかぬ間に
雲隠れにし
夜半の月かな


  
良暹法師
秀58(百70)

さびしさに
宿を立ち出でて
ながむれば
いづくも同じ
秋の夕暮れ
★良暹法師 (997?〜1064?) (後拾遺集 秋上333)
☆あまりの寂しさに庵を出でて周りを眺めてみたら、周囲はどこもかしこも同じで慰めるものもなく寂しい秋の夕暮れの景色です。

大原の里に庵の寂しさから耐え切れなくなった寂寥感。風は吹いていたのでしょうか。

ここでは、孤独の中でも風が吹けば誰かが思っていてくれてますよと救いの手を差し伸べているようにも感じます。 離れ離れになっている男からの歌の返しにそよそよと笹原に風が吹いているようにあなたのことは心動かされて忘れていませんよと。 11世紀に入ってからの好対照な生き様の歌人と歌の組み合わせです。

先の57能因法師とは同時代の人です。「百ト一首」でも百69と百70に二人並んでいます。 対する大弐三位は、64紫式部の娘であり後冷泉天皇の乳母として天皇を支えました。
=上にもどる=
大弐三位
百58(秀62)

有馬山
猪名の笹原
風吹けば
いでそよ人を
忘れやはする


  
大納言公任
秀59(百55)

滝の音は
絶えて久しく
なりぬれど
名こそ流れて
なほとまりけれ
★大納言公任 (966〜1041) (拾遺集 雑上449)
☆この滝殿の滝の水は、ずいぶん前に絶えてしまっているけれど、その名声は今に伝わって鳴りわたっていることです。

「拾遺集」に「滝の糸は」としてあるが、「千載集」では「滝の音は」となって重出している。この集では「滝の音は」となっているが、定家は「拾遺集」を評価しており、 「百人秀歌」の方にのみある76俊頼の「山桜咲きそめしよりひさかたの雲居にまごう滝の白糸」にその思ひを秘めたのではないだろうか。 四条大納言と称されて、有職故実に詳しく、詩、歌、管弦のいずれにも秀でており、「三船の才」と称えられた。

多くの珠玉集や歌論書を残している。「前十五人歌合」,「後十五人歌合」,「和漢朗詠集」,「三十六人撰」,「深窓秘抄」(101人)などがあるが、「和漢朗詠集」は、 娘が道長男の教通に嫁する時に引き出物として編んだもの。父として愛情がほとばしり出てます。

対する赤染衛門も息子が大病になった時に住吉明神に祈って病を治したり家族思いであり、 公任が亡くなった年に曾孫の72大江匡房が誕生したが、その時産着を縫って歌を詠んでいます。彼女も大変長命でした。

28紀貫之を継ぐ和歌の大家ですが、28貫之(868〜945)、公任(966〜1041)、87俊成の師であった82基俊(1060〜1142)、 100定家(1162〜1241)と100年おきに長命の大家の出現がありますね。後の世には永福門院(1271〜1342)がいます。 ちなみに3柿本人麻呂も660年位の誕生と言われてます。 しかし766年あたりには誰も見当たりません。771年に天武系から天智系にうつりましたが和歌暗黒時代だったようです。

※「王朝秀歌選」樋口芳麻呂 岩波書店 1983年
※「和漢朗詠集」全訳注 川口久雄 講談社学術文庫 2010年第44刷
※「藤原公任」小町谷照彦 集英社 1985年
※「赤染衛門集全釈」関根慶子 阿部俊子 林マリヤ 北村杏子 田中恭子 風間書房 昭和61年
=上にもどる=
赤染衛門
百59(秀63)

やすらはで
寝なましものを
さ夜ふけて
かたぶくまでの
月を見しかな


  
清少納言
秀60(百62)

夜をこめて
鳥のそら音に
はかるとも
よに逢坂の
関は許さじ
★清少納言 (964?〜1028?) (後拾遺集 雑二939)
☆夜の明けないうちに、鳥の鳴き声を真似て函谷関の番人をだませても、逢坂の関ではそうはいきませんよ。どんなことを言っても私は逢いませんよ。

