正面玄関百人秀歌と百ト一首歌枕47春の夜の月水無瀬離宮定家略年譜86話語り



 

 今まで色々な角度から二つの百人一首集を眺めてきましたが、いつの頃からか定家の年譜と歌の意味がリンクしているように 感じ始めていました。特に定家の母である美福門院加賀が亡くなったのが定家32歳の時です。また、新古今集撰集終功の竟宴を 欠席して後鳥羽院を更に苛立させたのは44歳の時です。どちらも二つの歌集の共通番号を持つ歌です。

 百ト一首の方は大体作者の時代順に成っていると言われたりしてますが所々で大幅に違っているものがあります。20番の元良親王は、 没年順でも生誕順でも35,6番目くらいの人です。何故こんなに前に来ているのかを考える時、式子内親王ことが浮かんできます。 定家20歳の時です。

 また64歳では一家総出で源氏物語の書写を完成させていますが、64番の定頼の歌は源氏物語の宇治十帖を彷彿とさせると評されています。 こういう風に当てはめていくと、定家は600年の歴史の上に自分史を載せたのではないかと思うようになりました。

 当時、定家70過ぎの時に何を思い起こしていたのでしょうね。私たちがよく知る歴史上の大事件も 当時において定家やその周囲の人たちにとっては日々の生活に追われで気にすることもなく過ぎたこともあったでしょうし、 反対に私たちの知りえない事で日々頭を悩ましていたことも多かったでしょう。

 ただ歌集は101番まであり、その歌集を完成させたのは、少なくとも定家73歳前後と思ってますが、 後堀河院より勅撰集編纂のご下命を賜った71歳(ゆうされば(71))からの31首はそれまでとまた違った意図をもって並べたと思われます。   (2017/12/24→2018/5/14)  
 
