正面玄関百人秀歌と百ト一首最勝四天王院北斗七星信仰水無瀬離宮定家略年譜百人秀歌の歌人たち



 
◆ 定家略年譜(1162−1241)とその後      (2017/12/24→2020/7/11)

今まで色々な角度から「百人秀歌」と「百ト一首」を眺めてきたが、いつの頃からか定家の年譜と歌の意味がリンクしているように感じ始めていた。 特に定家の母である美福門院加賀が亡くなったのが定家32歳の時。新古今集撰集終功の竟宴を欠席して99後鳥羽院を更に苛立させたのは44歳の時。 32,44という数字は歌集の共通番号です。

「百ト一首」の方は大体作者の時代順に成っていると言われてますが所々で大幅に違っています。20番の元良親王は、 生誕順でも没年順でも35,6番目くらいの人です。何故こんなに前に来ているのかを考える時、「明月記」に書かれている定家20歳の時の89式子内親王ことが浮かんできます。

また64歳の時に一家総出で源氏物語の書写を完成させていますが、64番の定頼の歌は「源氏物語」の宇治十帖を彷彿とさせると評されています。 こういう風に当てはめていくと、定家は600年の歴史の上に自分史を載せたのではないかと思うようになりました。

当時、70歳を過ぎた定家は自分の人生をどのように思い起こしていたのでしょう。私たちがよく知る歴史上の大事件も当時において定家やその周囲の人たちにとっては日々の生活に追われで気にすることもなく過ぎたこともあったでしょうし、 反対に私たちの知りえない家庭内の事で日々頭を悩ましていたことも多かったでしょう。

定家が、この二つの歌集を完成させたのは73歳前後と思ってます。 後堀河院より勅撰集編纂のご下命を賜った71歳「71ゆうされば」から75歳「ちぎりおきし」までは、 「新勅撰集」編纂時の思ひを先人の歌を借りて表しているのでしょうか。

<秀歌集の歌人たち・T.9 式子内親王と定家>のサイトでは、71番以降の30首でもって89式子内親王と97定家の物語的悲哀の筋立てをしましたが、 此処では、6番「かささぎの」と秀6番「あまのはら」から始まり、76番の「わたのはらこ」と秀76「やまざくら」までの71組の組み合わせによって、 森羅万象すべてを手中に収めてしまったのではないでしょうか。

定家自身が「百人秀歌」に「自分の赴くままに撰んだので他人にとやかく言われる筋合いはない」ということを漢文で奥書に記してます。 二つの歌集が同時に世に出たとは思えないので、「百人秀歌」の方が先に出て、 少なくとも宇都宮頼綱に頼まれた和歌式紙は「百人秀歌」から撰んで書き送ったと思いますが、いつどこで「百ト一首」と代わってしまったのかな。

下の「略年譜」では各年齢の上段に「百ト一首」の歌を、下段に「百人秀歌」の歌を記しました。
歌人名の前にある数字は「百ト一首」番号です。


       
1歳〜10歳 11歳〜20歳 21歳〜30歳 31歳〜40歳 41歳〜50歳
51歳〜60歳 61歳〜70歳 71歳〜80歳 その後1 その後2
 
 
           
応保二年 1162 1歳 秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わが衣手は 露にぬれつつ
 97定家誕生 父は83俊成、母は美福門院加賀(藤原親忠女)
秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わが衣手は 露にぬれつつ

           
応保三年 1163 2歳 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

           
長寛二年 1164 3歳 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む
 76法性寺入道前太政大臣・藤原忠通没68歳  77讃岐院没46歳(1184年追号・崇徳院) 
 平清盛は「平家納経」を厳島神社に奉納 六条天皇(父二条天皇)生
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む

           
永万元年 1165 4歳 田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
 「詞華集」編纂の79顕輔の男・84藤原清輔は春頃に「続詞華集」成立 二条院没23歳(7/28) 
 「続詞華集」奉覧前にて勅撰集にならず 六条天皇践祚2歳
 摂政は近衛基実(76藤原忠通四男、母は秀73源国信女)
田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
   
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仁安元年 1166 5歳 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
 従五位下に叙される 光季を季光と改める 
 定家妻(藤原実宗女・96公経姉)生 近衛基実没24歳
かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける

           
仁安二年 1167 6歳 かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける
 紀伊守に任 季光を定家と改める 父は彰広から俊成と改める 
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

           
仁安三年 1168 7歳 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
 六条天皇退位5歳(史上最年少の上皇) 高倉天皇(父は後白河天皇、母は平滋子)即位8歳
 建御前(定家姉・たまきはる作者)が後白河院皇后平滋子に初出仕 
わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟

