正面玄関百人秀歌と百ト一首歌枕47春の夜の月水無瀬離宮定家略年譜八七話語り



 

 今まで色々な角度から二つの百人一首集を眺めてきましたが、いつの頃からか定家の年譜と歌の意味がリンクしているように 感じ始めていました。特に定家の母である美福門院加賀が亡くなったのが定家32歳の時です。また、新古今集撰集終功の竟宴を 欠席して後鳥羽院を更に苛立させたのは44歳の時です。どちらも二つの歌集の共通番号を持つ歌です。

 百ト一首の方は大体作者の時代順に成っていると言われたりしてますが所々で大幅に違っているものがあります。20番の元良親王は、 没年順でも生誕順でも35,6番目くらいの人です。何故こんなに前に来ているのかを考える時、式子内親王ことが浮かんできます。 定家20歳の時です。

 また64歳では一家総出で源氏物語の書写を完成させていますが、64番の定頼の歌は源氏物語の宇治十帖を彷彿とさせると評されています。 こういう風に当てはめていくと、定家は600年の歴史の上に自分史を載せたのではないかと思うようになりました。

 当時、定家70過ぎの時に何を思い起こしていたのでしょうね。私たちがよく知る歴史上の大事件も 当時において定家やその周囲の人たちにとっては日々の生活に追われで気にすることもなく過ぎたこともあったでしょうし、 反対に私たちの知りえない事で日々頭を悩ましていたことも多かったでしょう。

 とにかくチャレンジです。ただ歌集は101番まであり、その歌集を完成させたのは、少なくとも定家73歳前後と思ってますので 残りの20数首は別の意図をもって並べたと思われます。