        ◆ 定家略年譜(1162−1241)とその後   両集共通番号を持つ11首の歌は赤で記す                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
応保二年 1162 1歳 秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わが衣手は 露にぬれつつ
定家(97)生 父、正四位下左京大夫藤原顕広(俊成(83))49歳  母、藤原親忠女美福門院加賀
三年 1163 2歳 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
長寛二年 1164 3歳 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む
藤原忠通(76)没68歳  新院(77)没46歳 (配流後讃岐院) 平清盛、「平家納経」を厳島神社に奉納 
永万元年 1165 4歳 田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
藤原清輔(84)、春頃に「続詞華集」成立 二条院没23歳(7/28)
仁安元年 1166 5歳 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
従五位下に叙される  光季を季光と改める
二年 1167 6歳 かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける
紀伊守に任  季光を定家と改める  父は彰広から俊成と改める 
三年 1168 7歳 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
建御前(定家姉)、後白河院皇后平滋子に初出仕(たまきはる)  六条天皇退位5歳 高倉天皇即位8歳 
嘉応元年 1169 8歳 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
九条良経(91)生  式子内親王(89)賀茂神社退下する
二年 1170 9歳 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
摂政藤原基房の行列、平重盛の兵に襲撃される 藤原雅経(94)生
承安元年 1171 10歳 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
西園寺公経(96)生
二年 1172 11歳 わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟
俊成の甥、養子にしていた定長33才頃出家して寂蓮(87) 藤原清輔、「尚歯会」開催
三年 1173 12歳 天つ風 雲の通い路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
明恵生、親鸞生
四年 1174 13歳 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
後白河院、健春門院、福原・厳島御幸
安元元年 1175 14歳 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに
赤斑病で重体に陥る 侍従俊成は右京大夫を辞し、定家を侍従に申し替える 京都大風
二年 1176 15歳 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ
俊成は病により出家、法名釈阿63歳  これ以降、文治5年(1189年定家28歳)までに、母、美福門院加賀、源氏一品経書写供養を主催(新勅撰集602)  高松院(二条天皇中宮)没36歳 健春門院平滋子(後白河院妃)没35歳 六条院没13歳 九条院(近衛天皇中宮)没46歳 
治承元年 1177 16歳 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
疱瘡にかかり重体に陥る 安元の大火 鹿ケ谷事件 京都強盗横行 藤原清輔(84)没74歳 
讃岐院→崇徳院
二年 1178 17歳 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
俊成が判者の賀茂別雷社歌合に三首出詠  記録に残る初出  姉八条院按察使の夫藤原宗家の養子となる 安徳天皇生 宇都宮頼綱生
★定家は歌人として業平のようにありたいと思ってたらしい。
三年 1179 18歳 すみの江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ
俊成より古今伝授を受ける 平重盛没42歳 京都強盗横行 大納言藤原宗家の拝賀に参仕 清盛、後白河院を幽閉
四年 1180 19歳 難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや
従五位上に叙される 明月記始 高倉天皇譲位 安徳天皇即位3歳 高倉院、厳島御幸 源頼政没77歳 以仁王没30歳 京都大火 福原遷都 後鳥羽院(99)生  源頼朝挙兵 京都還都 平重衡、東大寺・興福寺を焼く 高倉院の仏名会に参仕できず(俊成の強い制止による)
養和元年 1181 20歳 わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
初学百首 俊成と御所(式子内親王)に参上 高倉院没21歳 平清盛没64歳 皇嘉門院(崇徳院中宮)没60歳 俊成、出家後初めて後白河院に参上以後院に近侍  諸国飢饉
寿永元年 1182 21歳 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな
堀河院題百首(俊成の命 父母感涙) 昨年からの飢餓により京都死者多数
二年 1183 22歳 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ
正五位下に叙される 後白河院近臣の藤原李能女(母平基盛女)と結婚か 父俊成、後白河院より勅撰集撰進の院宣 姉建御前、八条院に出仕(たまきはる) 安徳天皇都落ち  後鳥羽天皇4歳の践祚を決める(2年間在位期間が重複)
元暦元年 1184 23歳 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
賀茂社歌合二首出詠する 光家(定家男)生 木曽義仲没31歳 
文治元年 1185 24歳 このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
少将雅行と殿上で争い除籍 平家滅亡 安徳天皇没8歳 建礼門院徳子出家31歳 京都で大地震 九条兼実、源頼朝の要請で内覧 鎌倉幕府開府 (諸説あり)  
二年 1186 25歳 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
左小弁定長への手紙(俊成自筆書状)に一首添える  入道皇太后宮大夫俊成
あしたづの 雲ぢまよひし 年くれて かすみをさへや へだてはつべき (千載集 雑中 1158)
 ・葦辺の鶴は雲の中で道に迷ったままで旧年もくれました。春霞さえすっかり隔ててしまうのでしょうか。昨年の末に除籍処分を受けました我が子には 、春になってもお許しがないのでしょうか。訳注1)

後白河法皇から許しを得て、定長を通して返歌あり  藤原定長朝臣
あしたづは 雲井をさして かへるなり けふ大空の はるるけしきに (千載集 雑中 1159)
 ・葦辺の鶴は春霞を分けて空に帰って行きます。鶴が迷った雲の中の道も今日は晴れるでしょう。息子さんは還昇するようお許しがありました。 あなたの迷いも晴れるでしょう。訳注1)

除籍を解かれる  二見浦百首(西行の勧め) 摂政九条兼実(良経(91)父)に初参か 以後九条家の家司 西行(86)、2度目の奥州下向し鎌倉で頼朝と会う
三年 1187 26歳 おぐら山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
殷冨門院大輔百首 西行(86)から「宮河歌合」加判を求められるか? 朝幕関係は改善に向かい始める 頼朝は群盗鎮圧の任務 義経、奥州に逃れる 藤原秀衡没
四年 1188 27歳 みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ
俊成、千載集奏覧 定家歌八首入選 慈円(95)、この年より以前に「おおけなく」の歌を詠む
五年 1189 28歳 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
左近衛権少将に任  西行の宮河歌合加判 陸奥で源義経没31歳 姉八条院按察の夫藤原宗家没51歳 