           
嘉応元年 1169 8歳 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
 91九条良経(九条兼実男)生 89式子内親王(父は後白河天皇、母は藤原成子)が賀茂神社退下する
奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
   
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嘉応二年 1170 9歳 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
 摂政松殿基房(76藤原忠通五男、母は秀73源国信女)の行列が平重盛の兵に襲撃される 
 94藤原雅経(父は難波頼経、母は源顕房孫 飛鳥井家祖)生
立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む

           
承安元年 1171 10歳 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
 96西園寺公経生 俊成卿女(父は藤原盛頼、母は八条院三条)生 源通具(父は源通親、俊成卿女の夫)生
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

           
承安二年 1172 11歳 わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟
 俊成が養子にしていた甥の定長(87寂蓮)33才頃出家 84藤原清輔が「尚歯会」(齢を尊ぶ会)開催
すみの江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ

           
承安三年 1173 12歳 天つ風 雲の通い路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
 この頃、建礼門院右京大夫は徳子(平清盛女)の高倉天皇中宮付きとして出仕 明恵生、親鸞生
筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
   
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承安四年 1174 13歳 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
 後白河院と健春門院、福原・厳島御幸
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

           
安元元年 1175 14歳 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに
 侍従俊成は右京大夫を辞し、定家を侍従に申し替える 赤斑病で重体に陥る 京都大風
わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり

           
安元二年 1176 15歳 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ
 83俊成は病により出家、法名釈阿63歳  
 これ以降、文治5年(1189年定家28歳)までに、定家母は「源氏一品経書写供養」を主催

 紫式部ためとて、結縁供養養し侍ける所に、薬草?品を送り侍とて 権大納言宗家
  法の雨に 我もや濡れん むつましき 若紫の 草のゆかりに (新勅撰集 釈教歌602) 

 高松院(二条天皇中宮)没36歳 健春門院平滋子(後白河院妃)没35歳 六条院没13歳 九条院(近衛天皇中宮)没46歳
天つ風 雲の通い路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ

           
治承元年 1177 16歳 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
 疱瘡にかかり重体に陥る 安元の大火 鹿ケ谷事件 京都強盗横行 84藤原清輔没74歳 
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
   
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治承二年 1178 17歳 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
 「賀茂別雷社歌合」(83俊成が判者)に三首出詠 記録に残る初出 
 姉八条院按察使の夫藤原宗家の養子となる 83俊成は歌道の長者として九条兼実(91良経の父)に招かれる  安徳天皇(父高倉天皇、母平徳子(平清盛女)生 宇都宮頼綱生 ★定家は歌人として業平のようにありたいと思っていたらしい
陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れむとおもふ われならなくに

           
治承三年 1179 18歳 すみの江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ
 83俊成より古今伝授を受ける 大納言藤原宗家の拝賀に参仕 平重盛没42歳
清盛は後白河院を幽閉 京都強盗横行
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ

           
治承四年 1180 19歳 難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや
 従五位上に叙される 「明月記」始 高倉天皇譲位 安徳天皇即位3歳 
 高倉院が厳島御幸 京都大火 福原遷都 源頼朝挙兵 京都還都 平重衡が東大寺・興福寺を焼く
 高倉院の仏名会に参仕できず(83俊成の強い制止による)
 99後鳥羽院(父高倉院、母藤原殖子)生 以仁王没30歳 源頼政没77歳 
難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや

           
養和元年 1181 20歳 わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
 初学百首詠 83俊成と御所(89式子内親王)に参上 
 83俊成が出家(1176年)後初めて後白河院に参上、以後院に近侍
 諸国飢饉 この頃82道因法師(藤原敦頼・25藤原定方の末裔)没90歳? 
 皇嘉門院(崇徳院中宮・76藤原忠通女)没60歳 高倉院没21歳 平清盛没64歳 
わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
   
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寿永元年 1182 21歳 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな
 堀河院題百首(83俊成の命 父母感涙)詠 昨年からの飢餓により京都死者多数
山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば

           
寿永二年 1183 22歳 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ
 正五位下に叙される 後白河院近臣の藤原李能女(母平基盛女)と結婚か 
 83俊成が後白河院より勅撰集撰進の院宣 
 姉建御前が八条院に出仕(「たまきはる」著) 安徳天皇都落ち 
 99後鳥羽天皇4歳が践祚(2年間在位期間が重複)
今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな

           
元暦元年 1184 23歳 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
 「賀茂社歌合」二首出詠 光家(定家男)生 木曽義仲没31歳
 讃岐院→77崇徳院(寿永三年、翌日元暦に改元)
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに

