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◆ 定家略年譜(1162−1241)とその後      (2022/9/19)

今まで色々な角度から「百人秀歌」と「百ト一首」を眺めてきたが、いつの頃からか定家の年譜と歌の意味がリンクしているように感じ始めていた。 特に定家の母である美福門院加賀が亡くなったのが定家32歳の時。新古今集撰集終功の竟宴を欠席して99後鳥羽院を更に苛立させたのは44歳の時。 「32」,「44」という数字は両歌集の不動番号です。

「百ト一首」の方は大体作者の時代順に成っていると言われてますが所々で大幅に違っています。20番の元良親王は、 生誕順でも没年順でも35,6番目くらいの人です。何故こんなに前に来ているのかを考える時、「明月記」に書かれている定家20歳の時の89式子内親王ことが浮かんできます。

また64歳の時に一家総出で源氏物語の書写を完成させていますが、64番の定頼の歌は「源氏物語」の宇治十帖を彷彿とさせると評されています。 こういう風に当てはめていくと、定家は600年の歴史の上に自分史を載せたのではないかと思うようになりました。

当時、70歳を過ぎた定家は自分の人生をどのように思い起こしていたのでしょう。私たちがよく知る歴史上の大事件も当時において定家やその周囲の人たちにとっては日々の生活に追われで気にすることもなく過ぎたこともあったでしょうし、 反対に私たちの知りえない家庭内の事で日々頭を悩ましていたことも多かったでしょう。

後堀河天皇より勅撰集編纂のご下命を賜った71歳「71ゆうされば」から75歳「75ちぎりおきし」までは、 「新勅撰集」編纂時の思ひを先人の歌を借りて表しているのではないか。

<百人秀歌の歌人たち>のページ内のトピック<T.9 式子内親王と定家>では、 71番以降の恋の部立ての歌でもって89式子内親王と97定家の物語的悲哀の筋立てをしました。

定家自身が「百人秀歌」の奥書に「自分の赴くままに撰んだので他人にとやかく言われる筋合いはない」ということを漢文で記してます。 自分史を鑑みながら、歌人たちを天空の星にちりばめて同じ歌人が左右どちらにもいるという過去にない斬新な歌合形式として組み立てたのです。

下の「略年譜」では、定家の年譜に添っていると思われる「百ト一首」の歌を上段に、下段に「百人秀歌」の歌を記しました。
歌人名の前にある数字は「百ト一首」番号です。

       
1歳〜10歳 11歳〜20歳 21歳〜30歳 31歳〜40歳 41歳〜50歳
51歳〜60歳 61歳〜70歳 71歳〜80歳 その後 1 その後 2 十三代勅撰集一覧
 
 
           
応保二年 1162 1歳 秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わが衣手は 露にぬれつつ
 97定家誕生 父は83俊成、母は美福門院加賀(藤原親忠女)
 平時忠(清盛継室時子弟) 二条天皇呪詛の咎により出雲に配流
秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わが衣手は 露にぬれつつ

           
応保三年 1163 2歳 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
 源光行(1163-1244)生 「源氏物語」河内本
 北条義時(1163-1224)生
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

           
長寛二年 1164 3歳 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む
 76法性寺入道前太政大臣・藤原忠通没68歳  77讃岐院没46歳(1184年追号・崇徳院) 
 平清盛は「平家納経」を厳島神社に奉納 六条天皇(父二条天皇)生
 愛寿御前(承明門院中納言 定家妹)生
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む

           
永万元年 1165 4歳 田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
 「詞華集」編纂の79顕輔の男・84藤原清輔は春頃に二条院勅命の「続詞華集」編纂 二条院没23歳(7/28) 
 「続詞華集」奉覧前にて勅撰集にならず 六条天皇践祚2歳
 摂政は近衛基実(76藤原忠通四男、母は秀73源国信女)
田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
   
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仁安元年 1166 5歳 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
 従五位下に叙される 光季を季光と改める 
 定家妻(藤原実宗女・96公経姉)生 近衛基実没24歳
かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける

           
仁安二年 1167 6歳 かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける
 紀伊守に任 季光を定家と改める
 父は正三位となり葉室家の猶子より40数年ぶりに御子左家に復し、名も顕広から俊成と改める  
 
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

           
仁安三年 1168 7歳 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
 六条天皇退位5歳(史上最年少の上皇) 高倉天皇(父は後白河天皇、母は平滋子)即位8歳
 建御前(定家姉・「たまきはる」作者)が後白河院皇后平滋子に初出仕 
わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟

           
嘉応元年 1169 8歳 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
 91九条良経(九条兼実男)生 後白河院出家
 89式子内親王(父は後白河天皇、母は藤原成子)が賀茂神社退下する
奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
   
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嘉応二年 1170 9歳 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
 摂政松殿基房(76藤原忠通五男、母は秀73源国信女)の行列が平重盛の兵に襲撃される 
 94藤原雅経(父は難波頼経、母は源顕房孫 飛鳥井家祖)生
立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む

           
承安元年 1171 10歳 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
 96西園寺公経生 俊成卿女(父は藤原盛頼、母は八条院三条)生 源通具(父は源通親、俊成卿女の夫)生
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

           
承安二年 1172 11歳 わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟
 俊成が養子にしていた甥の定長(87寂蓮)33才頃出家 84藤原清輔が「尚歯会」(齢を尊ぶ会)開催
すみの江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ

           
承安三年 1173 12歳 天つ風 雲の通い路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
 この頃、建礼門院右京大夫は徳子(平清盛女)の高倉天皇中宮付きとして出仕 明恵生、親鸞生
筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
   
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承安四年 1174 13歳 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
 後白河院と健春門院、福原・厳島御幸
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

           
安元元年 1175 14歳 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに
 侍従俊成は右京大夫を辞し、定家を侍従に申し替える 赤斑病で重体に陥る 京都大風
わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり

           
安元二年 1176 15歳 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ
 83俊成は病により出家、法名釈阿63歳  
 これ以降、文治5年(1189年定家28歳)までに、定家母は「源氏一品経書写供養」を主催