定家、少将になり侍て、月あかき夜、よろこび申侍けるを見侍て、あしたにつかはしける 権中納言定家母
みかさやま みちふみそめし 月かげに いまぞこゝろの やみはゝれぬる (新勅撰集 雑二1159)
 ・三笠山の道を歩き始めた月の光(=昇進した息子の姿)に 今やわたしの心の闇は晴れました(=心配ごとはなくなりました) 訳注2) 
建久元年 1190 29歳 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花
従四位下に叙される 一字百首 一句百首 花月百首(良経邸) 西行(86)没73歳 後鳥羽天皇(99)元服 任子(九条兼実女)、入内、立后  東大寺上棟、後白河院御幸 源頼朝入京 式子内親王(89)八条院呪詛の疑い、出家
二年 1191 30歳 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
因幡権介を兼ねる 西行一周忌に良経と贈答歌各一首 良経の「いろは47首」に和する 藤原長方(秀90)没53歳 藤原実定(81)没53歳  
三年 1192 31歳 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
良経邸で「いまこむと」の歌を頭に置き33首読む 実朝(93)生 後白河院没66歳 式子内親王(89)、大炊御門殿を兼実に横領される  源頼朝、征夷大将軍に任 鎌倉幕府開府 (諸説あり)  
四年 1193 32歳 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり
六百番歌合(良経主催) 藤原道家(良経男)生 定家母、美福門院加賀(藤原親忠女)没 曽我兄弟、父の仇工藤裕経を討つ
五年 1194 33歳 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
西園寺実宗女と結婚か 下野国司の訴えで宇都宮頼綱を配流
六年 1195 34歳 たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
従四位上に叙される 定家長女、因子(母藤原実宗女)生 東大寺再建供養、頼朝上洛 昇子内親王(母中宮任子(九条兼実女))生 土御門天皇(母源在子(源通親の養女))生
七年 1196 35歳 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
定家二女、香(母藤原実宗女)生 建久の政変(土御門通親) 九条兼実失脚 中宮任子(九条兼実女)内裏を退出する 式子内親王(89)、大炊御門殿に入居 九条家歌壇停止
八年 1197 36歳 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
式子内親王(89)、良経(91)との贈答歌
ふるさとの 春をわすれぬ 八重桜 これや見し世に かわらざるらん 式子内親王 (続後撰集 春中 112)
 ・あなたが以前住んでいたこの館の八重桜は主人が変わっても同じ様に今年も咲いています。 世の中は変ってしまってもこの桜はかつてあなたが見ていた桜とかわらないでしょうか。訳注3)

八重桜 折知る人の なかりせば 見し世の春に いかであはまし  良経 (続後撰集 春中 113)
 ・八重桜を時節をよく分かって折り取ってくれる人がいなければ、以前に見た世の春にどうして会うことができたでしょうか。 お陰様で懐かしい昔の春に会うことができました。訳注3)

順徳院(100)生 式子内親王(89)、橘兼仲夫婦の託宣事件に巻き込まれる 大姫(源頼朝女)没20歳
九年 1198 37歳 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
仁和寺宮五十首和歌(御室五十首) 守覚法親王五十首歌読ませ侍りけるに
春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰に別るる 横雲の空 藤原定家朝臣 (新古今集 春上 38)
 ・空に浮橋をかけるような甘美で悩ましい春の夜の夢が途切れ、目が覚めた。暁方の空にたなびく横雲が嶺から離れてゆく。訳注5)