             
橘則光母・右近尼、花山天皇乳母
||
橘則光
(965-?)
+++++ 60清少納言
(966?-1025?)
||
橘忠望女
(57能因の姉妹)
+++++ 則長
(982〜1034)
|| 「枕草子・三巻本」奥書に源経房(969〜1023)と則李によって広まったと記する。
(安貞二年1228・定家)
源経房姉は道長室の明子
「枕草子・能因本」は此処より始まる。 則李
(1025-1063)

清少納言は著名な歌人である45清原元輔を父に持ち、名を汚してはいけないと定子に詠まなくてもいいように願い出て許され、 随筆と言われる分野の足掛けとなる「枕草子」を生み出した。対する小式部内侍も61和泉式部を母にもち、母に代作を頼んでいるのではと噂されたりしている。 二世同士はともに余人には分からぬ苦労があったでしょうね。

※「枕草子のたくらみ」 山本淳子 朝日新聞出版 2017 第2刷
=上にもどる=
小式部内侍
百60(秀66)

大江山
いく野の道の
遠ければ
まだふみも見ず
天の橋立


  
和泉式部
秀61(百56)

あらざらむ
この世のほかの
思ひ出に
今ひとたびの
逢ふこともがな
★和泉式部 (976?〜1030?) (後拾遺集 恋三763)
☆私はもうすぐ亡くなるでしょう。せめてあの世への思い出にもう一度あなたにお逢いしたいものです。

大江雅致(おおえのまさむね)女。橘道貞と結婚するが、冷泉天皇皇子為尊(ためたか)親王(977-1002)、 敦道(あつみち)親王(981-1007)と恋愛事件をおこす。敦道親王とのことは「和泉式部日記」に詳しい。

寛弘6年(1009)ごろに中宮彰子に仕え始めた。伊勢大輔とはお互いに歌人として有名だったようで、 彰子から「何かお話ししたら。」と言うことで、意気投合したのか夜通し語り合ったらしい。

娘の66小式部内侍が若くして亡くなり晩年は不遇だったようだ。

=上にもどる=
伊勢大輔
百61(秀65)

いにしへの
奈良の都の
八重桜
けふ九重に
にほひぬるかな


  
大弐三位
秀62(百58)

有馬山
猪名の笹原
風吹けば
いでそよ人を
忘れやはする
★大弐三位 (999?〜1082?)(後拾遺集 恋二709)
☆ 有馬山から、猪名の笹原に風が吹きおろすので、笹の葉がそよそよと鳴る。 その、そよという音のように、さあ、それですよ、 お忘れになったのはあなたの方、私はどうして忘れましょうか、忘れはしませんよ。

秀60と同じように二世同士です。しかし、 此処では同じ二世同士と言っても対照的な人生でした。大弐三位は、藤原家良門流の一門に生まれ、母は64紫式部であり、上東門院彰子に仕えて、 権門に愛され、後冷泉天皇の乳母の一人となり、最終的に太宰大弐高階成章の妻となった。それに伴い、越後弁、弁乳母、従三位典侍、 大弐三位など呼び名が変わっていった。大変長命であり、白河天皇の代にあった「内裏後番歌合」(承暦二年・1078年)では、 当時播磨守であった息子の為家(1038-1106)の代わりに出詠して72大江匡房(1041-1111)と相対している。

「紫式部の身辺」門田文衛より、「為房卿記」では永保二年(1082)三月十三日条に為家が母の所労によって石清水臨時祭の使を辞した旨の記載があるので、 この頃老衰が加わってまもなく没したものと推察している。

100定家は自分の息子に紫式部の孫である為家の名前を命名したのだろうか???大弐三位は母方の祖父の為時から為をもらって為家としたのでしょうか。 父方の祖父も為輔と為がつきます。また曾祖父(母紫式部の母方の祖父)は為信です。

※「紫式部集 付大弐三位集・藤原惟規集」南波浩 校注 岩波文庫 1979年8月10日 第6刷発行
=上にもどる=
清少納言
百62(秀60)

夜をこめて
鳥のそら音は
はかるとも
よに逢坂の
関は許さじ


  
赤染衛門
秀63(百59)