           
文治元年 1185 24歳 このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
 少将雅行と殿上で争い除籍 平家滅亡 
 安徳天皇没8歳 建礼門院徳子(安徳天皇母、平清盛女)出家31歳 
 九条兼実(76藤原忠通六男)が源頼朝の要請で内覧 鎌倉幕府開府 (諸説あり) 京都で大地震
有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
   
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文治二年 1186 25歳 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
 左小弁定長への手紙(俊成自筆書状)に一首添える  入道皇太后宮大夫俊成

 あしたづの 雲ぢまよひし 年くれて かすみをさへや へだてはつべき (千載集 雑中 1158)  
  ・葦辺の鶴は雲の中で道に迷ったままで旧年もくれました。春霞さえすっかり隔ててしまうのでしょうか。 昨年の末に除籍処分を受けました我が子には 、春になってもお許しがないのでしょうか。訳注1)

 後白河法皇から許しを得て、定長を通して返歌あり  藤原定長朝臣

  あしたづは 雲井をさして かへるなり けふ大空の はるるけしきに (千載集 雑中 1159)
   ・葦辺の鶴は春霞を分けて空に帰って行きます。鶴が迷った雲の中の道も今日は晴れるでしょう。 息子さんは還昇するようお許しがありました。 あなたの迷いも晴れるでしょう。訳注1)

 除籍を解かれる 二見浦百首(86西行の勧め)詠 摂政九条兼実(91良経父)に初参か? 
 以後九条家の家司 86西行が2度目の奥州下向、鎌倉で頼朝と会う
心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花

           
文治三年 1187 26歳 おぐら山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
 殷冨門院大輔百首詠 西行(86)から「宮河歌合」加判を求められるか? 朝幕関係は改善に向かい始める 
 頼朝は群盗鎮圧の任務 義経、奥州に逃れる 藤原秀衡没
ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ

           
文治四年 1188 27歳 みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ
 83俊成が「千載集」奏覧 97定家歌八首入選 
 95慈円(父76藤原忠通十一男)がこの年までに「おおけなく」の歌を詠む
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ

           
文治五年 1189 28歳 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
 左近衛権少将に任 西行の宮河歌合加判 陸奥で源義経没31歳 姉八条院按察の夫藤原宗家没51歳

 定家、少将になり侍て、月あかき夜、よろこび申侍けるを見侍て、あしたにつかはしける 権中納言定家母
 みかさやま みちふみそめし 月かげに いまぞこゝろの やみはゝれぬる (新勅撰集 雑二1159)
  ・三笠山の道を歩き始めた月の光(=昇進した息子の姿)に 今やわたしの心の闇は晴れました(=心配ごとはなくなりました) 訳注2) 
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
   
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建久元年 1190 29歳 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花
 従四位下に叙される 一字百首 一句百首 花月百首(91良経邸) 西行(86)没73歳 
 99後鳥羽天皇元服 任子(九条兼実女)が入内、立后  東大寺上棟、後白河院御幸 源頼朝入京 
 89式子内親王が八条院呪詛の疑い、出家
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

           
建久二年 1191 30歳 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
 因幡権介を兼ねる 86西行一周忌に91良経と贈答歌各一首 91良経の「いろは47首」に和する 
 秀90藤原長方没53歳 81後徳大寺左大臣(藤原実定)没53歳 
 85俊恵法師(祖父71大納言経信、父74源俊頼)没?78歳?
月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど

           
建久三年 1192 31歳 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
 91良経邸で「いまこむと(21)」の歌を頭に置き33首詠 93実朝生 後白河院没66歳 
 89式子内親王が大炊御門殿から藤原経房(母俊成の姉妹 初代関東申次?)邸に還御  
 経房と頼朝は同時期に上西門院に仕えていた 源頼朝が征夷大将軍に任 鎌倉幕府開府(諸説あり) 
たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに

           
建久四年 1193 32歳 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり
 「六百番歌合」(良経主催) 藤原道家(91良経男)生 定家母・美福門院加賀(藤原親忠女)没 
 曽我兄弟が父の仇の工藤裕経を討つ
山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり
   
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建久五年 1194 33歳 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
 西園寺実宗女と結婚か 下野国司の訴えで宇都宮頼綱を配流
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

           
建久六年 1195 34歳 たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
 従四位上に叙される 定家長女・因子(母藤原実宗女)生 東大寺再建供養、頼朝上洛 
 昇子内親王(母中宮任子(九条兼実女))生 土御門天皇(母源在子(源通親の養女))生
おぐら山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ

           
建久七年 1196 35歳 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
 定家二女・香(母藤原実宗女)生 建久の政変(土御門通親) 九条兼実失脚 
 中宮任子(九条兼実女)内裏を退出する 89式子内親王が大炊御門殿に入居 九条家歌壇停止
名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな

           
建久八年 1197 36歳 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
 89式子内親王、91良経との贈答歌

 ふるさとの 春をわすれぬ 八重桜 これや見し世に かわらざるらん 
 式子内親王(続後撰集 春中112)
  ・あなたが以前住んでいたこの館の八重桜は主人が変わっても同じ様に今年も咲いています。 世の中は変ってしまってもこの桜はかつてあなたが見ていた桜とかわらないでしょうか。訳注3)

 八重桜 折知る人の なかりせば 見し世の春に いかであはまし 良経(続後撰集 春中113)
  ・八重桜を時節をよく分かって折り取ってくれる人がいなければ、以前に見た世の春にどうして会うことができたでしょうか。 お陰様で懐かしい昔の春に会うことができました。訳注3)

 100順徳院(父99後鳥羽天皇、母藤原重子(修明門院)藤原範季女)生 
 89式子内親王が橘兼仲夫婦の託宣事件に巻き込まれる 大姫(源頼朝女)没20歳
みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ
   
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建久九年 1198 37歳 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
 仁和寺宮五十首和歌(御室五十首)詠 守覚法親王五十首歌読ませ侍りけるに

 春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰に別るる 横雲の空 藤原定家朝臣 (新古今集 春上 38)
 ・空に浮橋をかけるような甘美で悩ましい春の夜の夢が途切れ、目が覚めた。暁方の空にたなびく横雲が嶺から離れてゆく。訳注5)

 建久年間(1190〜1198)に「松浦宮物語」著? 
 101為家(父定家、母藤原実宗女)生 土御門天皇即位4歳 後鳥羽院院政19歳 六代(平維盛男)没
浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき

           
正治元年 1199 38歳 忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな
 89式子内親王が体の不調続く 三人の子が瘧病を病む 越部庄洪水被害大 
 源頼朝没53歳 二代将軍頼家の親裁が止められ十三人の会議制となる
白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

           
正治二年 1200 39歳 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき
 正四位下に叙される  89式子内親王が守成親王(順徳院)の準母に決まる 

 99後鳥羽院により「正治初度百首」詠進の命を受け、 (定家自身は83俊成や96公経の助けで詠進できる)百首つくり83俊成、 兼実、91良経に下見を請う 92二条院讃岐の百首を見る 内昇殿聴される 

 89式子内親王は百首を定家に見せ、定家はその後91良経宅に行き、91良経の百首も見る
 99後鳥羽院が水無瀬離宮造営 101為家が水痘、痢病など病む 

 通具・俊成卿女の歌合に加判、返送  藤原経房没59歳
 姉の八条院三条(俊成卿女の母)没53歳
 90殷富門院大輔(母方が24菅家(菅原道真)の末裔)没?70歳?
忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな

           
建仁元年 1201 40歳 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
 「千五百番歌合」詠進 和歌所寄人 後鳥羽院熊野御幸に供奉 「新古今集」選者任命 

 89式子内親王没53歳 守成親王(100順徳院)の準母は殷富門院(式子の姉)がなる 
 大皇太后藤原多子(近衛天皇、二条天皇の「二代の后」)没62歳 為家が瘧病を病む

 この頃「無名草子」成立か? 俊成卿女(夫の通具が新古今集選者の一人)著? 建御前著?
逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
   
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建仁二年 1202 41歳 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
 左近衛権中将に任 「伊勢物語」書写 「水無瀬恋歌十五首歌合」

 俊成卿女が和歌堪能により後鳥羽院御所に初出仕 土御門通親没53歳 
 91良経が内覧、氏長者となる 

 87寂蓮没64歳 101為家が痢病など病む 従五位下5歳にて
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

           
建仁三年 1203 42歳 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
 美濃介に任 為家が着袴 道家(91良経男)元服 姉の八条院按察(故藤原宗家室)没50歳 
 新古今集の選歌献ずる 93実朝が征夷大将軍  

 83俊成が釈阿(俊成の法名)九十賀賜る(885年の15光孝天皇主催による12遍昭の70歳の賀に倣ったもの)  建礼門院右京大夫(父世尊寺伊行・26貞心公・45謙徳公・50藤原義孝の末裔)が贈り物の法服に宮内卿の歌を刺繍する

 桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな 99太上天皇 (新古今集 春下99) 
  ・桜の咲く遠山、それは山鳥の長く垂れた尾のように、永い永い春のひねもす眺めていても飽きない色だなあ 訳注4)
恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

           
元久元年 1204 43歳 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
 「宇治離宮歌合」講師 平氏一族、伊賀伊勢の両国で挙兵(三日平氏の乱)、平賀朝雅が討つ 
 教家(91良経次男)が良輔(兼実四男)の養子となり元服  83俊成没91歳
あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

           
元久二年 1205 44歳 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
 「新古今集」撰集終功の竟宴欠席 宇都宮頼綱が謀反を疑われて出家27歳 
 平賀朝雅の乱、京中騒動 北条時政出家
 藤原隆信(定家異父兄)没64歳  
逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
   
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建永元年 1206 45歳 あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
 無心有心連歌 91良経急死38歳 近衛家実(父近衛基通)が関白 吉富荘の地頭の件を後鳥羽院に訴える 
 源仲国夫妻の偽りの霊託事件
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは

           
承元元年 1207 46歳 由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え 行く方も知らぬ 恋の道かな
 99後鳥羽院の命により最勝四天王院の四十六間ある障子(襖)に名所絵と歌を描かく中心人物となる
 「最勝四天王院名所障子歌」46首詠進 九条兼実(91良経父)没 
 「最勝四天王院障子和歌」が替えられ憤慨 「新古今集」の切継が続き慨嘆

 法然を土佐へ、親鸞を佐渡へ配流 大地震
風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな

           
承元二年 1208 47歳 八重むぐら 茂れる宿の 寂しきに 人こそ見えね 秋は来にけり
 「住吉社歌合」に列する 体調不良が続く 道家が96公経女と結婚 東宮守成親王(100順徳天皇)元服
由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え 行く方も知らぬ 恋の道かな

           
承元三年 1209 48歳 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな
 立子(故91良経女)東宮妃 「新古今集」を何度か書写 93実朝に近代秀歌贈る 
 94雅経(飛鳥井家祖、妻大江広元女)が実朝と定家の間を取り持つ  
 101為家が東宮の昇殿を許される
みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ
   
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承元四年 1210 49歳 みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ
 讃岐権介に任 中将を辞し、101為家に左近少将に任じ替える 
 土御門天皇譲位16歳 守成親王(100順徳天皇)即位14歳 
 101為家が昇殿を許され、内蔵頭に任  伊勢神宮宝剣を天皇の宝剣とする
君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

           
建暦元年 1211 50歳 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
 従三位に叙される 「23大江千里集」書写 侍従 八条院ワ子内親王没75歳 
 春華門院昇子内親王(母中宮任子(九条兼実女))没17歳 

 「無名抄」鴨長明 光家(97定家長男)が内昇殿を許される 為家が落馬し重傷
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

           
建暦二年 1212 51歳 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
 98家隆が昇殿を許され感悦 99後鳥羽院が定家邸の柳2本召し高陽院の坪庭に移植
 七条院(後鳥羽院母)も定家邸の柳を召す 
 99後鳥羽院「ひともをし」(続後撰集 雑中1202)詠 
 99後鳥羽院が藤原秀能を鎮西に派遣し宝剣を捜索  「方丈記」鴨長明
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なを恨めしき 朝ぼらけかな

           
建保元年 1213 52歳 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なを恨めしき 朝ぼらけかな
 93実朝に秘蔵の「万葉集」を贈 101為家が和歌を学ばず蹴鞠熱中に嘆く 
 99後鳥羽院が定家邸の柳を召して高陽院に移植 
 光家が良輔(九条兼実四男)より与えられた山田荘を99後鳥羽院に召し上げられる
 光家が宇佐使を命じられる 

 96公経に任参議の件で愁訴する 「金槐集」(93実朝撰)書写(これ以前に成立) 
 93実朝「よのなかは」(新勅撰集 羈旅525、金槐集 旅部)  建礼門院徳子(安徳天皇母)没59歳

 この頃に、参議に任ぜられない歎きを、布引の滝を見て詠歌するか?
 音にのみ 聞き来し滝も 今日ぞ見る ありて憂き世の 袖や劣ると (続後撰集 雑上1013)
八重むぐら 茂れる宿の 寂しきに 人こそ見えね 秋は来にけり
   
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建保二年 1214 53歳 嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る
 参議に任 任参議を祝す家隆と和歌を贈答 93実朝に古今集書写 内裏人麿影供
よもすがら ちぎりしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき

           
建保三年 1215 54歳 忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな
 「定家八代抄」初撰本・精選本成立 内裏歌合の光家の歌が優れないことを嘆く

 光家自身が詠む
 たらちねや およばぬ山の 雪の道 ふもとにだにも なほやおよばむ (夫木和歌抄 題十八) 

 北条時政没78歳
心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

           
建保四年 1216 55歳 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
 正三位に叙される 治部卿 「定家卿百番自歌合」 拾遺愚草撰 「こぬひとを」(新勅撰集 恋三849)
 100順徳天皇「ももしきや」(続後撰集 雑下1205)詠 殷富門院(89式子姉)没70歳 鴨長明没62歳 
 藤原有家(六条籐家、新古今集選者の一人)没62歳  高階栄子(丹後局)没 
 93実朝渡宋計画 大江広元、官位上昇を求める実朝を諫める
忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな

           
建保五年 1217 56歳 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
 土御門院より御草紙を賜り古今集を書写し奉り、歌一首を添う 
 100順徳天皇より「御製百番歌合」を賜り、勝負を付して進上 
 93実朝が宋人陳和卿に作らせた船浮かばず  源頼家の遺児公暁が鶴岡八幡宮寺別当になる 
 92二条院讃岐(従三位頼政女)没?76歳?
嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る
   
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建保六年 1218 57歳 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
 民部卿に任 北条政子が熊野詣途次に入京 仲恭天皇(父100順徳天皇、母藤原立子(91良経女))生 
 光家(定家男)が仕えていた良輔(九条兼実四男)没34歳  93実朝が任右大臣(鎌倉右大臣)
嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり

           
承久元年 1219 58歳 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
 100順徳天皇に勅判請 93実朝が公暁に暗殺28歳 99後鳥羽院が最勝四天王院取り壊す 
 頼経(父道家、母96公経女)2歳が将軍後継として下向 姉建御前(たまきはる著)没か63歳
さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ

           
承久二年 1220 59歳 やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな
 播磨守兼任 母の28回忌 院より勅勘受ける 土御門院や道助法親王などから密かに歌を召される 
 95慈円が愚管抄 後嵯峨天皇(父土御門院、母通子(通親孫女))生 
 兄藤原成家没66歳 光家が賀茂臨時祭の舞人務める
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

           
承久三年 1221 60歳 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
 顕註蜜勘 94雅経(蹴鞠飛鳥井流祖)没52歳 順徳天皇譲位25歳 
 仲恭天皇即位4歳 101為家が仲恭天皇昇殿を許される 
 96公経一時幽閉 承久の乱 仲恭天皇(九条廃帝)  為家が出仕を止められる 後堀河天皇即位10歳

 99後鳥羽院は隠岐に、100順徳院は佐渡に配流 後高倉院(後鳥羽院の同母兄、後堀河天皇父)院政 
 101為家が後堀河天皇昇殿を許される 土御門院みずから土佐へ配流 為家が宇都宮頼綱女と結婚
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ
   
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貞応元年 1222 61歳 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
 参議辞し従二位 古今集4回、後撰集2回 拾遺集を書写 
 孫為氏(母宇都宮頼綱女・二条家祖)生
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

           
貞応二年 1223 62歳 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ
 古今集、後撰集、拾遺集を書写 為家(101)の千首和歌に加点 後高倉院(後堀河天皇父)没45歳 
 土御門院を土佐から阿波へ遷す
有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

           
元仁元年 1224 63歳 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな
 一家をあげて源氏物語の書写を始める 孫源承(俗名為定、101為家次男)生 親鸞が浄土真宗を開く 
 北条義時没62歳 96公経が北山の別荘に西園寺建立
やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな

           
嘉禄元年 1225 64歳 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木
 源氏物語書写終 為家が蔵人頭に歓喜する 
 教家(91良経次男)の出家に伴い仕えていた長男光家も出家42歳 
 95前大僧正慈円没71歳(諡号慈鎮和尚) 大江広元没78歳 北条政子没69歳 
 昨年末よりこの年前半、疫病流行 安倍泰俊(陰陽師)に鬼気祭を修めさせる
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
   
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嘉禄二年 1226 65歳 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
 俊成口伝の基づく歌学書「僻案抄」著 101為家が参議兼侍従任 一年を通じて連歌会が大勢 
 大雨で琵琶湖氾濫、一条京極邸の庭が池の如くなる 

 頼経(道家男)が鎌倉4代将軍  為家室の父宇都宮頼綱入洛 
 北条時政後室の牧の尼(為家室の祖母)が為家邸を訪問 大地震
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな

           
安貞元年 1227 66歳 もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
 民部卿辞す 正二位に叙される 孫為教(為家3男・京極家祖)生 盛んに写経を行い訪問客を断る 
 源通具(俊成卿女夫)没57歳 大地震 京に群盗横行 南隣に群盗入る 
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

           
安貞二年 1228 67歳 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
 枕草子、秋篠月清集、散木奇歌集を書写 
 興福寺、多武峯を焼く 七条院(後鳥羽院母、藤原殖子)没72歳
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木

           
寛喜元年 1229 68歳 心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
 後撰集、長秋詠藻を書写 連歌会大勢 女御シュン子入内屏風和歌詠進(寛喜元年女御入内屏風) 
 98家隆「かぜそよぐ」(新勅撰集 夏192)詠 娘因子の出仕について96公経の援助有り 
 藤原兼子(後鳥羽院乳母)没75歳 京都、日照りが続く
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな
   
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寛喜二年 1230 69歳 嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり
 摩訶止観加点を終える 因子の装束の負担が耐えがたくなり96公経の援助有り 
 勅撰集新撰の企図あり道家より意見を求められる 道家(91良経男)、実氏(96公経男) 、教実(道家男)、 信実(異父兄隆信男)たちの百首歌を見て加点する 任中納言の望み薄し落胆 庭を掘り麦畑とし凶作に供える 

 11月に麦実り、桜咲き、筍生え、郭公鳴く など季節異変 京都暴風雨 鴨川氾濫 気温不順大凶作 
 松殿基房(父76藤原忠通、母秀73源国信女)没86歳

 客星出づに、甚だ不吉と安倍泰俊(陰陽師)に「客星出現例」を調べさせ、
 皇極天皇元年(642)、
 陽成院・貞観19年(877)、
 宇多天皇・寛平3年(891)、
 醍醐天皇・延長8年(930)、
 一条院・寛弘3年(1006)、
 後冷泉院・天喜2年(1054)、
 六条院・永万2年(1166)、
 高倉院・治承5年(1181)の8例の報告を受ける
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ

           
寛喜三年 1231 70歳 さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ
 伊勢物語、大和物語、拾遺集など書写 春日神社参詣3首詠む 
 四条天皇(父後堀河天皇、母シュン子(九条道家女)生 
 土御門院が阿波にて没37歳 
 96公経「はなさそふ」(新勅撰集 雑1052)が病により出家(入道前太政大臣) 
 盗賊横行する 豪雨により鴨川氾濫  餓死者街頭に満ち悪臭屋内に満つ 
 定家の家僕皆浮腫にかかる 諸国大飢饉
夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く

           
貞永元年 1232 71歳 夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く
 権中納言任 関白左大臣教実(道家男)家百首   

 後堀河天皇より勅撰集編纂の御下命を賜る(6/13) 道家家歌合が頻繁に行われる 
 101右衛門督為家「たちのこす」(新勅撰集 春下101)詠(7月)

 新勅撰集の序及び目録を奉覧(10/2)

 四条天皇即位2歳(10/4) 藤原教実(道家男)任摂政 権中納言辞す(12/15) 明恵没60歳  
もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし

           
天福元年 1233 72歳 音に聞く 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ
 千載集、拾遺集書写 皆既月食( 3/27) 

 俊成卿女の娘没40歳 近衛基通(父近衛基実、養母平盛子)没74歳 

 火星が鬼宿に侵入(6/15) 怪異天変がいろいろ起き、世情の不安を嘆く 

 藻壁門院(道家女シュン子四条母)没25歳 準じて因子と香(定家女)出家
 為子(為家女)生 97定家出家、法名明静 100順徳院の「新勅撰和歌集」入集への関心を耳にする 
 家長より99後鳥羽院が定家の出家を驚いたと聞く 
 俊成卿女集自選、建礼門院右京大夫集(定家命)提出 
 勅撰集入集を願う来訪者多くあり この頃に源氏釈「奥入」著
高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
   
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文暦元年 1234 73歳 高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
 伊勢物語、後撰集 古来風体抄など書写、仲恭天皇(順徳院男)没17歳  
 後堀河院より五首賜り、新勅撰集完成を急ぐ(5月) 新勅撰集草稿本奉る(6/3)
  後堀河院没23歳(8/6) 新勅撰集草稿を焼く(8/7) 

 火星が鉞星(ふたご座のηGem)に侵入 建仁2年(1202)に同じ事有り 
 八代集秀逸を道助法親王に進上(9/8) 