定家男、為家(101)(母藤原実宗女)生  土御門天皇即位4歳  後鳥羽院院政19歳 六代(平維盛男)没 
正治元年 1199 38歳 忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな
越部庄洪水被害大  式子内親王(89)、体の不調  源頼朝没53歳
二年 1200 39歳 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき
正四位下に叙される  姉の八条院三条(俊成卿女の母)没53歳
式子内親王(89)、守成親王(順徳院)の準母に決まる
後鳥羽院により「正治初度百首」詠進の命を受け、(定家自身は俊成や公経(96)の助けで詠進できる)百首つくり俊成、兼実、良経に下見を請う  式子内親王(89)は百首を定家に見せ、定家はその後良経(91)宅に行き、良経の百首も見る 内昇殿 後鳥羽院、水無瀬離宮造営 為家(101)、水痘、痢病など病む 
建仁元年 1201 40歳 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
千五百番歌合詠進 和歌所寄人 後鳥羽院熊野御幸に供奉 新古今集選者任命 式子内親王(89)没53歳 守成親王(順徳院(100))の準母は殷富門院(式子の姉)がなる  為家、瘧病を病む 大皇太后藤原多子(近衛天皇、二条天皇の「二代の后」)没62歳
二年 1202 41歳 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
左近衛権中将に任 伊勢物語書写 水無瀬恋歌十五首歌合 寂蓮(87)没64歳 土御門通親没53歳 良経(91)、内覧 氏長者 為家(101)、痢病など病む 従五位下5歳にて
三年 1203 42歳 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
美濃介に任 為家、着袴 道家(良経男)元服 姉の八条院按察(朱雀尼上、故藤原宗家室)没50歳  新古今集の選歌献ずる  実朝(93)征夷大将軍  