やすらはで
寝なましものを
さ夜ふけて
かたぶくまでの
月を見しかな
★赤染衛門 (958?〜1041?)(後拾遺集 恋二680)
☆こんなことならためらわず寝てしまったでしょうに。お約束を頼りに待っていたら、夜が更けてゆき、 とうとう西の山に傾く月を見てしまいました。

中関白殿の道隆(953-995・55儀同三司母の夫、68道雅の祖父)が蔵人の少将だった頃(970年代後半)に赤染衛門の姉妹のところに通っていたが、 その姉妹に代わって詠んだもの。

この歌は「馬内侍集」にもある。87俊成は馬内侍の歌としているが、100定家は赤染衛門の歌としている。

「赤染衛門集」130  「続後撰集」雑上1037
もろともに 見るよもありし 花桜 人づてに聞く 春ぞかなしき
・ご一緒に見る世もあった御前の桜でしたが、里で人づてに花の便りを聞く今年の春は悲しいことです。

トピック<T.13=一条朝前後=・長徳の変>が起こった年の春、 「伊周に親しい人の縁者だった者は、到底出仕できないだろう、といううわさです」と聞いたので、自分の家に籠っていた春、 北の方(倫子)のお言葉で「満開の桜を見せたいものですね」とおっしゃったので、差しあげた歌。

娘の江侍従が伊周の従兄である高階業遠(高階敏忠男)の室である。 かっての赤染衛門の恋人である大江為基は伊周の叔母(55儀同三司母の姉妹)と結婚している。 しかし、すでに為基は出家していたし、この歌も当時から20年ぐらい昔のことだったが、赤染衛門は高階家に近い人と思われていたようです。

後のことだが、息子の挙周は伊周の従妹にあたる高階明順女と結婚している。 ちなみに62大弐三位の夫である高階成章は高階業遠男であり、65伊勢大輔の夫は、高階明順男の高階成順である。

「赤染衛門集」248
すみぞめの 袂になると 聞きしよりも 見しにぞふぢの いろはかなしき
・父上様が亡くなられて喪服中と遠くで噂に聞いた時よりも、こうして、いま、目のあたりに喪服姿を排しますと、 いちだんと悲しい思いがいたします。

寛弘七年(1010年)尾張守から丹波守に代わる時に上京して喪服姿の68道雅に会った時に、その哀れさに同情を禁じ得ないのである。

周囲から高階家に親しい人と噂されることもあるくらいなので、父伊周を亡くして喪に服している68道雅を見て、哀れに思うのも至極当然でしょう。 また「紫式部日記」によると、中宮彰子や道長の辺りでは、「匡衝衛門」とあだ名で呼んでいると書かれてある。 こういう赤染衛門が、本当に「栄花物語」を書いたのだろうか。

※「赤染衛門集全釈」関根慶子 阿部俊子 林マリヤ 北村杏子 田中恭子 風間書房 昭和61年9月30発行
「王朝女流歌人抄」 清水好子 新潮社 平成4年5月25日 3版発行
※ 「紫式部日記」山本淳子訳注 角川ソフィア文庫 平成22年8月25日初版発行
=上にもどる=
左京大夫道雅
百63(秀68)

今はただ
思ひ絶えなむ
とばかりを
人づてならで
いふよしもがな


  
紫式部
秀64(百57)

めぐり逢ひて
見しやそれとも
わかぬ間に
雲隠れにし
夜半の月かな
★紫式部 (975?〜1031?)(新古今集 雑上1499)
☆久しぶりにめぐりあったのに、本当にその人だったのと分からないくらい、夜の月がさっと雲隠れしてしまったように帰ってしまわれた。

・定頼の歌は、宇治十帖を彷彿とさせると言われてますが、ここでこの組み合わせを編んだ定家は、やはりその趣旨だったのでしょうね。

100定家は64歳の時に、一家総出で「源氏物語」の書写を終えています。

娘の62大弐三位が詠んだ歌は定頼からのお伺いの歌の返歌と言われています。 

=上にもどる=
権中納言定頼
百64(秀67)

朝ぼらけ
宇治の川霧
たえだえに
あらはれわたる
瀬々の網代木




 
        正面玄関にもどる ‖ 上にもどる