 略年譜参考資料:
 「藤原定家」(村山修一、吉川弘分館)
 「定家明月記私抄」(堀田善衛、つくま学芸文庫)   
 ウエッブサイト「やまとうた」  

 
        ◆ 定家略年譜 1162−1241   両集共通番号を持つ11首の歌は赤で記す 
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   
応保二年 1162 1歳 秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わが衣手は 露にぬれつつ
定家(97)生 父、俊成(83)49歳
三年 1163 2歳 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
長寛二年 1164 3歳 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む
藤原忠通(76)没68歳  崇徳院(77)没46歳
永万元年 1165 4歳 田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
仁安元年 1166 5歳 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
従五位下に叙される  光季を季光と改める
二年 1167 6歳 かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける
紀伊守に任  季光を定家と改める  父は彰広から俊成に改める 
三年 1168 7歳 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
嘉応元年 1169 8歳 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
九条良経(91)生  式子内親王(89)賀茂神社退下する
二年 1170 9歳 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
藤原雅経(94)生
承安元年 1171 10歳 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
西園寺公経(96)生
二年 1172 11歳 わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟
俊成の甥、養子にしていた定長33才頃出家して寂蓮(87)
三年 1173 12歳 天つ風 雲の通い路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
四年 1174 13歳 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
安元元年 1175 14歳 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに
赤斑病で重体に陥る  侍従俊成は右京大夫を辞し、定家を侍従に申し替える
二年 1176 15歳 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ
俊成は病により出家、法名釈阿63歳
治承元年 1177 16歳 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
疱瘡にかかり重体に陥る  安元の大火  藤原清輔(84)没74歳  讃岐院→崇徳院
二年 1178 17歳 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
俊成が判者の賀茂別雷社歌合に三首出詠  記録に残る初出  安徳天皇生  宇都宮頼綱生
★定家は歌人として業平のようにありたいと思ってたらしい。
三年 1179 18歳 すみの江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ
俊成より古今伝授を受ける
四年 1180 19歳 難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや
従五位上に叙される  明月記始  後鳥羽院(99)生  源頼政没77歳  京都竜巻、大火  福原京遷都
養和元年 1181 20歳 わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
初学百首  俊成と御所(式子内親王)に参上  高倉上皇没21歳  平清盛没64歳
寿永元年 1182 21歳 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな
堀河院題百首(俊成の命 父母感涙) 昨年からの飢餓により京都死者多数
二年 1183 22歳 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ
正五位下に叙される  藤原李能女と結婚か  安徳天皇都落ち  後鳥羽天皇践祚4歳
元暦元年 1184 23歳 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
賀茂社歌合二首出詠する
文治元年 1185 24歳 このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
少将雅行と殿上で争い除籍  平家滅亡  鎌倉幕府開府  京都で大地震
二年 1186 25歳 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
除籍を解かれる  二見浦百首(西行の勧め) 良経(91)父、九条兼実摂政  西行(86)、頼朝と会う
三年 1187 26歳 おぐら山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
殷冨門院大輔百首 朝幕関係は改善に向かい、頼朝は群盗鎮圧の任務
四年 1188 27歳 みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ
俊成 千載集 奏覧  定家歌八首入選
五年 1189 28歳 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
左近衛権少将に任  西行の宮河歌合加判  松浦宮物語?  陸奥で源義経没 
建久元年 1190 29歳 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花
従四位下に叙される  一字百首  一句百首  花月百首(良経邸)  西行(86)没73歳  
式子内親王(89)八条院呪詛の疑い、出家
二年 1191 30歳 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
西行一周忌に良経と贈答歌各一首  藤原実定(81)没53歳  藤原長方(秀90)没53歳
三年 1192 31歳 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
良経邸で「いまこむと」の歌を頭に置き33首読む  実朝(93)生  後白河院没66歳  
式子内親王(89)、大炊御門殿を兼実に横領
四年 1193 32歳 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり
六百番歌合(良経主催)  藤原道家(良経男)生  母、美福門院加賀(藤原親忠女)没
五年 1194 33歳 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
西園寺実宗女と結婚
六年 1195 34歳 たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
従四位上に叙される  頼朝上洛  東大寺再建供養
七年 1196 35歳 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
建久の政変  九条兼実失脚  式子内親王(89)、大炊御門殿に入居 
八年 1197 36歳 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
順徳院(100)生  式子内親王(89)、橘兼仲夫婦の託宣事件に巻き込まれる
九年 1198 37歳 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
仁和寺宮五十首和歌(御室五十首)  為家(101)生  土御門天皇即位  後鳥羽院院政
正治元年 1199 38歳 忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな
越部庄洪水被害大  式子内親王(89)、体の不調  源頼朝没53歳
二年 1200 39歳 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき
正四位下に叙される  正治二年院初度百首和歌  内昇殿  姉の八条院三条没53歳  
後鳥羽院、水無瀬離宮造営  式子内親王(89)、後鳥羽院により百首つくり定家に見せる
建仁元年 1201 40歳 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
千五百番歌合詠進  和歌所寄人  新古今集選者任命  式子内親王(89)没
二年 1202 41歳 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
左近衛権中将に任  水無瀬恋歌十五首歌合  寂蓮(87)没64歳
三年 1203 42歳 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
美濃介に任  俊成(83)九十賀賜る  姉の八条院按察没50歳  新古今集の選歌献ずる  
実朝(93)征夷大将軍
元久元年 1204 43歳 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
宇治離宮歌合講師  俊成(83)没91歳
二年 1205 44歳 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
新古今集撰集終功の竟宴欠席  宇都宮頼綱出家27歳 
建永元年 1206 45歳 あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
無心有心連歌  良経(91)急死38歳
承元元年 1207 46歳 由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え 行く方も知らぬ 恋の道かな
最勝四天王院名所障子歌46首詠進  良経父、九条兼実没
二年 1208 47歳 八重むぐら 茂れる宿の 寂しきに 人こそ見えね 秋は来にけり