俊成(83)、釈阿(俊成の法名)九十賀賜る
桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな 太上天皇(99) (新古今集 春下 99) 
 ・桜の咲く遠山、それは山鳥の長く垂れた尾のように、永い永い春のひねもす眺めていても飽きない色だなあ 訳注4) 
元久元年 1204 43歳 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
宇治離宮歌合講師 平氏一族、伊賀伊勢の両国で挙兵(三日平氏の乱)、平賀朝雅が討つ 教家(良経(91)男、道家弟)元服  俊成(83)没91歳  
二年 1205 44歳 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
新古今集撰集終功の竟宴欠席 宇都宮頼綱、謀反を疑われて出家27歳 藤原隆信(定家異父兄)没64歳 平賀朝雅の乱、京中騒動 北条時政出家 
建永元年 1206 45歳 あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
無心有心連歌 良経(91)急死38歳 藤原(近衛)家実、関白 吉富荘の地頭の件を後鳥羽院に訴える 源仲国夫妻の偽りの霊託事件
承元元年 1207 46歳 由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え 行く方も知らぬ 恋の道かな
後鳥羽院(99)の命により最勝四天王院の四十六間ある障子(襖)に名所絵と歌を描かく中心人物となる 最勝四天王院名所障子歌46首詠進 九条兼実(良経(91)父)没 法然を土佐へ、親鸞を佐渡へ配流 大地震  「最勝四天王院障子和歌」が替えられ憤慨 「新古今集」の切継が続き慨嘆
二年 1208 47歳 八重むぐら 茂れる宿の 寂しきに 人こそ見えね 秋は来にけり
住吉社歌合に列する 体調不良が続く 道家と公経(96)女と婚儀 東宮守成親王(順徳天皇(100))元服
三年 1209 48歳 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな
立子(故良経女)東宮妃 「新古今集」を何度か書写 実朝(93)に近代秀歌贈る 為家(101)、東宮の昇殿を許される
四年 1210 49歳 みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ
讃岐権介に任 中将を辞し、為家(101)に左近少将に任じ替える 土御門天皇譲位16歳 守成親王(順徳天皇(100))即位14歳 為家、昇殿を許され、内蔵頭に任  伊勢神宮宝剣を天皇の宝剣とする
建暦元年 1211 50歳 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
従三位に叙される 侍従 八条院ワ子内親王没75歳 春華門院昇子内親王(母中宮任子(九条兼実女))没17歳  「無名抄」鴨長明 光家(定家長男)、内昇殿を許される 為家、落馬し重傷  
二年 1212 51歳 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
家隆(98)、昇殿を許されるを知り感悦 後鳥羽院、定家邸の柳2本召し高陽院の坪庭に移植 七条院(後鳥羽院母)、定家邸の柳を召す 後鳥羽院(99)「ひともおし」詠  後鳥羽院、藤原秀能を鎮西に派遣し宝剣を捜索 「方丈記」鴨長明 
建保元年 1213 52歳 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なを恨めしき 朝ぼらけかな
実朝(93)に秘蔵の「万葉集」を贈 為家(101)蹴鞠熱中 後鳥羽院、定家邸の柳を召して高陽院に移植 光家が良輔(九条兼実4男)より与えられた山田荘が後鳥羽院に召し上げられる  光家、宇佐使を命じられる 金槐和歌集書写(これ以前に成立) 建礼門院徳子没59歳
二年 1214 53歳 嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る
参議に任 実朝(93)に古今集書写 内裏人麿影供  
三年 1215 54歳 忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな
「定家八代抄」初撰本・精選本成立 内裏歌合の光家の歌が優れないことを嘆く
光家自身も、たらちねや およばぬ山の 雪の道 ふもとにだにも なほやおよばむ (夫木和歌抄 題十八) 北条時政没78歳
四年 1216 55歳 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
正三位に叙される 治部卿 定家卿百番自歌合 拾遺愚草撰 「こぬひとを」詠 殷富門院(式子の姉)没70歳 鴨長明没62歳  藤原有家(六条籐家、新古今集選者の一人)没62歳 高階栄子(丹後局)没 実朝(93)渡宋計画 大江広元、官位上昇を求める実朝を諫める
五年 1217 56歳 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
土御門院より御草紙を賜り古今集を書写し奉り、歌一首を添う 順徳天皇より御製百番歌合を賜り、勝負を付して進上 実朝、宋人陳和卿に作らせた船、浮かばず  源頼家の遺児公暁が鶴岡八幡宮寺別当になる 公経(96)勅勘を蒙り蟄居
六年 1218 57歳 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
民部卿に任 北条政子、熊野詣途次に入京 仲恭天皇(順徳天皇男)生 光家(定家男)が仕えていた良輔(九条兼実4男)没34歳 実朝、任右大臣
承久元年 1219 58歳 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
順徳天皇に勅判請  実朝(93)、公暁に暗殺28歳  後鳥羽院、最勝四天王院取り壊す 頼経(道家男)、将軍後継として下向 姉建御前(「たまきはる」)没か63歳
二年 1220 59歳 やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな
播磨守兼任 母の28回忌 院より勅勘 土御門院、道助法親王などから密かに歌を召される 慈円(95)愚管抄  後嵯峨天皇(土御門院男)生 兄藤原成家没66歳  光家、賀茂臨時祭の舞人務める