 紫式部ためとて、結縁供養養し侍ける所に、薬草?品を送り侍とて 権大納言宗家
  法の雨に 我もや濡れん むつましき 若紫の 草のゆかりに (新勅撰集 釈教歌602) 

 高松院(二条天皇中宮)没36歳 健春門院平滋子(後白河院妃)没35歳 六条院没13歳 九条院(近衛天皇中宮)没46歳
天つ風 雲の通い路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ

           
治承元年 1177 16歳 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
 疱瘡にかかり重体に陥る 安元の大火 鹿ケ谷事件 京都強盗横行 84藤原清輔没74歳 
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
   
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治承二年 1178 17歳 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
 「賀茂別雷社歌合」(83俊成が判者)に三首出詠 記録に残る初出 
 姉八条院按察使の夫藤原宗家の猶子となる 
 83俊成は歌道の長者として九条兼実(91良経の父)に招かれる
 安徳天皇(父高倉天皇、母平徳子(平清盛女)生 宇都宮頼綱生
 ★定家は歌人として業平のようにありたいと思っていたらしい
陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れむとおもふ われならなくに

           
治承三年 1179 18歳 すみの江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ
 83俊成より古今伝授を受ける 内昇殿を許される 大納言藤原宗家の拝賀に参仕 
 平重盛没42歳 清盛は後白河院を幽閉 京都強盗横行
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ

           
治承四年 1180 19歳 難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや
 従五位上に叙される 「明月記」記事ここより現存する 高倉天皇譲位 安徳天皇即位3歳 
 高倉院が厳島御幸 京都大火 福原遷都 源頼朝挙兵 京都還都 平重衡が東大寺・興福寺を焼く
 高倉院の仏名会に参仕できず(83俊成の強い制止による)
 以仁王没30歳 源頼政没77歳
 99後鳥羽院(父高倉院、母藤原殖子)生 
難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや

           
養和元年 1181 20歳 わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
 初学百首詠 83俊成と御所(89式子内親王)に参上 
 83俊成が出家(1176年)後初めて後白河院に参上、以後院に近侍 諸国飢饉
 後白河院京極(定家異母姉)亡 
 俊成命により平維盛室(建春門院新大納言 後白河院京極二女 六代母)に維盛任右近衛中将の慶びを申す
 この頃82道因法師(藤原敦頼・25藤原定方の末裔)没90歳? 
 皇嘉門院(崇徳院中宮・76藤原忠通女)没60歳 高倉院没21歳 平清盛没64歳 
わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
   
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寿永元年 1182 21歳 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな
 この年より文治三年(1187年)まで記事を欠く
 堀河院題百首詠(83俊成の命 父母感涙) 昨年からの飢餓により京都死者多数
山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば

           
寿永二年 1183 22歳 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ
 正五位下に叙される 後白河院近臣の藤原李能女(母平基盛女)と結婚か 
 83俊成へ後白河院よりの勅撰集撰進の院宣を平資盛(重盛男)が奉じた
 平行盛(平基盛男 定家室季能女叔父)に詠歌を託される 「新勅撰集1194」
 平忠度が俊成に百余首書き集められた巻物を託す
 姉建御前が八条院に出仕(「たまきはる」著) 安徳天皇都落ち 
 99後鳥羽天皇4歳が践祚(2年間在位期間が重複)
 北条泰時生
今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな

           
元暦元年 1184 23歳 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
 「賀茂社歌合」二首出詠 光家(定家男)生 木曽義仲没31歳
 讃岐院→77崇徳院(寿永三年、翌日元暦に改元)
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに

           
文治元年 1185 24歳 このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
 少将雅行と殿上で争い除籍 
 平家滅亡 安徳天皇没8歳 建礼門院徳子(安徳天皇母、平清盛女)出家31歳 
 九条兼実(76藤原忠通六男)が源頼朝の要請で内覧 京都で大地震
 頼朝 諸国に守護地頭を設置 鎌倉幕府開府 (諸説あり)
有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
   
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文治二年 1186 25歳 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
 左小弁定長への手紙(俊成自筆書状)に一首添える  入道皇太后宮大夫俊成

 あしたづの 雲ぢまよひし 年くれて かすみをさへや へだてはつべき (千載集 雑中 1158)  
  ・葦辺の鶴は雲の中で道に迷ったままで旧年もくれました。春霞さえすっかり隔ててしまうのでしょうか。 昨年の末に除籍処分を受けました我が子には 、春になってもお許しがないのでしょうか。訳注1)

 後白河法皇から許しを得て、定長を通して返歌あり  藤原定長朝臣

  あしたづは 雲井をさして かへるなり けふ大空の はるるけしきに (千載集 雑中 1159)
   ・葦辺の鶴は春霞を分けて空に帰って行きます。鶴が迷った雲の中の道も今日は晴れるでしょう。 息子さんは還昇するようお許しがありました。 あなたの迷いも晴れるでしょう。訳注1)

 除籍を解かれる 二見浦百首(86西行の勧め)詠 摂政九条兼実(91良経父)に初参か? 
 以後九条家の家司 86西行が2度目の奥州下向、鎌倉で頼朝と会う
心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花

           
文治三年 1187 26歳 おぐら山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
 殷冨門院大輔百首詠 西行(86)から「宮河歌合」加判を求められるか? 朝幕関係は改善に向かい始める 
 頼朝は群盗鎮圧の任務 義経、奥州に逃れる 藤原秀衡没
ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ

           
文治四年 1188 27歳 みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ
 83俊成が「千載集」奏覧 97定家歌八首入選 
 95慈円(父76藤原忠通十一男)がこの年までに「おおけなく」の歌を詠む
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ

           
文治五年 1189 28歳 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
 左近衛権少将に任 西行の宮河歌合加判 陸奥で源義経没31歳 姉八条院按察の夫藤原宗家没51歳

 定家、少将になり侍て、月あかき夜、よろこび申侍けるを見侍て、あしたにつかはしける 権中納言定家母
 みかさやま みちふみそめし 月かげに いまぞこゝろの やみはゝれぬる (新勅撰集 雑二1159)
  ・三笠山の道を歩き始めた月の光(=昇進した息子の姿)に 今やわたしの心の闇は晴れました(=心配ごとはなくなりました) 訳注2) 
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
   