 道家が後堀河院の許の新勅撰集草稿本を尋ね出し選集継続させる(10月下旬)  
 道家、教実父子が新勅撰集から百余首削除させる(11/10)(百練抄、識語) 
 ★二つの歌集「百人秀歌と百ト一首」を貞永元年(1232/7・71歳)以降この年までに編纂?
春日野の 下萌えわたる 草の上に つれなく見ゆる 春の淡雪

           
嘉禎元年 1235 74歳 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ 激しかれとは 祈らぬものを
 菅原為長が任参議 菅原輔正(24道真ひ孫)の996年の任参議以来239年ぶり
 新勅撰集完成(世尊寺行能書) 道家に献ずる(3/12) 
 教実没25歳(3/28) 土佐日記書写(5/13)  後鳥羽院の環京を願うが鎌倉が拒否(5/14)

 宇都宮頼綱の求めに応じて
 1天智天皇より、94雅経、98家隆(27藤原兼輔の末裔)までの歌を色紙に書いて送る(5/27)
 10月頃疱瘡流行 死者多数 鍾愛の孫(為家女為子か)や為氏など定家邸の女子発病 
 98家隆が従二位になる
音に聞く 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ

           
嘉禎二年 1236 75歳 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
 「明月記」この年以降記事現存せず 後撰集書写 
 101為家が権中納言任、右衛門督を辞す 101為家が土佐日記紀貫之自筆本を書写(8/29)
 源具定(俊成卿女男)没37歳
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ

           
嘉禎三年 1237 76歳 わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波
 複数回、古今集書写、順徳院百首加点・加判 俊頼髄脳書写 
 98従二位家隆が天王寺にて没80歳
山桜 咲き初めしより ひさかたの 雲居にみゆる 滝の白糸
   
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暦仁元年 1238 77歳 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
     崇徳院の怨霊を封印 
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

           
延応元年 1239 78歳 淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守
    
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ

           
仁治元年 1240 79歳 秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ
     
わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波

           
仁治二年 1241 80歳 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
      97定家没80歳(8/20) 
秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ
   
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1242 81 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
     
淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守

           
1243 82 思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり
契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

           
1244 83 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
     
思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり

           
1245 84 ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき
     六条藤家を封印
ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき
   
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1246 85 夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり
     六条源家を封印 
夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり

           
1247 86 嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる

           
1248 87 むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
     
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

           
1249 88 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき
     
嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
   
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1250 89 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき

           
1251 90 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず
     
きのくにの ゆらのみさきに 拾ふてふ たまさかにだに 逢い見てしかな

           
1252 91 きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む
   
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず

           
1253 92 わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし
     
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
   
  上にもどる

           
1254 93 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも
むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

           
1255 94 みよし野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣打つなり
わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし

           
1256 95 おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染めの袖
     
きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む

           
1257 96 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染めの袖
   
  上にもどる
           
1258 97 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
みよし野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣打つなり

           
1259 98 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
     
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも

           
1260 99 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身
     
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

           
1261 100 ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
     権中納言定家生誕100年 
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
   
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 参考資料:
 「明月記研究提要」(明月記研究会編、八木書店)
 「藤原定家」(村山修一、吉川弘分館)
 「定家明月記私抄」(堀田善衛、つくま学芸文庫)
 「千載和歌集」(久保田淳校注、岩波文庫)
 「新古今和歌集」(久保田淳訳注、角川ソフィア文庫)
 「藤原定家全歌集」(久保田淳校訂・訳、ちくま学芸文庫)
 「異端の皇女と女房歌人」(田淵句美子 角川選書)
 「藤原俊成女」(神尾暢子 新典社)
 「藤原為家」(佐藤恒雄 笠間書院)
 「阿仏尼」(田淵句美子 吉川弘文館)
 「新勅撰和歌集」(中川博夫 和歌文学体系 明治書院)
 「続後撰集総索引」(滝沢貞夫 明治書院)
 「続後撰和歌集全注釈」(木船重昭編著、大学堂書店)
 定家「明月記」の天文記録ー古典文学による解釈ー (斉藤国治 慶友社)
 ウエッブサイト「「藤原定家は、なぜ超新星の記録を残したか」(臼井正)
 ウエッブサイト「「やまとうた」」   
 訳注1)「千載和歌集」(久保田淳校注、岩波文庫)
 訳注2)「小倉百人一首あ・ら・かるた」より「親になって知る親心」
 訳注3)「続後撰和歌集全注釈」(木船重昭編著、大学堂書店)
 訳注4)「新古今和歌集」(久保田淳訳注、角川ソフィア文庫)   
 訳注5)「藤原定家全歌集」(久保田淳校訂・訳、ちくま学芸文庫)


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