三年 1221 60歳 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
顕註蜜勘 雅経(94)没52歳 順徳天皇譲位25歳 仲恭天皇即位4歳 為家、仲恭天皇昇殿を許される 公経(96)一時幽閉 承久の乱 仲恭天皇(九条廃帝) 為家出仕を止められる  後堀河天皇即位10歳 後鳥羽院(99)は隠岐に、順徳院(100)は佐渡に配流 後高倉(後堀河天皇父)院政 為家、後堀河天皇昇殿を許される 土御門院みずから土佐へ配流
貞応元年 1222 61歳 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
参議辞し従二位 古今集4回、後撰集2回 拾遺集を書写 孫為氏(母宇都宮頼綱女)生
二年 1223 62歳 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ
古今集、後撰集、拾遺集を書写 為家(101)の千首和歌に加点 後高倉院(後堀河天皇父)没45歳 土御門院、土佐から阿波へ遷す
元仁元年 1224 63歳 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな
一家をあげて源氏物語の書写を始める 為定(後の源承、為家男)生 親鸞、浄土真宗を開く 北条義時没62歳 公経(96)、北山の別荘に西園寺建立
嘉禄元年 1225 64歳 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木
源氏物語書写終 為家蔵人頭歓喜する 教家(良経(91)次男、道家弟)の出家に伴い仕えていた長男光家も出家 慈円(95)没71歳(諡号慈鎮和尚) 大江広元没78歳 北条政子没69歳 昨年末よりこの年前半、疫病流行 安倍泰俊(陰陽師)に鬼気祭を修めさせる
二年 1226 65歳 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
俊成口伝の基づく歌学書僻案抄を著 為家参議兼侍従に任 一年を通じて連歌会が大勢 大雨で琵琶湖氾濫、一条京極邸の庭が池の如くなる  為家室の父宇都宮頼綱入洛 北条時政後室の牧の尼(為家室の祖母)、為家邸を訪問 大地震
安貞元年 1227 66歳 もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
民部卿辞す 正二位に叙される 孫為教(為家男)生 盛んに写経を行い訪問客を断る 源通具(俊成卿女夫)没57歳 大地震 京に群盗横行 南隣に群盗入る  
二年 1228 67歳 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
枕草子、秋篠月清集、散木奇歌集を書写 興福寺、多武峯を焼く 七条院(後鳥羽院母、藤原殖子)没72歳
寛喜元年 1229 68歳 心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
後撰集、長秋詠藻、書写 連歌会大勢 女御?子(シュンシ)入内屏風和歌詠進(寛喜元年女御入内屏風) 娘因子の出仕について公経(96)の援助有り   藤原兼子(後鳥羽院乳母)没75歳 京都、日照りが続く
二年 1230 69歳 嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり
摩訶止観加点を終える 因子の装束の負担が耐えがたく公経(96)の援助有り 勅撰集新撰の企図あり、道家より意見を求められる 道家、実氏、教実  甥信実(異父兄隆信男)たちの百首歌を見て加点する 任中納言の望み薄し落胆 庭を掘り麦畑とし凶作に供える 11月に麦実り、桜咲き、筍生え、郭公鳴く など季節異変 京都暴風雨 鴨川氾濫 気温不順大凶作
三年 1231 70歳 さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ
伊勢物語、大和物語、拾遺集など書写 春日神社参詣3首詠む 四条天皇生 土御門院阿波にて没37歳 公経(96)病により出家、入道前太政大臣  盗賊横行する 豪雨により鴨川氾濫 餓死者街頭に満ち悪臭屋内に満つ 定家の家僕皆浮腫にかかる 諸国大飢饉
貞永元年 1232 71歳 夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く
権中納言任 61歳の夏からこの頃までに布引の滝を見て詠歌(続後撰集1013) 関白左大臣教実(道家男)家百首   後堀河天皇より勅撰集編纂の御下命を賜る(6/13) 道家家歌合が頻繁に行われる 右衛門督為家(101)「たちのこす」詠(新勅撰集 春下101)(7月)  新勅撰集の序及び目録を奉覧(10/2) 四条天皇即位2歳(10/4) 藤原教実(道家男)任摂政 権中納言辞す(12/15) 明恵没60歳  
天福元年 1233 72歳 音に聞く 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ
千載集、拾遺集書写 藻壁門院(道家女シュン子四条母)没25歳  準じて因子と香(定家女)出家 定家出家、法名明静 家隆(98)、後鳥羽院の命により36人和歌を撰進  順徳院の「新勅撰和歌集」入集への関心を耳にする 家長より後鳥羽院が定家の出家を驚いたと聞く 勅撰集入集を願う来訪者多くあり
文暦元年 1234 73歳 高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
伊勢物語、後撰集 古来風体抄など書写、仲恭天皇(順徳院男)没17歳  後堀河院より五首賜り、新勅撰集完成を急ぐ(5月) 新勅撰集草稿本奉る(6/3)  後堀河院没23歳(8/6) 新勅撰集草稿を焼く(8/7) 八代集秀逸を道助法親王に進上(9/8)  道家、後堀河院の許の新勅撰集草稿本を尋ね出し選集継続させる  道家、教実父子、新勅撰集から百余首削除させる(新勅撰集指識語) ★二つの歌集「百人秀歌と百ト一首」を貞永元年(1232/7)以降この年までに編纂?
嘉禎元年 1235 74歳 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ 激しかれとは 祈らぬものを