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建久元年 1190 29歳 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花
 従四位下に叙される 一字百首 一句百首 花月百首(91良経邸) 西行(86)没73歳 
 99後鳥羽天皇元服 任子(九条兼実女)が入内、立后し中宮  東大寺上棟、後白河院御幸 源頼朝入京 
 89式子内親王が八条院呪詛の疑い、出家
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

           
建久二年 1191 30歳 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
 因幡権介を兼ねる 86西行一周忌に91良経と贈答歌各一首 91良経の「いろは47首」に和する 
 九条兼実、関白
 秀90藤原長方没53歳 81後徳大寺左大臣(藤原実定)没53歳 
 85俊恵法師(祖父71大納言経信、父74源俊頼)没?78歳?
月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど

           
建久三年 1192 31歳 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
 91良経邸で「いまこむと(21)」の歌を頭に置き33首詠 93実朝生 
 後白河院没66歳 院の寵妃であった丹後局(高階栄子)が権勢を強める
 89式子内親王が大炊御門殿から藤原経房(母俊成の姉妹 初代関東申次?)邸に還御  
 経房と頼朝は同時期に上西門院に仕えていた 源頼朝が征夷大将軍に任 鎌倉幕府開府(諸説あり) 
たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに

           
建久四年 1193 32歳 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり
 「六百番歌合」(良経主催) 定家母・美福門院加賀(藤原親忠女)没 
 曽我兄弟が父の仇の工藤裕経を討つ 源範頼を伊豆に配流
 後白河院の寵妃、丹後局(高階栄子)が勢力を強める
 藤原道家(91良経男)生 
山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり
   
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建久五年 1194 33歳 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
 西園寺実宗女と結婚か 
下野国司の訴えで宇都宮頼綱の祖父朝綱が出家 頼綱も豊後国国府に預かの身となるか?
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

           
建久六年 1195 34歳 たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
 従四位上に叙される 定家長女・因子(母藤原実宗女)生
 東大寺再建供養、頼朝 北条政子、大姫と共に上洛 大姫の入内を画策
 昇子内親王(母中宮任子(九条兼実女))生 土御門天皇(母源在子(源通親の養女))生
おぐら山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ

           
建久七年 1196 35歳 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
 建久の政変(土御門通親) 九条兼実(親幕派)失脚 95慈円 天台座主、後鳥羽院御持僧を辞して蟄居
 中宮任子(九条兼実女)内裏を退出させられる’89式子内親王が大炊御門殿に入居 九条家歌壇停止
 定家二女・香(母藤原実宗女)生 
名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな

           
建久八年 1197 36歳 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
89式子内親王、91良経との贈答歌
 ふるさとの 春をわすれぬ 八重桜 これや見し世に かわらざるらん  式子内親王(続後撰集 春中112)
  ・あなたが以前住んでいたこの館の八重桜は主人が変わっても同じ様に今年も咲いています。 世の中は変ってしまってもこの桜はかつてあなたが見ていた桜とかわらないでしょうか。訳注3)

 八重桜 折知る人の なかりせば 見し世の春に いかであはまし 良経(続後撰集 春中113)
  ・八重桜を時節をよく分かって折り取ってくれる人がいなければ、以前に見た世の春にどうして会うことができたでしょうか。 お陰様で懐かしい昔の春に会うことができました。訳注3)

 100順徳院(父99後鳥羽天皇、母藤原重子(修明門院)藤原範季女)生 
 89式子内親王が橘兼仲夫婦の託宣事件に巻き込まれる 大姫(源頼朝女)没20歳
みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ
   
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建久九年 1198 37歳 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
 仁和寺宮五十首和歌(御室五十首)詠 守覚法親王五十首歌読ませ侍りけるに
  春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰に別るる 横雲の空 藤原定家朝臣 (新古今集 春上 38)
  ・空に浮橋をかけるような甘美で悩ましい春の夜の夢が途切れ、目が覚めた。暁方の空にたなびく横雲が嶺から離れてゆく。訳注5)

 建久年間(1190〜1198)に「松浦宮物語」著? 
 六代(平維盛男) 捕らえられる(平清盛嫡流断絶)
 101為家(父定家、母藤原実宗女)生 土御門天皇(母源通親養女在子)即位4歳 後鳥羽院院政始19歳 
浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき

           
正治元年 1199 38歳 忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな
 89式子内親王が体の不調続く 三人の子が瘧病を病む 越部庄洪水被害大 
 源頼朝没53歳 文覚 佐渡に配流 二代将軍頼家の親裁が止められ十三人の会議制となる
白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

           
正治二年 1200 39歳 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき
 正四位下に叙される  89式子内親王が守成親王(順徳院)の準母に決まる 

 99後鳥羽院により「正治初度百首」詠進の命を受け、 (定家自身は83俊成や96公経の助けで詠進できる)百首つくり83俊成、 兼実、91良経に下見を請う 92二条院讃岐の百首を見る 内昇殿聴される 

 89式子内親王は百首を定家に見せ、定家はその後91良経宅に行き、91良経の百首も見る
 99後鳥羽院が水無瀬離宮造営 101為家が水痘、痢病など病む 

 通具・俊成卿女の歌合に加判、返送 任子 宜秋門院の院号宣下 再入内実現せず
 姉の八条院三条(俊成卿女の母)没53歳 藤原経房没59歳 梶原景時没
 90殷富門院大輔(母方が24菅家(菅原道真)の末裔)没?70歳?
忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな

           
建仁元年 1201 40歳 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
 「千五百番歌合」詠進 和歌所寄人 後鳥羽院熊野御幸に供奉 「新古今集」選者任命 

 89式子内親王没53歳 守成親王(100順徳院)の準母は殷富門院(式子の姉)がなる 
 大皇太后藤原多子(近衛天皇、二条天皇の「二代の后」)没62歳 為家が瘧病を病む

 この頃「無名草子」成立か? 建御前著?
逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
   
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建仁二年 1202 41歳 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
 左近衛権中将に任 「伊勢物語」書写 「水無瀬恋歌十五首歌合」