住吉社歌合に列する
三年 1209 48歳 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな
実朝(93)に近代秀歌贈る
四年 1210 49歳 みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ
讃岐権介に任  中将を辞し、為家に左近少将に任じ替える  内蔵頭に任
建暦元年 1211 50歳 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
従三位に叙される 侍従  順徳天皇(100)即位
二年 1212 51歳 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
順徳天皇が宮中での和歌行事の中心  後鳥羽院「ひともおし」詠  「方丈記」
建保元年 1213 52歳 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なを恨めしき 朝ぼらけかな
実朝(93)に万葉集書写  為家蹴鞠熱中  柳二本高陽院に移植
二年 1214 53歳 嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る
参議に任  実朝(93)に古今集書写
三年 1215 54歳 忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな
八代集秀歌撰  北条時政没
四年 1216 55歳 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
正三位に叙される  治部卿  定家卿百番自歌合  拾遺愚草撰  「こぬひとを」詠  実朝(93)渡宋計画
五年 1217 56歳 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
土御門院より御草紙を賜り古今集を書写し奉り、歌一首を添う
六年 1218 57歳 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
民部卿に任  北条政子入京
承久元年 1219 58歳 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
順徳天皇に勅判請  実朝(93)暗殺28歳  院、最勝四天王院取り壊す
二年 1220 59歳 やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな
播磨守兼任  母の28回忌  院より勅勘  慈円(95)愚管抄  後嵯峨天皇(土御門天皇男)生
三年 1221 60歳 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
顕註蜜勘  仲恭天皇即位  承久の乱  後堀河天皇即位  後鳥羽院は隠岐に、順徳院は佐渡に配流
貞応元年 1222 61歳 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
参議辞し従二位  為家千首和歌  孫為氏(母宇都宮頼綱女)生
二年 1223 62歳 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ
古今集 後撰集 書写
元仁元年 1224 63歳 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな
一家をあげて源氏物語の書写を始める
嘉禄元年 1225 64歳 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木
源氏物語書写終  為家蔵人頭歓喜する  長男光家出家  慈円(95)没71歳  北条政子没69歳
二年 1226 65歳 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
俊成口伝の基づく歌学書僻案抄を著  為家参議兼侍従に任  連歌が大勢
安貞元年 1227 66歳 もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
民部卿辞す  正二位に叙される   京に群盗横行
二年 1228 67歳 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
寛喜元年 1229 68歳 心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
女御(シュン子)入内屏風和歌詠進  天台止観書写  連歌  藤原兼子没
二年 1230 69歳 嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり
勅撰集新撰の企図あり、道家より意見を求められる  気温不順大凶作
三年 1231 70歳 さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ
春日神社参詣  伊勢物語、大和物語書写  大飢饉
貞永元年 1232 71歳 夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く
権中納言  関白左大臣教実(道家男)家百首  後堀河院より勅撰集下命  役辞任  
為家「たちのこす」詠  四条天皇即位
天福元年 1233 72歳 音に聞く 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ
藻壁門院(道家女シュン子四条母)没25歳  準じて定家女出家  定家出家 法名明静
文暦元年 1234 73歳 高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
新勅撰集草案本奉る  仲恭天皇(順徳院男)没17歳  後堀河院没23歳  新勅撰集草稿を焼く  
八代集秀逸(後鳥羽院命?)  
道家より草案本を受け取り、百余首削除する(新勅撰集指識語) この時点において二つの歌集は完成
嘉禎元年 1235 74歳 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ 激しかれとは 祈らぬものを
新勅撰集完成(世尊寺行能書) 道家に献ずる(勅撰集と言えるのか?)   
明月記終? 前関白道家、摂政教実が後鳥羽院の環京を願うが鎌倉で拒否  教実没25歳 
宇都宮頼綱の求めに応じて天智天皇より、雅経、家隆までの歌を色紙に書いて送る(46首だと思ってます)  
二年 1236 75歳 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
為家 中納言に任
三年 1237 76歳 わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波
順徳院百首加判  家隆(98)没80歳  
暦仁元年 1238 77歳 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
崇徳院の怨霊を封印
為家 正二位に叙される
延応元年 1239 78歳 淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守
後鳥羽院(99)没60歳 (諡号顕徳院)
仁治元年 1240 79歳 秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ
藤原長綱に僻案抄の一見を許す
二年 1241 80歳 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
為家 権大納言に叙される  定家(97)没80歳
1242 81 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
1243 82 思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり
1244 83 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
1245 84 ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき
六条藤家を封印
1246 85 夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり
六条源家を封印
1247 86 嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
1248 87 むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
1249 88 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき
1250 89 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
1251 90 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず
1252 91 きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む
1253 92 わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし
1254 93 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも
1255 94 みよし野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣打つなり
1256 95 おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染めの袖
1257 96 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
1258 97 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
1259 98 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
1260 99 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身
1261 100 ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
1262 101 たちのこす こずゑも見えず 山桜 はなのあたりに かかる白雲
 



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