新勅撰集完成(世尊寺行能書) 道家に献ずる(3/12) ★定家は、勅撰集成立と思っていたのだろうか? 教実没25歳(3/28) 土佐日記書写(5/13)  後鳥羽院の環京を願うが鎌倉が拒否(5/14) 
宇都宮頼綱の求めに応じて天智天皇(1)より、雅経(94)、家隆(98)までの歌を色紙に書いて送る(5/27) 10月頃疱瘡流行、 死者多数 鍾愛の孫(為家女為子か)、為氏など定家邸の女子発病 家隆(98)、従二位になる  
二年 1236 75歳 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
明月記、この年以降記事現存せず 後撰集書写 為家、権中納言任、右衛門督を辞す 為家、土佐日記紀貫之自筆本を書写(8/29) 源具定(俊成卿女男)37歳
三年 1237 76歳 わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波
複数回、古今集書写、順徳院百首加点・加判 俊頼髄脳書写 家隆(98)天王寺にて没80歳  
暦仁元年 1238 77歳 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ  崇徳院の怨霊を封印 
延応元年 1239 78歳 淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守
後鳥羽院(99)隠岐の島にて没60歳 (諡号顕徳院)
仁治元年 1240 79歳 秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ
藤原長綱に僻案抄の一見を許す 藤原秀能没57歳 
二年 1241 80歳 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
為家、権大納言任 定家(97)没80歳(8/20) 為家服解、復任せず 
1242 81 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
四条天皇没12歳 御嵯峨天皇践祚23歳(父土御門天皇・母通子(源通宗女)) 
顕徳院(99)→後鳥羽院 順徳院(100)佐渡島にて没46歳
1243 82 思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり
1244 83 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
公経(96)没74歳
1245 84 ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき   六条藤家を封印
1246 85 夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり 六条源家を封印
1247 86 嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
1248 87 むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
後嵯峨院より勅撰集編纂の御下命を賜る
1249 88 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき
佐渡院(100)→順徳院
1250 89 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
1251 90 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず
為家(101)、続後撰集奏覧
1252 91 きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む
九条道家没、60歳 
1253 92 わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし
阿仏尼、為家の助手
1254 93 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも
1255 94 みよし野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣打つなり
1256 95 おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染めの袖
為家出家、法名融覚
1257 96 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
1258 97 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
1259 98 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
宇都宮頼綱没82歳 
1260 99 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身
嵯峨中院邸に転居
1261 100 ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
権中納言定家生誕100年 
1262 101 たちのこす こずゑも見えず 山桜 はなのあたりに かかる白雲
 


 参考資料:
 「明月記研究提要」(明月記研究会編、八木書店)
 「藤原定家」(村山修一、吉川弘分館)
 「定家明月記私抄」(堀田善衛、つくま学芸文庫)
 「異端の皇女と女房歌人」(田淵句美子 角川選書)
 「藤原為家」(佐藤恒雄 笠間書院)
 「阿仏尼」(田淵句美子 吉川弘文館)
 ウエッブサイト「「藤原定家は、なぜ超新星の記録を残したか」(臼井正)
 ウエッブサイト「「やまとうた」」   
 訳注1)「千載和歌集」(久保田淳校注、岩波文庫)
 訳注2)「小倉百人一首あ・ら・かるた」より「親になって知る親心」
 訳注3)「続後撰和歌集全注釈」(木船重昭編著、大学堂書店)
 訳注4)「新古今和歌集」(久保田淳訳注、角川ソフィア文庫)   
 訳注5)「藤原定家全歌集」(久保田淳校訂・訳、ちくま学芸文庫)

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