 俊成卿女が和歌堪能により後鳥羽院御所に初出仕 土御門通親没53歳 
 91良経が内覧、氏長者となる 

 87寂蓮没64歳 101為家が痢病など病む 従五位下5歳にて
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

           
建仁三年 1203 42歳 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
 美濃介に任 為家が着袴 道家(91良経男)元服 姉の八条院按察(故藤原宗家室)没50歳 
 「新古今集」の選歌献ずる 

 83俊成が釈阿(俊成の法名)九十賀賜る(885年の15光孝天皇主催による12遍昭の70歳の賀に倣ったもの)  建礼門院右京大夫(父世尊寺伊行・50藤原義孝の末裔)が贈り物の法服に宮内卿の歌を刺繍する

 桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな 99太上天皇 (新古今集 春下99) 
  ・桜の咲く遠山、それは山鳥の長く垂れた尾のように、永い永い春のひねもす眺めていても飽きない色だなあ 訳注4)
 阿野全成を謀反の疑いで捕らえる 比企能員の乱 93実朝が征夷大将軍
 頼家 伊豆修善寺に幽閉 
恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

           
元久元年 1204 43歳 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
 「宇治離宮歌合」講師 平氏一族、伊賀伊勢の両国で挙兵(三日平氏の乱)、平賀朝雅が討つ 
 教家(91良経次男)が良輔(兼実四男)の養子となり元服  83俊成没91歳
 頼家亡23歳 
あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

           
元久二年 1205 44歳 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
 「新古今集」撰集終功の竟宴欠席 
 因子(定家女) 後鳥羽院に初参 土御門天皇元服 菅原為長昇殿侍読
 藤原隆信(定家異父兄)没64歳 院より有家と共に「源氏物語」以下の物語の和歌を書いて進上する命 
 畠山重忠の乱 平賀朝雅の乱 北条時政出家 宇都宮頼綱が謀反を疑われて出家27歳 
逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
   
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建永元年 1206 45歳 あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
 「物語二百番歌合」を撰ぶ
 因子「民部卿局」の名を賜る
 91良経急死38歳 近衛家実(父近衛基通)が関白 吉富荘の地頭の件を後鳥羽院に訴える 
 源仲国夫妻の偽りの霊託事件
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは

           
承元元年 1207 46歳 由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え 行く方も知らぬ 恋の道かな
 99後鳥羽院の命により最勝四天王院の四十六間ある障子(襖)に名所絵と歌を描かく中心人物となる
 「最勝四天王院名所障子歌」46首詠進 九条兼実(91良経父)没 
 「最勝四天王院障子和歌」が替えられ憤慨 「新古今集」の切継が続き慨嘆

 法然を土佐へ、親鸞を佐渡へ配流 大地震
風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな

           
承元二年 1208 47歳 八重むぐら 茂れる宿の 寂しきに 人こそ見えね 秋は来にけり
 「住吉社歌合」に列する 体調不良が続く 道家が96公経女と結婚 東宮守成親王(100順徳天皇)元服
由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え 行く方も知らぬ 恋の道かな

           
承元三年 1209 48歳 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな
 この年「明月記」の記事を欠く  立子(故91良経女)東宮妃 「新古今集」を何度か書写 
 94雅経(飛鳥井家祖、妻大江広元女)が実朝と定家の間を取り持つ
 93実朝に近代秀歌(初撰本)贈る 六歌仙のごとく六人の歌人の名を挙げている
 ・秀70大納言経信 ・秀76源俊頼 ・秀80藤原顕輔 ・秀82藤原基俊 ・秀84藤原清輔 ・秀87藤原俊成
 「蹴鞠略記」(雅経)成立
 101為家が東宮の昇殿を許される
みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ
   
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承元四年 1210 49歳 みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ
 この年「明月記」の記事を欠く  讃岐権介に任 中将を辞し、101為家に左近少将に任じ替える 
 土御門天皇譲位16歳 守成親王(100順徳天皇)即位14歳 
 101為家が昇殿を許され、内蔵頭に任  伊勢神宮宝剣を天皇の宝剣とする
君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

           
建暦元年 1211 50歳 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
 従三位に叙される 「23大江千里集」書写 侍従 
「無名抄」鴨長明 光家(97定家長男)が内昇殿を許される 為家が落馬し重傷  
 八条院ワ子内親王没75歳 春華門院昇子内親王(母中宮任子(九条兼実女))没17歳 
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

           
建暦二年 1212 51歳 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
 98家隆が昇殿を許され感悦 99後鳥羽院が定家邸の柳2本召し高陽院の坪庭に移植
 七条院(後鳥羽院母)も定家邸の柳を召す 
 99後鳥羽院「ひともをし」(続後撰集 雑中1202)詠 
 99後鳥羽院が藤原秀能を鎮西に派遣し宝剣を捜索 「方丈記」鴨長明
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なを恨めしき 朝ぼらけかな

           
建保元年 1213 52歳 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なを恨めしき 朝ぼらけかな
 93実朝に秘蔵の「万葉集」を贈 101為家が和歌を学ばず蹴鞠熱中に嘆く 
 99後鳥羽院が定家邸の柳を召して高陽院に移植 
 光家が良輔(九条兼実四男)より与えられた山田荘を99後鳥羽院に召し上げられる
 光家が宇佐使を命じられる 

 96公経に任参議の件で愁訴する 「金槐集」(93実朝撰)書写(これ以前に成立) 
 93実朝「よのなかは」(新勅撰集 羈旅525、金槐集 旅部)  建礼門院徳子(安徳天皇母)没59歳

 この頃に、参議に任ぜられない歎きを、布引の滝を見て詠歌するか?
 音にのみ 聞き来し滝も 今日ぞ見る ありて憂き世の 袖や劣ると (続後撰集 雑上1013)
 ・うわさにだけ聞いて来た布引の滝も、今日、ここに来て、この目で見たよ。 生きながらえてきてつらい思いをするこの世を嘆いて、滝のように流す涙で濡れるわたしの袖は、この滝に劣るか、と。 訳注3)

 「和田合戦」和田義盛没67歳
八重むぐら 茂れる宿の 寂しきに 人こそ見えね 秋は来にけり
   
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建保二年 1214 53歳 嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る
 この年より承久元年(1219年)まで「明月記」の記事に脱落多し
 参議に任 任参議を祝す家隆と和歌を贈答 93実朝に古今集書写 内裏人麿影供
よもすがら ちぎりしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき

           
建保三年 1215 54歳 忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな
 「定家八代抄」初撰本・精選本成立 内裏歌合の光家の歌が優れないことを嘆く

 光家自身が詠む
 たらちねや およばぬ山の 雪の道 ふもとにだにも なほやおよばむ (夫木和歌抄 題十八) 

 北条時政没78歳
心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

           
建保四年 1216 55歳 滝の糸は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
 正三位に叙される 治部卿 「定家卿百番自歌合」 拾遺愚草撰 「こぬひとを」(新勅撰集 恋三849)
 100順徳天皇「ももしきや」(続後撰集 雑下1205)詠 殷富門院(89式子姉)没70歳 鴨長明没62歳 
 藤原有家(六条籐家、新古今集選者の一人)没62歳  高階栄子(丹後局)没 
 93実朝渡宋計画 大江広元(この年に中原から大江の氏に改)、官位上昇を求める実朝を諫める
忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな

           
建保五年 1217 56歳 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
 土御門院より御草紙を賜り古今集を書写し奉り、歌一首を添う 
 100順徳天皇より「御製百番歌合」を賜り、勝負を付して進上 
 93実朝が宋人陳和卿に作らせた船浮かばず  源頼家の遺児公暁が鶴岡八幡宮寺別当になる 
 92二条院讃岐(従三位頼政女)没?76歳?
嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る
   
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建保六年 1218 57歳 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
 民部卿に任 北条政子が熊野詣途次に入京 仲恭天皇(父100順徳天皇、母藤原立子(91良経女))生 
 為家 東宮昇殿
 光家(定家男)が仕えていた良輔(九条兼実四男)没34歳  93実朝が任右大臣(鎌倉右大臣)
嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり

           
承久元年 1219 58歳 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
 100順徳天皇に勅判請 93実朝が公暁に暗殺28歳 99後鳥羽院が最勝四天王院を五辻殿に移す 
 「たまきはる」(建春門院中納言日記)最終記事
 頼経(父道家、母96公経女)2歳が将軍後継として下向 姉建御前(たまきはる著)没か63歳
さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ

           
承久二年 1220 59歳 やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな
 この年より元仁元年(1224年)まで「明月記」の記事を欠く
 播磨守兼任 母の28回忌 院より勅勘受ける 土御門院や道助法親王などから密かに歌を召される 
 95慈円が「愚管抄」 後嵯峨天皇(父土御門院、母通子(通親孫女))生 
 兄藤原成家没66歳 光家が賀茂臨時祭の舞人務める
滝の糸は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

           
承久三年 1221 60歳 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
 「顕註蜜勘」 「後撰集」を複数回 「伊勢物語」を書写
 94雅経(蹴鞠飛鳥井流祖)没52歳 順徳天皇譲位25歳 
 仲恭天皇即位4歳 101為家が仲恭天皇昇殿を許される 
 96公経一時幽閉 承久の乱 仲恭天皇(九条廃帝)  為家が出仕を止められる 後堀河天皇即位10歳

 99後鳥羽院は隠岐に、100順徳院は佐渡に配流 後高倉院(後鳥羽院の同母兄、後堀河天皇父)院政 
 101為家が後堀河天皇昇殿を許される 土御門院みずから土佐へ配流 為家が宇都宮頼綱女と結婚
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ
   
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貞応元年 1222 61歳 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
 参議辞し従二位 「古今集」4回、「後撰集」2回 「拾遺集」を書写 
 孫為氏(母宇都宮頼綱女・二条家祖)生
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

           
貞応二年 1223 62歳 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ
 「古今集」、「後撰集」、「拾遺集」を書写 101為家の「千首和歌」に加点 後高倉院(後堀河天皇父)没45歳 
 土御門院を土佐から阿波へ遷す
有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

           
元仁元年 1224 63歳 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな
 一家をあげて「源氏物語」の書写を始める 孫源承(俗名為定、101為家次男)生
 親鸞が浄土真宗を開く 京都大地震
 96公経が北山の別荘に西園寺建立 北条義時没62歳 「伊賀氏の変」
やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな

           
嘉禄元年 1225 64歳 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木
 「源氏物語」書写終 為家の蔵人頭に歓喜する 連歌会続く
 教家(91良経次男)の出家に伴い仕えていた長男光家も出家42歳 
 大江広元没78歳 北条政子没69歳 95前大僧正慈円没71歳(諡号慈鎮和尚)
 昨年末よりこの年前半、疫病流行 安倍泰俊(陰陽師)に鬼気祭を修めさせる
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
   
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嘉禄二年 1226 65歳 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
 俊成口伝の基づく歌学書「僻案抄」著 101為家が参議兼侍従任 一年を通じて連歌会が大勢 
 愛寿御前(承明門院中納言)の依頼により、
 承明門院姫宮(覚子)のために「源氏物語」より紅葉賀、少女、藤裏葉の三帖を書いて進上
 大雨で琵琶湖氾濫、一条京極邸の庭が池の如くなる 
 頼経(道家男)が鎌倉4代将軍  為家室の父宇都宮頼綱入洛 
 北条時政後室の牧の尼(為家室の祖母)が為家邸を訪問 為家室、その母、定家室、因子が集う 大地震
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな

           
安貞元年 1227 66歳 もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
 民部卿辞す 正二位に叙される 
 愛寿御前が土御門院姫君のために依頼してきた「古今集」を書写
 因子(定家女) 安嘉門院(後堀河天皇姉)に出仕
 孫為教(為家3男・京極家祖)生 盛んに写経を行い訪問客を断る 
 源通具(俊成卿女夫)没57歳 大地震 京に群盗横行 南隣に群盗入る 
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

           
安貞二年 1228 67歳 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
 この年「明月記」の記事を欠く
 「枕草子」、「秋篠月清集」、「散木奇歌集」を書写 
 興福寺、多武峯を焼く 七条院(後鳥羽院母、藤原殖子)没72歳
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木

           
寛喜元年 1229 68歳 心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
 「後撰集」、「長秋詠藻」を書写 連歌会大勢
 宇都宮頼綱より障子歌として大和国名所和歌五首を請われ、詠み送る
 女御シュン子入内屏風和歌詠進(寛喜元年女御入内屏風) 
 98家隆「かぜそよぐ」(新勅撰集 夏192)詠 娘因子の出仕(女御シュン子)について96公経に請われ、援助有り 
 菅原為長 侍読
 藤原兼子(後鳥羽院乳母)没75歳 京都、日照りが続く
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな
   
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寛喜二年 1230 69歳 嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり
 「摩訶止観」加点を終える 因子の装束の負担が耐えがたくなり96公経の援助有り 
 道家より勅撰集撰進の企図あり意見を求められる 道家(91良経男)、実氏(96公経男) 、教実(道家男)、
 信実(異父兄隆信男)たちの百首歌を見て加点する 任中納言の望み薄し落胆 

 庭を掘り麦畑とし凶作に供える 
 11月に麦実り、桜咲き、筍生え、郭公鳴く など季節異変 京都暴風雨 鴨川氾濫 気温不順大凶作 
 客星出づに、甚だ不吉と安倍泰俊(陰陽師)に「客星出現例」を調べさせ、
 皇極天皇元年(642)、
 陽成院・貞観19年(877)、
 宇多天皇・寛平3年(891)、
 醍醐天皇・延長8年(930)、
 一条院・寛弘3年(1006)、
 後冷泉院・天喜2年(1054)、
 六条院・永万2年(1166)、
 高倉院・治承5年(1181)の8例の報告を受ける

 松殿基房(父76藤原忠通、母秀73源国信女)没86歳 承明門院姫宮(土御門院皇女21歳)没 愛寿御前出家67歳
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ

           
寛喜三年 1231 70歳 さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ
 「伊勢物語」、「大和物語」、「拾遺集」など書写 春日神社参詣3首詠む 
 公経命により物語歌を障子絵に書かせるために、「源氏物語」から歌を書きだす
 任中納言を強く望むが叶わず
 四条天皇(父後堀河天皇、母シュン子(九条道家女)生 
 96公経「はなさそふ」(新勅撰集 雑1052)が病により出家(入道前太政大臣) 
 盗賊横行する 豪雨により鴨川氾濫  餓死者街頭に満ち悪臭屋内に満つ 
 定家の家僕皆浮腫にかかる 諸国大飢饉
 土御門院が阿波にて没37歳 
夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く

           
貞永元年 1232 71歳 夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く
 この年「明月記」記事に脱落多い  権中納言任(1/30) 関白左大臣教実(道家男)家百首   

 後堀河天皇より勅撰集編纂の御下命を賜る(6/13) 道家家歌合が頻繁に行われる 
 101右衛門督為家「たちのこす」(新勅撰集 春下101)詠(7月)

 「御成敗式目」制定(8月)

 「新勅撰集」の序及び目録を奉覧(10/2)

 四条天皇即位2歳(10/4) 藤原教実(道家男)任摂政 権中納言辞す(12/15) 明恵没60歳  
もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし

           
天福元年 1233 72歳 音に聞く 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ
 「千載集」、「拾遺集」書写 皆既月食( 3/27) 

 俊成卿女の娘没40歳 近衛基通(父近衛基実、養母平盛子)没74歳 
 火星が鬼宿に侵入(6/15) 怪異天変がいろいろ起き、世情の不安を嘆く 
 藻壁門院(道家女シュン子四条母)没25歳 準じて因子と香(定家女)出家

 明朝9月19日為子(為家女)生 のちの後嵯峨院大納言典侍 「拾遺集」贈「鍾愛之孫姫」

 97定家出家、法名明静 100順徳院の「新勅撰和歌集」入集への関心を耳にする 
 家長より99後鳥羽院が定家の出家を驚いたと聞く 
 「俊成卿女集」自選、「建礼門院右京大夫集」(定家命)提出 
 勅撰集入集を願う来訪者多くあり この頃に源氏釈「奥入」著
高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
   
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文暦元年 1234 73歳 高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
 「伊勢物語」 贈鍾愛之孫姫、「後撰集」 贈鍾愛之孫姫。 「古来風体抄」など書写、  
 後堀河院より五首賜り、「新勅撰集」完成を急ぐ(5月) 「新勅撰集」草稿本奉る(6/3)
 後堀河院没23歳(8/6) 「新勅撰集」草稿を焼く(8/7) 

 火星が鉞星(ふたご座のηGem)に侵入 建仁2年(1202)に同じ事有り 
 「八代集秀逸」を道助法親王に進上(9/8) 

 道家が後堀河院の許の「新勅撰集」草稿本を尋ね出し選集継続させる(10月下旬)  
 道家、教実父子が「新勅撰集」から百余首削除させる(11/10)(百練抄、識語) 

 仲恭天皇(順徳院男)没17歳 源家長没
 将軍頼経室竹御所(頼家女)没33歳(頼朝直系子孫断絶)
春日野の 下萌えわたる 草の上に つれなく見ゆる 春の淡雪

           
嘉禎元年 1235 74歳 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ 激しかれとは 祈らぬものを
 菅原為長が任参議 菅原輔正(24道真ひ孫)の996年の任参議以来239年ぶり
 「新勅撰集」完成(世尊寺行能書) 道家に献ずる(3/12)
 教実没25歳(3/28) 「土佐日記」書写(5/13)  後鳥羽院の環京を願うが鎌倉が拒否(5/14)

 宇都宮頼綱の求めに応じて
 1天智天皇より、94雅経、98家隆までの歌を色紙に書いて送る(5/27)
 10月頃疱瘡流行 死者多数 鍾愛の孫(為家女為子か)や為氏など定家邸の女子発病 
 98家隆が従二位になる
音に聞く 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ

           
嘉禎二年 1236 75歳 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
 「明月記」この年以降記事現存せず 「後撰集」書写 
 101為家が権中納言任、右衛門督を辞す 101為家が「土佐日記」紀貫之自筆本を書写(8/29)
 源具定(俊成卿女男)没37歳
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ

           
嘉禎三年 1237 76歳 わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波
 複数回、「古今集」書写 贈鍾愛之孫姫及び藻璧門院少将(藤原信実女) 「順徳院百首」加点・加判 「俊頼髄脳」書写 
 98従二位家隆が天王寺にて没80歳
山桜 咲き初めしより ひさかたの 雲居にみゆる 滝の白糸
   
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暦仁元年 1238 77歳 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
 「僻案抄」を順徳院に送る 将軍頼経上洛 北白川院陳子没66歳 宣秋門院任子没65歳 
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

           
延応元年 1239 78歳 淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守
 99後鳥羽院隠岐にて没60歳 (諡号顕徳院) 三浦義村没72歳?   
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ

           
仁治元年 1240 79歳 秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ
 藤原長綱に「僻案抄」の一見を許す 「治承物語」書写される 藤原秀能没57歳 北条時房没66歳      
わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波

           
仁治二年 1241 80歳 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
 101為家、権大納言任 97定家没80歳(8/20) 為家、服解復任せず 
秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ
   
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仁治三年 1242 81 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
 四条天皇没12歳 
 御嵯峨天皇(1220〜1242−1246〜1272)践祚(父土御門天皇、母通子(源通宗(通親男)女)) 
 忠成王(父順徳院)22歳践祚できず 
 100順徳院佐渡にて没46歳 
 99顕徳院→後鳥羽院
 北条泰時没60歳
淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守

           
寛元元年 1243 82 思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり
契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

           
寛元二年 1244 83 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
 96入道前太政大臣(公経)没74歳      
思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり

           
寛元三年 1245 84 ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき
 為家女(母宇都宮頼綱女) 後嵯峨院大納言典侍叙任 
ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき
   
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寛元四年 1246 85 夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり
 為家母(藤原実宗女)没81歳
 後深草天皇(1243〜1246−1260〜1304)践祚 後嵯峨院の院政 
夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり

           
宝治元年 1247 86 嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
 「宝治合戦」三浦泰村(義村男)没44歳
ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる

           
宝治二年 1248 87 むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
 101為家、後嵯峨院より勅撰集編纂の御下命を賜る      
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

           
建長元年 1249 88 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき
 100佐渡院→順徳院    
嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
   
  上にもどる

           
建長二年 1250 89 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
 この頃、為家女(後嵯峨院大納言典侍) 二条道良(九条道家孫)と結婚
難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき

           
建長三年 1251 90 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず
 101為家54歳、第十代「続後撰集」奏覧     
きのくにの ゆらのみさきに 拾ふてふ たまさかにだに 逢い見てしかな

           
建長四年 1252 91 きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む
 越部禅尼消息(俊成卿女が為家に宛てた手紙) 
 九条道家没60歳 「小倉百人一首」を道家没後に世に広めたか?   
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず

           
建長五年 1253 92 わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし
 阿仏尼、為家の助手     
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
   
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建長六年 1254 93 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも
 京極為兼(京極為教男)生
むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

           
建長七年 1255 94 みよし野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣打つなり
わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし

           
康元元年 1256 95 おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染めの袖
 為家出家、法名融覚    
きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む

           
正嘉元年 1257 96 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染めの袖
   
  上にもどる
           
正嘉二年 1258 97 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
みよし野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣打つなり

           
正元元年 1259 98 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
 後嵯峨院より「続古今和歌集」編纂の御下命を賜る 宇都宮頼綱没82歳
 九条道良没26歳 4年後に後嵯峨院大納言典侍(鍾愛之孫姫)没(1233〜1263 7月13日)31歳
 定家より贈られた勅撰集などは、没後3回忌に冷泉家の祖、為相(1263〜1328 母阿仏尼)に贈られる。
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも

           
文応元年 1260 99 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身
 嵯峨中院邸に転居 正室宇都宮頼綱女と離別
 亀山天皇(1249〜1260−1274〜1305)践祚(大覚寺統)祖 
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

           
弘長元年 1261 100 ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
 権中納言定家生誕100年
 「弘長百首」(七玉集、後嵯峨院による応制百首)提出 
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

           
弘長二年 1262 101 たちのこす 梢もみえず 山桜 花のあたりに かゝる白雲
 第十一代「続古今和歌集」選者に反御子左家の四人を追加 九条基家・衣笠家良・六条行家・真観(葉室光俊)。文永二年(1265)奉覧。
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
 
   ★第九代「新勅撰集」に始まる十三代集と準勅撰集「新葉集」の成立年略図
     注:紺色の横線は兄弟を表しています
80代高倉天皇
1161生〜1181没
 21歳






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1185
平家滅亡



1221
承久の乱
守貞親王
1179生〜1223没
45歳




82代後鳥羽天皇
1180生〜
1183−1198
1205
新古今集
藤原定家,他

1239没 60歳
















|| ||

86後堀河天皇
1212生〜
1221−1232
1234没 23歳
1235
9新勅撰集
藤原定家
83土御門天皇
1195生〜
1198−1210
1231没 37歳 






















||




 
88後嵯峨天皇
1220生〜
1242−1246
1251
10続後撰集
藤原為家
1265
11続古今集
為家,他

1272没 53歳



 



 



 



 



 
持明院統 大覚寺統
1247
宝治合戦
三浦氏滅








89後深草天皇
1243生〜
1246−1260
1304没 62歳







90亀山天皇
1249生〜
1260−1274
1278
12続拾遺集
二条為氏

1305没 57歳











|| ||
蒙古襲来
1274
文永の役
1281
弘安の役






92伏見天皇
1265生〜
1287−1298

1312
14玉葉集
京極為兼

1317没 53歳







91後宇多天皇
1267生〜
1274−1287
1303
13新後撰集
二条為世

1320
15続千載集
二条為世

1324没 58歳












|| ||

95花園天皇
1297生〜
1308−1318
1348没 52歳


93後伏見天皇
1288生〜
1298−1301
1336没 49歳






96 後醍醐天皇
1288生〜
1318−
1326
16続後拾遺集
二条為藤,為定
1339没 52歳
94後二条天皇
1285生〜
1301−1308没
24歳











|| ||
|| ||
北朝 南朝 1337
1331
元弘の乱
1333
建武新政
1337
南朝始
北2光明天皇
1321生〜
1336−1348
1380没 60歳




北1光厳天皇
1313生〜
1331−1333
1349
17風雅集
親撰 花園院監修
冷泉為秀寄人

1364没 52歳




97後村上天皇
1328生〜
1339−1368没
41歳















|| ||
|| ||
1350~52
観応の擾乱

1358
1尊氏没
54歳


1367
2義詮没
38歳
北3崇光天皇
1334生〜
1348−1351廃位
1398没 65歳









北4後光厳天皇
1338生〜
1352−1371
1359
18新千載集
1足利尊氏執奏
二条為定

1363
19新拾遺集
2代足利義詮執奏
二条為明,頓阿

1374没 37歳




98長慶天皇
1343生〜
1368−1383










99後亀山天皇
1350生〜
1383−


















|| ||




伏見院・栄仁親王
よしひとしんのう
1351生〜1416没
66歳



北5後円融天皇
1359生〜
1371−1382
1384
20新後拾遺集
3代足利義満執奏
二条為遠,為重

1393没 35歳




1381
準勅撰集・新葉集
宗良親王
(1311-1385)
父後醍醐天皇
母二条為世女



1394没 52歳








|| ||


1408
3義満没
51歳

伏見院・貞成親王
さだふさしんのう
1372生〜1456没
85歳
北6
100後小松天皇
1377生〜
1392−1412
1433没 57歳










−1392
南朝終











|| ||




1441
6義教没
48歳

1467
応仁の乱
102後花園天皇
1419生〜
1428−1464
1439
21新続古今集
6代足利義教執奏
飛鳥井雅世,
(1452没63歳)

1471没 53歳


101称光天皇

1401生〜
1412−1428没
28歳

















1424没 75歳















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メモ: 9「新勅撰集」は後堀河上皇崩御後に四条天皇の外祖父、摂政九条道家に献上してます。 実際、藤原定家は上皇崩御の翌日に手元にあった草稿本を焼却しました。

持明院統、大覚寺統のおりおりの天皇は「勅撰集」編纂の勅命をだしますが、南北朝に分かれたのちは、 京極派の光厳天皇親撰の17「風雅集」を最後にして、足利将軍執奏という過去に例のない形式で勅撰集が編纂されていきます。

室町時代の将軍は、初代尊氏、2代義詮、3代義満と続きますが、 尊氏執奏の18「新千載集」のあと僅か4年後に義詮執奏の19「新拾遺集」が選集されたりします。

尊氏は政治を行い、神をまつり、文化を継承してその正当性が認められるものであると認識し、 あの時点において三種の神器をもたずして北4後光源天皇を即位させ、勅撰和歌集編纂の勅を出すことによって、 伝統文化の継承も世に知らしめました。

その後、南朝でも準勅撰集として「新葉集」ができます。南朝が正統ならなぜこの準勅撰集を勅撰集としなかったのか。 「新葉集」のあとに北朝はすぐに義満の執奏により20「新後拾遺集」を奏上させました。 そして55年後に編纂された21代目を最後に勅撰和歌集の幕を閉じます。

しかし500年後には南朝が正統であると定められてしまい現在にいたってます。
 

 参考資料:
 「明月記研究提要」明月記研究会編 八木書店 2006年11月20日 初版発行
 「藤原定家」 村山修一 吉川弘文官 2000年(平成十二)11月1日新装版第三刷発行
 「定家明月記私抄」 堀田善衛 ちくま学芸文庫。2010年6月20日 第五刷発行
 「定家明月記私抄続編」 堀田善衛 ちくま学芸文庫。2012年6月10日 第六刷発行
 「定家「明月記」の天文記録」ー古典文学による解釈ー 斉藤国治 慶友社 1999年1月20日第一刷発行
 「藤原定家全歌集 上」久保田淳校訂・訳 ちくま学芸文庫 2017年8月10日 第1刷発行
 「藤原定家全歌集 下」久保田淳校訂・訳 ちくま学芸文庫 2017年8月10日 第1刷発行
 「異端の皇女と女房歌人」田淵句美子 角川選書 平成26年2月25日 初版発行
 「藤原俊成女」神尾暢子 新典社 2005年5月17日 第1刷発行
 「藤原為家」佐藤恒雄 笠間書院 2012年6月30日 初版第1刷発行
 「秋思歌 秋夢集 新注」岩佐美代子 青簡舎 2008年6月13日 初版第一刷発行 
 「阿仏尼」 田淵句美子 吉川弘分館 2009年(平成二十一)12月10日 第一版第一刷発行
 「千載和歌集」久保田淳校注、岩波文庫 2012年7月11日 第7刷発行
 「新古今和歌集」久保田淳訳注 角川ソフィア文庫 平成20年5月5日 再版発行
 「新勅撰和歌集」中川博夫 和歌文学体系6 明治書院 平成17年6月25日発行
 「新勅撰和歌集」 久曽神昇、樋口芳麻呂校訂 岩波書店 2009年2月19日 第4刷発行
 「続後撰集総索引」滝沢貞夫編 明治書院 昭和58年 11月25日発行
 「続後撰和歌集全注釈」木船重昭編著 大学堂書店 1989年1月20日発行
 「新葉和歌集」岩佐正校訂 岩波文庫 1992年9月28日 第3刷発行
 「勅撰和歌集入門 和歌文学理解の基礎」 有吉保 勉誠出版 2009年10月25日 初版発行
 ウエッブサイト「「藤原定家は、なぜ超新星の記録を残したか」(臼井正)
 ウエッブサイト「「やまとうた」」   
 訳注1)「千載和歌集」(久保田淳校注、岩波文庫)
 訳注2)「小倉百人一首あ・ら・かるた」より「親になって知る親心」
 訳注3)「続後撰和歌集全注釈」(木船重昭編著、大学堂書店)
 訳注4)「新古今和歌集」(久保田淳訳注、角川ソフィア文庫)   
 訳注5)「藤原定家全歌集」(久保田淳校訂・訳、ちくま学芸文庫)


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